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唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐初功臣傳40 張儉

2024-06-13 10:05:04 | Weblog
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張儉 字師約
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父植は隋車騎將軍.連城縣公。

儉は李淵[高祖]の從甥。

右衛郎將となった。

貞觀元年~四年
軍功をもって朔州刺史にいたった。

時に突厥頡利可汗は強盛で辺境州から脅し取っていた。

儉は屈せず、また屯田を経営し十萬斛とし軍糧を蓄積し民を安撫した。

四年
檢校勝州都督となり母憂で職を去った。

突厥が亡んだ後、思結部落は貧窮し離散していたが、儉は招慰して安住させ、外地に住む者も往来させて羈縻が成功していた。

儉が離任した後、叛乱が起きようとしたが、儉が慰撫すると、諸首領は帰服した。

四年
檢校代州都督に移ると、やはり營田を勧め、和糴を行ったため蕃人は喜悅、軍食は充足した。

十四年~永徽四年
營州都督兼護東夷校尉に移ったが、坐事削官。

十五年十一月
しかし白衣[無官位]假營州都督として契丹、奚、靺鞨諸蕃を率いて高麗を大破した。
そして營州都督兼護東夷校尉に復した。

十六年十一月
高麗東部大人泉蓋蘇文が王武を弑殺したと奏した。

十八年七月
太宗が遼東を征した時、蕃兵を率いて先行した。

十一月
儉軍は遼水の氾濫のため、逗留したと疑われて召還されたが、実情を報告し献策し、太宗は喜んで
行軍總管兼領諸蕃騎卒として六軍前鋒とした。当時博臨縣男であった。

十九年四月
高麗莫離支が自ら遼東に来ると聞き、儉は新城より迎撃に出たが、莫離支とは遭わず、遼水を渡って
建安城に高麗軍を大破した。功により封皖城郡公。

その後,東夷校尉より東夷都護となった。

二十年六月
執失思力・契苾何力・薛萬徹等と薛延陀を討った。

永徽初
加金紫光祿大夫。

四年
卒 60歳。謚曰密
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