TVの民放では、肝心なところでCMが入って興ざめすることがよくあります。
しかし、スポンサーからすれば自社製品を売り込むための有効な手段であり、短時間に如何に視聴者にインパクトが与えられるか、その制作手腕が問われるところです。
そのCMについては好感度調査があるようです。
先日の某新聞記事によれば、自動車関連のテレビCMに関する11月調査で、最も好感度が高かったのは日産自動車のCMだそうです。
この調査は、CM総合研究所が関東地方の男女3000人を対象に、10月下旬~11月中旬にかけて実施したもので、インパクトや物語性を追求したCMが上位に入ったそうです。
トップの日産は、矢沢永吉が走行中の車のハンドルから手を離し、自動運転への取り組みをアピールするCMで、「やっちゃえNISSAN」のフレーズが強い印象を残したということです。
調査では、「時代の先端を感じた」との感想が多く、30~50歳代の男性の支持を集めたということです。
私はこのCMを観たことがなかったので、ネットで調べてアップしました。
これが「やっちゃえNISSAN」のCMです。
参考までに11月調査における自動車関連のCM好感度ランキングベスト10は次の通りでした。
企業 商品名など
1位 日産 企業CM[やっちゃえ]
2位 ダイハツ キャスト
3位 トヨタ 企業CM(TOYOTOWN)
4位 いすゞ ギガ
5位 メルセデス・ベンツ スマート
6位 スズキ ハスラー
7位 住友ゴム工業 ダンロップ スタッドレスタイヤ
8位 スズキ ソリオ
9位 JX日鉱日石エネルギー 企業CM(エネオス)
10位 富士重工業 フォレスター
湯豆腐
所用のため一週間ほどブログの書き込みを休ませていただきました。
今日から再開しましたのでよろしくお願いします。
ブログを休んでいた一週間ほどは岡山県の瀬戸内に近い実家に帰っていたのですが、明け方の気温は、私が住んでいる大阪の泉州より2~3度くらい低く、毎朝霜が降りて畑が白くなっていました。
それでも今年は例年より暖かいという事でした。
さて、このように寒くなると、湯豆腐や寄せ鍋、ボタン鍋、ちゃんこ鍋、もつ鍋などの温かい鍋料理が一番ですが、なべ料理に欠かせない食材に豆腐があります。
でも鍋でグツグツ煮込んだ後の豆腐は箸でなかなかつかみにくいですよね。
折角の豆腐の味わいも崩れてしまうとその味が損なわれてしまいます。
先日、某テレビ局が豆腐を崩さずに箸でつまむ方法を特集していたのでご紹介します。
「豆腐を崩さずに箸で持つ方法」
1.角のない丸い箸を使う
箸にはいろいろな種類がありますが、豆腐をつかむのに最適なのは四角い箸ではなく、断面が丸い形状のものがベストだそうです。
丸い箸で掴むと豆腐の表面に窪みができるので掴みやすくなるということです。
2.掴む面積を広くとるように斜めに掴むこと。
できるだけ接地面積が多くなるように対角線でつまむと、力が分散され、持ち上げやすくなるとのことです。
3.豆腐を四角に切るのではなく、三角形に切って鍋に入れること。
三角形の頂点が下になるような形で掴むと滑ることなく、簡単に持ち上げられます。
4.ゆずの汁を入れて10分ほど待つ
鍋の薬味であるユズを絞り、その果汁を鍋に入れて10分ほど待ちます。
豆腐には酸性のものを入れると固まる性質があることから、ゆずの果汁を入れたことで、お豆腐の表面が固まり、それによってつかみやすくなるのだそうです。
この場合、固いのは表面だけで、中は変化なく、豆腐の触感が味わえるそうです。
「とろとろ湯豆腐」
前述のように、豆腐は酸性のものを加えると固くなりますが、逆にアルカリ性のものを加えるとトロトロになります。
この性質を活かしたのが「とろとろ湯豆腐」です。
そのレシピは次の通りです。
1.材料・・・・・絹ごし豆腐1丁半、水800cc、食用重曹5gを用意します。
2.作り方・・・重曹を入れた水に豆腐を入れて普通に湯豆腐を作っていくだけです。
重曹を加えた水はアルカリ性になるので、豆腐はトロトロと溶け出し、まるで豆乳の様な表情になります。
温泉地の温泉水はアルカリ性なので、その性質を利用して作られているのが温泉地のトロトロの湯豆腐だそうです。
トロトロ湯豆腐が好きだという方は一度お試しされては如何でしょうか。
先日のニュースで、自動的にドクターヘリに通報するシステムについて報じていました。
その内容は、大手自動車メーカーと、ドクターヘリを運用する病院などが、重大な交通事故が発生した場合に、自動的にドクターヘリに通報するシステムを共同で開発し、11月30日から試験的に運用を始めたと言うものです。
このシステムは、トヨタ自動車やホンダ、それにドクターヘリを運用する病院で作るNPO法人「救急ヘリ病院ネットワーク」などが共同で開発したもので、北海道や千葉県、長崎県など全国9つの病院で30日から試験的に運用を始めたそうです。
交通事故が発生すると、車が衝突した時の速度などのデータが直ちに専用のコンピューターに送信され、280万件に上る過去のデータと突き合わせて重大な事故と判断すれば、ドクターヘリを運用する病院に自動的に通報する仕組みだそうで、ドライバーが意識を失い、目撃者がいない場合も迅速に対応できるということです。
素晴らしいシステムが運用開始になったようですが、でも、それに頼ることなく、交通事故を起こさないように、安全運転を心掛けて欲しいですね。
ところで、ヘリコプターと言えば、もし飛行中にヘリコプターのエンジンが止まってしまったら、一体どうなるのでしょうね。
石のように落ちてしまうのでしょうか?
ご安心ください。エンジン故障などによって動力を失ったヘリコプターでもすぐには墜落しないように、オートローテーション(自動回転)と呼ばれる飛行方法によって緩やかに降下できるよう工夫されているそうです。
丁度、竹トンボが落ちてくるのと同じような感じで降りてくるようで、ヘリコプターの飛行訓練中には必ずこの練習をすると言うことです。
つまり、練習するくらい安全だということです。
但し、機体を立て直すためには最低200メートル以上の高度が必要なことと、瞬時に的確な着陸地点を見つける必要があるそうです。
時々、「ヘリコプターが墜落。乗員は全員死亡」と言うニュースを耳にしますが、これは安全に着陸できる場所が発見できなかったために起きた不幸な事故で、もし、牧場などが近くにあったら安全に不時着できた筈ではないか、と考えられるということです。
とは言っても、何トンもの鉄の塊が空を飛んでいる訳ですから絶対に安全とは言えませんが、少なくとも飛行機のエンジンが突然止まった場合よりは安全なのだそうです。
・海上自衛隊の「オートローテーション(自動回転)」の訓練飛行の模様をご覧ください。
「お詫び」
いつも当ブログにアクセスいただきありがとうございます。
所用のため、明日から数日間(少し長引くかも知れません)、ブログの書き込みを休ませていただきます。
バイキングと言えば、各種料理を並べ、客が好みによって自由に取り分けて食べる形式の食事のことで、近年、ホテルの食事形態としてこの方式を取り入れているところが随分増えてきました。
しかし、バイキングとは、元々はバイキング時代(800年 - 1050年)と呼ばれる約250年間に西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンジナビア、バルト海沿岸地域の武装船団(海賊)を指す言葉なのです。
スカンジナビア、デンマークを根城にしてヨーロッパの海を荒らし回ったそのバイキングは大のビール好きだったようで、彼らがビールを飲む時に使ったジョッキは、殺した相手の頭蓋骨だったと言われています。
頭蓋骨でビールを飲むと聞くと野蛮な人種のように思われますが、当時はさほど珍しいことではなかったそうです。
例えば、ドイツでは、頭のいい人の頭がい骨でビールを飲むと頭がよくなると言われていたため、それを実践していたと言われています。
更に言語では、乾杯と言う意味の英語「skoal(スコール)」は、元々、頭蓋骨を指す「skulle(スカル)」からきていると言われています。
一方、日本でもこれと似たような出来事はありました。
織田信長は戦で破った浅井長政と長政の父・久政、そして朝倉義景らを斬首した後、彼等の頭がい骨で杯を作り(一説によれば金箔が貼られていたとも言います)酒宴に集まった家臣たちにそれを使わせたという記録が残っているそうです。
昔は、西洋も日本も同じような野蛮な人間がいたものですね。
バイキング料理です。(ネットより)
さて、その野蛮なバイキングの名称を「食べ放題」の食事形式にしたのは、昭和32年(1957年)に当時の帝国ホテル支配人の犬丸徹三で、彼が旅先のデンマークで目にしたスモーガスボードと言うスウェーデンの料理がきっかけと言われています。
このスモーガスボードはビュッフェ形式のお祝い料理で、これを帝国ホテルのレストランで提供しようとしましたが、「スモーガスボード」が非常に言いにくく馴染みが無いものだったため、名称を社内公募しました。
その結果「北欧と言えばバイキング」という発想と、当時、帝国ホテルわきの日比谷映画劇場で上映されていた『バイキング』(1958年)という映画の中の豪快な食事シーンが印象的だったことから、これを『バイキング』と名付けることに決定し、帝国ホテル内に『バイキングレストラン』を1958年にオープンしたそうです。
このレストランは大変好評を博し、バイキングはビュッフェレストランの代名詞となりました。
帝国ホテルに続けとばかりに、他でも真似をし始め、バイキングは日本中に普及したのだそうです。
嘗て、独特の形状をしたガラス瓶の清涼感もあって、夏の風物詩として長く親しまれてきた清涼飲料水に「ラムネ」があります。
当時、ラムネの栓はビー玉でしたが、当然のことながら、ビー玉の大きさは瓶の口より大きくなっています。
昔、地下鉄漫才で名を馳せた漫才師に春日三球・照代がいました。
彼等の地下鉄ネタに「地下鉄の電車はどこから入れたの? それを考えてると夜も寝られないの。」でした。
子供の頃の私は眠れない事はなかったのですが、ラムネ栓のビー玉をどのように入れたのか不思議でなりませんでした。
一体、どのようにして入れたのでしょうか?
そこで今日は子供の頃の疑問について調べてみました。
ラムネは日本で製造された最初の清涼飲料水とされていますが、日本への伝来は1853年浦賀に来航したペリー又は1860年長崎の英国商船が有力説のようです。
又、日本での製造は1865年頃で、当初はコルク栓を使用していたので、栓が乾かないように寝かせておく必要から、底が尖った「キュウリ型瓶」が使われ、栓が飛び出さないようにグルグル巻きに縛っていたということです。
・ラムネ瓶です(ウィキペディアより)
「コルクより簡単に栓をする方法」としてイギリスのハイラムコッドが発明したガラス玉栓がありました。
この特許が切れた1888年(明治21年)を境にして、日本でも「ビー玉栓ラムネ瓶」が普及する事になったそうです。
しかし、世界的な潮流としては、1892年(明治25年)にウイリアム・ペインターが発明した王冠栓が主流となり、それに伴ってガラス玉栓は廃れていきます。
そして、1908年(明治41年)、日本でも王冠栓の製造・販売が開始され、大日本麦酒(現アサヒビール)が王冠採用第1号となりました。
しかし、中小業者には王冠用の設備投資が困難だった事と、ビー玉の風鈴の如き清涼感が好まれた事から、ビー玉栓ラムネ瓶が採用され続け、現在まで生き延びてきたということです。
では、瓶の口よりも大きいビー玉はどのように瓶に入れ、どのようにして栓になるのでしょうか?
ビー玉の入れ方は次のようです。
1.ビー玉が入るくらいの口の広い瓶を作る。
2.ビー玉を入れる
3.口の部分に熱を加えて柔らかくした後、ビー玉が出ない大きさまで絞る。
4.次に飲料を注入し、それを一度逆さまにすると炭酸ガスの圧力でガラス玉が圧着され栓が閉じる。
このラムネ瓶は全てが回収出来ることから、当時としては非常に画期的な仕掛けだったようです。
昔、私が小学校で習った日本の都道府県の数は1都、1道、2府、42県の46でした。
その後、昭和47年(1972年)5月15日に沖縄県がアメリカから返還されて現在の47都道府県となりましたが、平成23年(2011年)には「うどん県」が誕生しました。
と言っても、48都道府県になった訳ではなく、香川県の特産であるうどんを全国にアピールするために、香川県観光協会が香川県を「うどん県」と表現したものです。
・讃岐うどんです。(ネットより)
ところで、日本中で食されているうどんですが、日本古来の食べ物なのでしょうか?
調べてみると、うどんのルーツは奈良時代に中国から伝来した唐菓子(からくだもの)の一種の「こんとん」であると言われています。
「こんとん」とは小麦粉を加工して作られたあん入りの団子のようなもので、この「こんとん」を温かい汁に入れて食べるようになって「温飩(おんとん)」と呼ばれるようになり、更に、それが転じて「うんとん」から「うどん」になったと言われています。
現在でも讃岐地方のお雑煮は甘い汁にあん入りの団子のような物を入れて食べる風習が残っているそうです。
うどんは室町時代に現在の形になり、江戸時代にかけて、うどんの食文化が庶民の生活の中に入っていきましたが、現在のように、カツオだしと醤油で味付けした汁で食べるようになったのは、全国に醤油が出回りはじめた元禄(1688年~1704年)以後だそうで、それ以前は味噌で味付けした味噌煮込みうどんが中心だったようです。
なお、うどんのかけ汁は各地域によって大きく異なっており、特に関西と関東では味付けに大きな違いがあるようです。
「関西」・・うどんのかけ汁を吸い物のようにだしの味まで楽しむという事から薄口醤油が使われています。
関西では具の材料に瀬戸内海で取れた白身の魚や新鮮な野菜が年間を通して使えたことから、素材の風味を消さないで味付けするためのようです。
「関東」・・濃口醤油で味付けするので黒っぽい濃い色をしています。
関東では具の材料に脂肪分の多い魚や保存した野菜などが使われていたために、醤油の味で誤魔化して食べる必要があったと考えられているそうです。
このように日常生活の違いによって、うどんのかけ汁にも違いがみられるということです。
昨日ご紹介した「日本最古のためいけ狭山池」の南東約1㎞、南海電鉄・高野線金剛駅からは徒歩10分くらいのところに狭山神社が鎮座しています。
大阪狭山市を訪れたついでにお参りしてきました。
「狭山神社」
ご由緒によれば、
狭山神社は、祭神・天照大神、素盞鳴命(すさのおのみこと)を祀り、狭山の郷の鎮守として崇敬されてきた社格の高い式内社(平安時代の初め、醍醐天皇の命により編纂された「延喜式」神名帳に記載された神社)である。
創建は狭山池の築造(616年)以前といわれるが、南北朝の動乱により社殿が焼けたために室町時代に再建されたものと伝えられる。
と記されていました。
・狭山神社の参道です。
「本殿」
現在の本殿は南北朝の時代に兵火にあい、室町時代(足利時代の中頃)の再建と伝えられるケヤキ材の住吉造の本殿だそうです。
神社の森から出土した唐草瓦と巴瓦を見ると、唐草瓦は藤原時代後期と推され、巴瓦は典型的な鎌倉初期の三巴文を現した行基葺の形式で、この瓦の戴ってあった建築物はかなり壮大なものであった事が想像でき、恐らく兵火のために灰燼に帰した名残の古瓦であろうと思われる。と記されています。
境内には本殿の外、摂社として狭山堤神社、稲荷神社、戎神社と末社五社が鎮座しています。
・狭山神社の本殿と大阪みどりの百選に選定されている背後の森です。
「狭山堤神社」
狭山神社の境内に合祀されてある狭山堤神社は、狭山池の守護神として奉祀されましたが、合祀前は現在の狭山遊園地内の池に面した松林の中に鎮座していたそうです。
狭山堤の神は狭山池築造に功績を遺した印色入日子命(いにしきいりひこのみこと: 第11代垂仁天皇の皇子)を祭神とし、狭山神社と同じく延喜式内社です。
「手水の起源」
手水の起源は、神道に由来し、聖域を訪れる際に周辺に流れる河川の水や湧き水で身を清めていたことに始まります。
その名残は、伊勢神宮の御手洗場などで見られますが、しかし、時代が変化するにつれ、河川の水質が汚染され、清流や湧き水の確保が困難になったことから、それに代わる施設として手水舎(ちょうずや)が併設されるようになっていったそうです。
・狭山神社の手水舎の龍です。
先日、27年ほど前の現役時代の仲間と大阪狭山市で忘年会を行いました。
参加人員は少数でしたが、皆、気心の知れた連中であり、当時の思い出話や近況などを語り合いながら旧交を温め合いました。
さて、今日は忘年会の話題ではなく、大阪狭山市には日本最古のため池「狭山池」がありますのでご紹介したいと思います。
狭山池は、今から1400 年前につくられた、現存するわが国最古のダム式ため池です。
・フェンスに張られた、築造1400年を伝える狭山池の幕です。
狭山池の航空写真です。
狭山池は日本最古のダム形式のため池で、貯水量は280万㎥、満水面積36㌶、周遊路2.85㎞あります。
「狭山池築造1400年」
狭山池は、「古事記」や「日本書紀」にも記述がみられるという古い潅漑用のため池で、奈良時代には行基が、鎌倉時代には重源、そして江戸時代には片桐且元が指揮をとり、当時の最新技術を駆使して改修が行われました。
発掘調査により発見された東樋(ひがしひ)の木製樋管(コウヤマキ)について、年輪年代測定法により伐採年代を測定したところ、616年との結果が得られたことなどから、狭山池の築造は7世紀前半とする説が現在有力だそうで、来年には築造1400年を迎えることになります。
狭山池公園は日本の歴史公園100選や、ため池百選にも選ばれています。
・工事中で、中には入れなかったので、フェンス越しに撮影しました。
「龍神社」
狭山池には大蛇伝説があります。
昔、狭山池に巨大な雌の大蛇が棲んでいました。
富田林の栗ケ池にいる雄の大蛇と夫婦で、毎晩狭山池から出て会いに行きました。
しかし大蛇が通り度に田畑は荒らされ、牛馬や人間はひと呑みにされてしまったのです。
神主・僧侶・地の名主たちが集まって、毎日丑三つ時に狭山池に行き、村人たちを襲わないでくださいと祈願しました。
その甲斐あって大蛇は池からでなくなったので、池に龍神社を建てて供物を絶やさずお祀りするようになったということです。
現在は、毎年6月に龍神祭が行われています。
・ズームで撮影した龍神社です。
12月に入り、スーパーに行くとクリスマスのメロディが流れて、何かとせわしい雰囲気が漂い始めました。
今では年間の大規模商戦の一つとなっているクリスマスセールです。
商売人の目つきや掛け声がいつもと違う感じがします。
私がまだ独身の頃のクリスマスには、私の職場では組合関連のクリスマスパーティが毎年の恒例行事として行われていました。
私たち独身者はクリスマスパーティの券を買わされるので、ダンス教室にダンスを習いに行ってダンスを覚えたものです。
そしてクリスマスパーティに参加し、生演奏で奏でられるクリスマスソングやダンスソングに合わせてダンスを楽しみました。
先日、テレビのナツメロ番組で越路吹雪の「ラストダンスは私に」と言う曲を聴きました。
私は、彼女がコミカルに歌い上げるこの歌も好きですが、ダンスを歌った歌謡曲では林伊佐緒の「ダンスパーティの夜」も好きで、現役の頃には宴会などでよく歌いました。
林伊佐緒をご存知ない方もおられると思いますが、彼は1912年5月11日生まれで、戦前・戦後に活躍した歌手です。
私が子供の頃は、「ダンスパーティの夜」や「高原の宿」などの曲がラジオから流れていたのを覚えています。
今日は彼のヒット曲の中から「ダンスパーティの夜」をお聴きいただきたいと思います。
ダンスパーティの夜・・・歌:林伊佐緒
今日は「千慮の一失(せんりょのいっしつ)」と言う中国故事をご紹介します。
この言葉を取り上げるきっかけとなったのは、昨日、聞いた講談によるものです。
講談の筋は、皆さまよくご存知の赤穂浪士で、その中に「大石東下り」という名場面があります。
吉良邸討ち入りのため、大石内蔵助一行は、赤穂から江戸に向かうのですが、道中怪しまれないため、大石は近衛家御用人 垣見五郎兵衛と言う別人に成りすまし、投宿していましたが、本人の垣見五郎兵衛が宿の看板でこれを見つけて大石の所に乗り込んでくるという一幕です。
この時の大石内蔵助の最大のピンチを「千慮の一失」と言う言葉を使用して談じていたのです。
「千慮の一失」とは、どんなに賢い人でも、多くの考えの中には一つくらい間違いや思い違いがあるということです。
この言葉は、紀元前205年、韓信(カンシン)が井陘(セイケイ)で、「背水の陣」を用いて趙を破った時の故事で、出典は『史記』淮陰(ワイイン)侯列伝です。
その故事とは、項羽と劉邦で有名な楚漢戦争の時代の話で、漢王劉邦が大将軍に任命した淮陰の人韓信は大軍を率いて劉邦を補佐し、楚の項羽と天下を争っていました。
当時の趙国は項羽側についていたのです。
韓信は、「広武君を殺してはならない。生け捕りにした者があれば、千金で買い入れよう。」と軍中に命令しました。
すると、広武君を縛って麾下(キカ)にとどけでた者がありました。
韓信はその縄を解いて東に座らせ、自分は西に向かって相対し、これに師事しました。
広武君は辞謝(ジシャ)して言いました。
臣聞く、敗軍の將は以て勇を言うべからず。
亡國の大夫は以て存するを圖(はか)るべからず。
今、臣は敗亡の虜なれば、何ぞ以て大事を權(はか)るに足らんや。と言うと、韓信はさらに強いて促しました。
心を委ねてあなたの計に従うから、どうか、遠慮しないでもらいたい。
【臣聞く、智者も千慮に必ず一失有り】(私は聞いております、賢者も千に一つは失敗することがあります)
愚者も千慮に必ず一得有り。(愚者も千に一つは成功することがあります)
韓信は喜んでこの策をとり、趙国を降伏させたというものです。
講談に戻って、大石内蔵助もまさか垣見五郎兵衛本人に出くわすとは思ってもいなかったことでしょう。
正に「千慮の一失」であり、上手く表現したものでした。