ゆずりは ~子想~

幼い葉が成長するのを待って、古い葉が譲って落ちることから名付けられた「ゆずり葉の樹」。語りつがれる想いとは・・・

子育て空回り

2006年02月07日 | 子ども
サーヤの心の叫びに、打ちのめされた・・・。
幼稚園から帰宅し、そのまま約束していた園の子と我が家で遊んだ後のことだ。

ばたばたと部屋を片付け、夕食の準備をした。サーヤはカレーが食べたいと、昨日からのリクエスト。でも、もう時間が6時半を回っていたので、カレーは作れないかも・・と私が言った。すると、サーヤは聞き分けよく、「ママと○ちゃんのお母さんとの会話を聞いて、今日はカレーはだめだなって、思ったよ。」と応えた。○ちゃんが、私の家で夕食を食べて帰りたいと言い出し、私が「今晩はカレーライスだけだけど、それでもいいかなぁ?今から作るから、食べるの遅くなるけど。」と答えたことを受けての、サーヤの直感だったらしい。

カレーにしたら、出来上がりの時間が簡単な夕食よりも遅くなる。どうしよう。私は迷った。でも、サーヤのあんな諦めの言葉を聞いてしまったら、意地でも作ろうか。。と思い出し、カレーを作り出した。お肉の入らない、野菜カレー。サーヤも、そしてエリーも喜んで食べるだろう、と思いながら。

カレーの出来上がる頃に、サーヤがやってきて、「何作ってるのぉ?」
「わー!カレーだぁ!」
とっても嬉しそうだった。
「いっただきまーす!」3人で食卓に座り、同時に食べ始めた。
「やっぱり、ママの野菜カレーはおいしいな!サーヤは、このママの野菜カレーが食べたかったの!」と言いながら、ほおばる。エリーも、いつになくスプーンが進んでいた。
「私ね、今日カレーだと思って、給食のおかわり、1回で我慢したの。」
この言葉を聞いて、ああカレーを作ってよかった!とほっとした。
サーヤはおかわりをして、満足げに食器を下げた。
後片付けが終わって、お風呂にお湯を入れに行ったときだった。突然、サーヤが私に抱きつき言った。
「私ね、ママとね、こうやってね、くっつきたかったの。」
「どうしたの?なんか嫌なことがあったの?」
「いっつもね、エリーがいて、ママを取られちゃってね、私ね、寂しいの。エリーが生まれる前までは、いっつもママと二人一緒でいられたのにね、エリーがいるとママといられないものぉぉー。」そう言うと、サーヤは泣き出したのだ。
なんと、可哀想に。たった6歳の女の子に、こんなに寂しい思いをさせている私は、なんなのか?そして、サーヤは続けた。
「エリーが生まれる前までのママは、とっても優しかったのに、エリーが生まれてからずっと厳しくなって、怒ってばかりだもん、恐いよぉ。また、ママと二人でお出かけしたり、寝る前におはなししたりしたいよ。」泣きながら訴える、我が子。ぎゅっと抱きしめるも、返す言葉は見つからない。ただただ、抱きしめて、「つらかったね、よく我慢してきたね。つらい思いをさせてごめんね。でも、よく話してくれたね、ありがとう。」と言うのが精一杯だった。
あああ、ごめん、サーヤ。あなたのこと、こんなに大好きなのに、こんなにいとおしく感じているのに、時にはストレスのはけ口になり、時には邪魔者扱いのごとく振る舞い、あなたに冷たくあたる母であったことを、心から反省した。私の心に、あなたの叫びは凶器のように突き刺さったよ。ほんとに、ごめん・・・。

「よし、ママもがんばる。サーヤに優しくするようにするし、寝る前のお話もしようね。一緒にお布団で眠ろうね。」
「うん!!サーヤ、言えてよかった。」
・・・喉のすぐそこまでこみ上げていた、サーヤの思い。今まで積み上げていた苦しみ。言ってくれて、ありがとう。と、そこまではよかったのだが・・・。

途中からエリーも抱きつき、おっぱいをせがみ始めた。そして、飲みながら眠ってしまったのだが、ソファに降ろすと泣く、落ち着いた頃に降ろすと泣くの繰り返しで、1時間抱っこしたまま、片付いていない洗いっぱなしの洗濯物や、敷いていない布団や、入っていないお風呂のことを考えた。やれていないことを数え始めたら、どんどん落ち込んでいく私。あれもやらなきゃ、これも済んでない・・・。家事以外にも、目につく様々な用事。その上に、さきほどのサーヤの叫びが覆いかぶさってくる。私の頭は重くなる一方だった。やれていないことを数えるんじゃなくて、自分のやれていることを誉めてあげよう。考え方の転換を試みるも、すぐに打ち消されてしまう。それくらい、サーヤの叫びがのしかかる。私にこれ以上、どうしろと?私、頑張っていない?頑張りが足りない?家が片付かないのは私のせい?サーヤを苦しめているのも、私?
きちんとやらなきゃ、もっと頑張らなきゃ、サーヤのために、家族のために、自分のために。きっちりやろう、そう思うことで、自分で自分の首を締めているということにも、薄々気づいてはいる。でも、どうしたらいい?

そんなことを考えていたら、すべての作業が無機質に、無表情に進められた。どうせ、サーヤが何をするにも私と一緒がいいのと言うのであれば、一通りの仕事を片付かせてから、と思いながら作業をしていく。時間はどんどん経っていく。そしてとうとう、「今日はもう遅いから、お風呂に入らなくていいよ。」とサーヤに告げたのは夜の10時半を回っていた。布団に入るサーヤの横で、自分の布団を敷きながら、サーヤが何かぼそぼそとしゃべっている。何を訴えているかわかっている。わかっているが、耳には入ってこない。無表情のまま、サーヤには顔も向けぬまま、「おやすみ」も言わぬまま、別の作業をする。サーヤは、諦めきれずにこちらをちらちらと見ている。ママは今、家事をしているけど、さっきは一緒に寝てあげると約束したんだよね、だから待ってていいんだよね。という心の声が聞こえるが、私はもう持てなかった。サーヤの心を汲み取れる力がなかったの。ごめん、サーヤ。せっかく約束したのに、数時間後にすでに破ってしまった。守れなかった。わざと守らなかった自分を責めた。

腕力は、人それぞれだ。重いものでも軽々と持てる人、軽いものでも重く感じる人。取っ手のついたかばんなら持てるのに、ゴミ袋のようなものは持てない人。肩からかけるタイプだけを持つのが好きな人。3つも4つも持てる人。
私は、実のところ、あまり力持ちじゃない。腕力もそうだが、心の負担もだ。
あれもこれもと言われたり、無言の承知のごとくのしかかる家事・育児の負担、時間的制約には、ほとほと参ってしまう。恐らく、家事・育児タイプのかばんは、苦手なのかもしれない。いつも選ぶのは、仕事というかばんかもしれない。私は、そっちの方があまり負担を感じないからだ。

いろんなかばんを持っています
家事という ゼッタイに持たなければならないかばん
育児という 必需品の入った、やけに重たいかばん
仕事という 持ったり持たなかったりできるかばん
妻という  最初はキラキラした飾りがついていたはずなのに、今は実用的なものに変わってしまったかばん
嫁という  背負い袋のようなかばん
世間という 透明な袋 すけすけな袋 中身が見えてしまう袋
社会という 一人では抱えきれない大きな箱 みんなで持っている重たい箱
たくさんのかばんを持って みんな必死に歩いています
どれもこれも 置き去りにできない 大事なかばんたち
これらすべてを 母親だけに託すのは とっても危険だと思いませんか
母親に手渡して持たせておけば 自分の持つものが減ると それを実行してきた現代
そのひずみが子育ての環境に 出ていると思いませんか?
私でさえ 苦しいのです
私以上に苦しんでいる人は 何万人いるのでしょう


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