ようやく先週鎌倉の紅葉を撮ってきた。幸い間に合ったみたいでよかった。
今年は明月院と円覚寺での写真が中心になった。中に入ったのは結構久しぶりで、そのため以前訪れたときにはなかったものを今回は見ることになった。
それは御朱印をもらう専用の窓口が作られていたことと、例のこのお寺の有名な撮影スポットである丸窓からの庭の風景を写す人が長蛇の列を作って順番待ちをしていたことだ。
そのことで御朱印をいろいろなところでもらうことが一種のブームになっていることを知ったし、また、あの例の丸窓の写真がなにかの理由で急に有名になったのだろうということを知った。御朱印の窓口では、御朱印とは本来先祖のことを想い写経をしてそれを納める時にもらうものであるという旨のことが立て看板に書いてあった。そういうことが書いてあるということは、観光地のスタンプ感覚、ただ単に御朱印をもらえば御利益をもらえるという発想で来てもらっては困るというお寺側の意思表示だろう。
僕はこれを読んで改めてこのお寺を見直すような気持ちになった。
それにしてもおもうのは、この御朱印ブームにしても、あの丸窓の写真に長蛇の列ができているのを見ても、また、ユーチューブでもスピリチャル系の動画が驚くほどたくさんアップされているのを見ても、ここ10~5年来それまでとは打って変わって精神世界のことに対して関心を持つ人々が増えてきたことをはっきりと感じる。
そのこと自体は素晴らしことだと思う。時代の潮流は変わっていることは間違いない。
鎌倉の街を歩きながら思ったのは、あぁ来てよかった、ということだった。またこの地にこれたことにたいする安ど感、解放感…僕にとってはこの街そのものがおおきなパワースポットである。何十年たっても変わらない街並、これからも大きくは変わっていかない街並み、宗教的浄寂…が実際に日帰りで足を延ばせる場所にあり、望めばいつでもそこに行けるという環境にいるということの幸福は言葉にできない。
でも、このような場所とそれにかかわる趣味が生活圏内にあった事は僕にとって本当に幸いだった。
よく坊主〇儲けとか、葬式仏教とかとかく仏教をひぼうする言葉があるが、たとえ一部にはそういう仏教徒がいるとしても、上記の明月院の但し書きにも表れているように、まじめにこころただしく精進、行に励み、ひとびとをみちびいている仏教徒も大勢いるわけであり、また、そのようなひとびとが守っている寺院、神社が存在するおかげで、魂の平安、調和を取り戻している人々は大勢いることであろう。
とかく日本では宗教というと、怪しいことの代名詞のようになっている観があるが、今回晩秋の鎌倉をあるいてみて、案外非常に大切な役割を果たしているのではないかということを思った。
今年の紅葉撮影はこれが最初で最後だろう。北鎌倉だけの撮影になったが十分に満足した。
海外のユーチューバーの写真動画をよく見ているのだが、それらをみているとやはりいい写真に仕上げるには画像加工というのが不可欠であることを感じる。
現在僕が持っている加工ソフトはニコンのCapture NX-DとフリーソフトのGimpだけであり、たぶんこれらだけでは不十分な時が来るだろうと予測している。おそらくLiteroomやPhotoshopを使いたくなる時がもうそこまで来ているという予感がする。
画像を加工していると、なにか「創っている」という気持ちになる。いままでのただ現場で撮影しただけだと、何か受動的過ぎてつまらないのだ。もちろん、構図や物象の切り取り方などにそのひとのオリジナリティーが現れるのだが、どうもそれだけでは満足できなくなってきている。
やはり「なにかしたい」のだ(笑)
これからどんどん撮影が面白くなるという予感がしている。
今は物事を学ぶ側にとっては本当にいい時代になった。ほぼ、ユーチューブやウェブの内容、本だけでかなり高度な技術も身に着けられるようになっている。
実は写真は特に好きだったわけではなくて、以前お付き合いしていた女性からぜひ始めて見るようにと勧められたのがきっかけだった。それが今、僕の生きがいといってもいい人生の相棒になっている。本当にいい置き土産をしてもらったと思っていて、心の底から感謝している。
ということで、僕のカメの歩みのように遅い写真道はこれからも続いていきます。
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