お屋敷跡碑は、
福田屋さんという料亭のビル前に立っていますが、
実際のお屋敷は、上智大も含む一帯にあったようです。
実際、大名のお屋敷ってどんなだったのかなぁ。
あーいそがし、
って感じかそれとも、
今日も暇だなー
って感じかな。
興味そそられるなぁ~
タイムスリップして見てみたい!
ちょっとのぞいただけだけど、
上智って意外に古い校舎なのね。
もっと新しいビル的なキャンパスだと思ってた、なんとなく。
この一帯も尾張徳川家のお屋敷があったところらしいけど、
当時のもの、何か残ってるのかな。
やっぱり歴史を残すって大切。
大変なことだろうけど。
江戸時代の寛永16年 (1639年)、
現在のJR四ツ谷駅のあたり、外堀の内側に四谷御門が造られ、
見附番所が置かれて甲州街道の要衝となった。
現在の橋は大正2年に完成。
迎賓館および付近の風景との調和をはかるよう、フランス風クラシック調のデザインに設計されている。
若葉東公園。
迎賓館とはユリノキの並木道で繋がっている。
迎賓館を借景できる、
というか、
迎賓館を見る人のために作られた
と思われるような公園。
みどりの新宿30選のひとつ。
若葉東公園
東京都新宿区四谷一丁目12
ウィキペディアより抜粋。
現在の迎賓館の建物は、東宮御所として1909年(明治42年)に建設された。
鹿鳴館などを設計したジョサイア・コンドルの弟子にあたる宮廷建築家片山東熊の設計により、元紀州藩の屋敷跡に建てられた。
しかしそのネオ・バロック様式の外観があまりにも華美に過ぎたことや、住居としての使い勝手が必ずしも良くなかったことから、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)がこの御所を使用することはほとんどなかった。嘉仁親王が天皇に即位した後は離宮として扱われることとなり、その名称も赤坂離宮と改められた。
その大正天皇の皇子・皇太子裕仁親王が天皇に即位した後は離宮として使用されることも稀になった。
終戦時には高松宮宣仁親王が昭和天皇に、皇居を出て赤坂離宮へ移り住むことを提案したが、天皇は使い勝手が悪く経費がかさむとして拒否している。
正門のすきまから撮った写真。
そしてズーム。
ヨーロッパのお城みたい。
でも、植えられた木々は、松の木です。
正門に背を向けると、こんな並木道が続き、
並木道の終点でくるりと回って、
正門を見ると、こんな感じ。
迎賓館。
許可制で見学できるらしい。
次回のTo DOリストに加えておこう。
紀国坂沿いから赤坂御用地に続く門。
赤坂御用地とは、皇室関連施設の名称で、敷地内には、
東宮御所、秋篠宮邸、三笠宮邸、仁親王邸、高円宮邸(こんなにいっぱい?)
がある。
江戸時代は、紀州徳川家の上屋敷があったところで、
明治維新後、政府に接収されて皇室に献上された。
赤坂御用地の北東に隣接して迎賓館がある。
やっぱ、東京っておもしろいな。
赤プリ跡の紀州徳川家のお屋敷と、
彦根井伊家のお屋敷とは、
この清水谷公園付近で接していたそうです。
その境目付近が谷だったことと、
境目付近の紀州徳川家の屋敷から清水が沸き出ていたことから、
「清水谷」と呼ばれるようになった、とのこと。
何事にも、意味がありますね。