先般、宮城県沿岸部の住宅復興状況を視察しました。
その時に、被災者のみなさんと向き合って
どのように住宅を「再建」しましょうかと相談するときの会話内容について、
ある建築家が語ってくれたことが印象的でした。
津波によって全的に住まいをなくしたみなさんにとって
それも間一髪の危難を超えて生き残り、
多くの肉親、知人、寄って立っていた人間関係基盤も喪失した
そういう人にとっての「住宅再建」とは、
一般的な住宅建築のときのように、夢を持って
「このように暮らしたい」とか、
「こんな家族生活の場が欲しい」と、目を輝かせるような
そういった心理・動機とは、およそ違う心象風景なのだということ。
津波前には、80坪近い大きな家に住んでいて、
大きな喪失感を抱いている人に、
その後の暮らしのために、いま経済的に可能な現実的プランを提示すると
20-30坪の小さな住宅を提案することになる。
「こんな小さな家になるの・・・」と、呆然とされるのだという。
そこで会話がしばし途切れてしまうような、
失ってしまったものの巨大さに、ふたたび気付かせてしまうという。
はたして、住宅再建・建築の動機ってなんなのだろうかと思ったのです。
そういえば、多くの住宅再建ではフルオーダーの家づくりとも思える
建築家への注文住宅リクエストのようなものは
そう多くはないのだと言われます。
応急危険度判定から始まって、仮設住宅のありようにも関わり、
その後は街づくりとか、宅地造成など職業的な倫理感に駆られて努力してきた
多くの建築家に、個別の住宅が依頼されることはそう多くなかった。
前述のような心象風景の建て主にとって、住宅再建とは
心躍るように、夢を語り合うような住宅建築ではなく、
そういう心理とはかなり違う状況での選択なのだと気付かされます。
結局は、よりドライな「営業」という形での、
「ひとの言葉を通した、わかりやすい選択動機付けサポート」の方に
多くのみなさんは心理が向いていくということのようです。
「動機」を積極的に見つけにくい状況になってくれば、ひとは、
心理負担がまだしも少ない順列選択のほうがわかりやすいのでしょうか。
そしてそれもまた、現代人にとっての住宅建築ということの、
なにか根源的な意味合いを
知らせてくれているように思われてなりません。
その時に、被災者のみなさんと向き合って
どのように住宅を「再建」しましょうかと相談するときの会話内容について、
ある建築家が語ってくれたことが印象的でした。
津波によって全的に住まいをなくしたみなさんにとって
それも間一髪の危難を超えて生き残り、
多くの肉親、知人、寄って立っていた人間関係基盤も喪失した
そういう人にとっての「住宅再建」とは、
一般的な住宅建築のときのように、夢を持って
「このように暮らしたい」とか、
「こんな家族生活の場が欲しい」と、目を輝かせるような
そういった心理・動機とは、およそ違う心象風景なのだということ。
津波前には、80坪近い大きな家に住んでいて、
大きな喪失感を抱いている人に、
その後の暮らしのために、いま経済的に可能な現実的プランを提示すると
20-30坪の小さな住宅を提案することになる。
「こんな小さな家になるの・・・」と、呆然とされるのだという。
そこで会話がしばし途切れてしまうような、
失ってしまったものの巨大さに、ふたたび気付かせてしまうという。
はたして、住宅再建・建築の動機ってなんなのだろうかと思ったのです。
そういえば、多くの住宅再建ではフルオーダーの家づくりとも思える
建築家への注文住宅リクエストのようなものは
そう多くはないのだと言われます。
応急危険度判定から始まって、仮設住宅のありようにも関わり、
その後は街づくりとか、宅地造成など職業的な倫理感に駆られて努力してきた
多くの建築家に、個別の住宅が依頼されることはそう多くなかった。
前述のような心象風景の建て主にとって、住宅再建とは
心躍るように、夢を語り合うような住宅建築ではなく、
そういう心理とはかなり違う状況での選択なのだと気付かされます。
結局は、よりドライな「営業」という形での、
「ひとの言葉を通した、わかりやすい選択動機付けサポート」の方に
多くのみなさんは心理が向いていくということのようです。
「動機」を積極的に見つけにくい状況になってくれば、ひとは、
心理負担がまだしも少ない順列選択のほうがわかりやすいのでしょうか。
そしてそれもまた、現代人にとっての住宅建築ということの、
なにか根源的な意味合いを
知らせてくれているように思われてなりません。