10月3日は松井一恵さんの初七日です。まだ彼女が居ないことが実感できません。
このブログの「Chambre de K.」にたっちゃんのネームで投稿をしてくれていた松井一恵さんは病状が重くなっても病室にパソコンを持ち込んで亡くなる2ヵ月まえに書き上げた2編目の随想「匂い」を紹介します。彼女ほど賢く冷静な女性に会ったのは私の人生で初めてでした。一恵さんは平成30年9月26日に亡くなられました。享年55でした。
1編目の随想「忘れじと思ふ」は9月27日にアップしてあります。そちらもどうぞお読み下さい。
匂い 松井 一恵
マルセル・プルースト「失われた時を求めて」より
《私は無意識に、紅茶に浸してやわらかくなった一切れのマドレーヌごと、ひと匙のお茶をすくって口に持っていった。紅茶に浸したマドレーヌの香りによって、幼い頃の記憶が突然呼び起こされた――》
二十世紀を代表する名作小説『失われた時を求めて』は、マドレーヌから始まる長い長い物語です。作者のマルセル・プルーストはパリ郊外生まれのフランス人。『失われた時を求めて』の主人公も、マドレーヌの味そのものよりもその芳醇な香りによって古い記憶が蘇ります。味覚と記憶の繋がりの深さです。
私たちのまわりには、様々な匂いが漂っています。自然の匂い、食べ物の匂い、人工的な匂い・・・。その中で、ふと幼少期の思い出に繋がるものもあります。例えば、雨が降る前の匂いです。この匂いは埃の匂いだと言われていますが、私にとって、小さい頃から変わらない匂いです。
〇雨を待つ土の匂ひは遠き日の小学校の中庭の匂ひ
小学校の中庭には、百葉箱もありました。雨の降る前の匂いから、百葉箱まで思い出され、古い記憶が蘇ります。また、プルーストのマドレーヌではありませんが、母が作ってくれた焼き菓子の匂いを思い出させるものもあります。母は決して洋菓子が得意ではありません。それでもレシピをみて、オーブントースターでバタークッキーを焼いてくれました。焦げてしまったこともあります。失敗作も私にとっては母の味でした。弟と二人、庭でピクニックのまねごとをして食べたものです。
〇プルースト効果ならむか漂ふ香に母の作りし焼き菓子思ふ
一年ほど前、安い輸入クッキーではありましたが、スーパーで夫の買ってきてくれたクッキーの蓋を開けた途端に、新婚旅行で行ったパリのカフェーにあったクッキーの匂いを思い出したこともあります。
〇夫の買ひしクッキー缶の蓋とればパリの カフェーの匂ひ溢るる
懐かしいパリの新婚旅行の思い出です。セーヌ河沿いのオープンカフェでコーヒーとクッキーを二人して頼み、自由時間を満喫した実に良い思い出です。今でも脳裏に浮かびます。
またこれは、日常の出来事です。
〇二階より煙草の匂ひの降りてきてやをら始める食事の支度
〇夫の吸ふゴールデンバットの匂ひして朝の六時と気づく吾あり
〇マルボロの煙草の香りが玄関に漂ひ息子の帰りを知らす
「匂い」とは不思議なものです。五感のうちで最も記憶に直結しやすいのではないでしょうか。そして私は今、病室にいます。
〇消毒のアルコールの香に思ひ出づあの日の点滴この日の採血