新年あけましておめでとうございます。
本年も拙ブログを宜しくお願い申し上げます。
時々は、覗きに来てやって下さいませ。
さて、年が明けると交わす挨拶は、なぜ「あけましておめでとう」なのか?
それは、新たな年を迎えるのは「年神さま」をお迎えするから。
年神さまは、暮らしの中で伝えられてきた。
いわば「民間信仰」の中に息づき、歴史に寄り添ってきた存在である。
その原型は「ご先祖さま」。
天の彼方ではなく、生まれ住んだ地域の山に上って、
子孫の暮らしを眺めていると考えられてきた。
そして春になると、山からこの神さまを里に迎え、
子孫の米作りを見守ってもらう。
秋の収穫を終えると、また山に見送る。
農作業の巡りに合わせて神さまが行ったり来たりするのが典型的なパターンだ。
正月、門戸に飾る「門松」や「しめ飾り」は、
近くの山から「年神さま」を迎える準備。
神さまが辿り着くための目印である。
画像はいずれも津幡町で旅館業・銭湯を営む「勝崎館(かつざきかん)」にて、
きのう撮影したもの。
そのプロフィールを改めて紹介したい。
『創業120年以上になる同旅館には、
昔ながらの薪(まき)で沸かす銭湯が併設されています。
勝ざき館の湯は、1889(明治22)年5月開湯の津幡鉱泉まで遡(さかのぼ)ります。
当初は単に湯座屋(ゆざや=共同浴場)でしたが、
1912(大正元)年に料理旅館として経営拡大しました。
同旅館の敷地内に「津幡鉱泉」の開湯を記念した石柱と小さな祠(ほこら)が建っています。
源泉は同旅館より200メートルほど離れた水田から引いていましたが、
残念ながら2003(平成15)年頃に枯渇(こかつ)し、
現在は井戸水を薪(まき)で沸かす人工温泉となっています。
現在の浴場入り口に掲げられた古い効能書きが、
当時の面影をしのばせてくれます。
和風旅館「勝ざき館」の看板建築である旧館は、
1950(昭和25)年に富来町風無(かざなし)の豪商永野家の別邸を買い取り、
移築されたものです。
また、全ての客室から、自慢の日本庭園を望めます。
宿泊や銭湯のご利用はもちろん、座敷での宴席や
割烹カウンター「原点」で地酒とともに日本料理をご堪能いただけます。』
(※「津幡町観光ガイド」より引用)
束の間「勝崎館」周辺を散策し正月気分を満喫し立ち去る際、
板塀の上に置き忘れられた「柚子」を発見。
冬枯れの中で接する鮮やかな黄色は眼福である。
本年も拙ブログを宜しくお願い申し上げます。
時々は、覗きに来てやって下さいませ。
さて、年が明けると交わす挨拶は、なぜ「あけましておめでとう」なのか?
それは、新たな年を迎えるのは「年神さま」をお迎えするから。
年神さまは、暮らしの中で伝えられてきた。
いわば「民間信仰」の中に息づき、歴史に寄り添ってきた存在である。
その原型は「ご先祖さま」。
天の彼方ではなく、生まれ住んだ地域の山に上って、
子孫の暮らしを眺めていると考えられてきた。
そして春になると、山からこの神さまを里に迎え、
子孫の米作りを見守ってもらう。
秋の収穫を終えると、また山に見送る。
農作業の巡りに合わせて神さまが行ったり来たりするのが典型的なパターンだ。
正月、門戸に飾る「門松」や「しめ飾り」は、
近くの山から「年神さま」を迎える準備。
神さまが辿り着くための目印である。
画像はいずれも津幡町で旅館業・銭湯を営む「勝崎館(かつざきかん)」にて、
きのう撮影したもの。
そのプロフィールを改めて紹介したい。
『創業120年以上になる同旅館には、
昔ながらの薪(まき)で沸かす銭湯が併設されています。
勝ざき館の湯は、1889(明治22)年5月開湯の津幡鉱泉まで遡(さかのぼ)ります。
当初は単に湯座屋(ゆざや=共同浴場)でしたが、
1912(大正元)年に料理旅館として経営拡大しました。
同旅館の敷地内に「津幡鉱泉」の開湯を記念した石柱と小さな祠(ほこら)が建っています。
源泉は同旅館より200メートルほど離れた水田から引いていましたが、
残念ながら2003(平成15)年頃に枯渇(こかつ)し、
現在は井戸水を薪(まき)で沸かす人工温泉となっています。
現在の浴場入り口に掲げられた古い効能書きが、
当時の面影をしのばせてくれます。
和風旅館「勝ざき館」の看板建築である旧館は、
1950(昭和25)年に富来町風無(かざなし)の豪商永野家の別邸を買い取り、
移築されたものです。
また、全ての客室から、自慢の日本庭園を望めます。
宿泊や銭湯のご利用はもちろん、座敷での宴席や
割烹カウンター「原点」で地酒とともに日本料理をご堪能いただけます。』
(※「津幡町観光ガイド」より引用)
束の間「勝崎館」周辺を散策し正月気分を満喫し立ち去る際、
板塀の上に置き忘れられた「柚子」を発見。
冬枯れの中で接する鮮やかな黄色は眼福である。