つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

津幡町から最も近い世界遺産へ。

2011年12月17日 20時39分32秒 | 旅行
きのうから、日本列島上空には寒波が襲来し、
今シーズン初の本格的な降雪を記録した。
津幡町も10センチ程度の雪が積もり、それなりの銀世界が出現。
…しかし「冒頭の一枚」と比べてみれば、
ほんの鳥羽口に過ぎないのだと分かる。
葉の落ちた木々は、枝の先端に至るまで雪化粧。
山一面が白く染まり、足元の通行路はアイスバーン状態。
車でほんの1時間余り移動した里山は、冬に包まれていた。

写真手前の小屋のシルエットは「合掌造り」。
奥には、同じスタイルの人家も写っている。
「合掌造り」とは、日本有数の豪雪地帯・岐阜県と富山県の県境…
昔の言い方なら飛騨と越中の国境に分布する独特の民家の事。
屋根は、イネ科の草「茅」で覆われた、急傾斜の山型「切妻造り」。
釘を使わない「合掌造り」は、厳しい地形と気候風土の中で培われた
伝統的な生活様式と知恵の結晶。
家に入ってみると、中は3階建て。
人が生活するのは1階部分のみで、2階・3階は絹糸を作る「蚕」の飼育や、
食糧・道具の保管のための空間だった。
また2階、3階の床の中央部分は、等間隔の隙間を空けて
細い木の板が渡してあり1階の囲炉裏から、熱気と煙が昇る仕組み。
つまり、一種のセントラルヒーター効果で、
雨で湿った桑の葉を乾燥させたり、煙で害虫を寄せ付けない。
…といった理にかなった空間なのである。
しかも、合掌造りは博物館ではない。
今も、実際に人間が住む一般住宅として“生きている遺産”なのだ。

 

今日、ハンドルを握り訪れたのは、富山県・南砺市の平地区。
日本国内では6番目に世界遺産に登録された
「白川郷・五箇山の合掌造り集落」の「菅沼集落」である。

 

その概要については、南砺市の観光ガイドから引用したい。
『菅沼集落は庄川の谷あいにせり出した平坦地にあり、
 三方を庄川に囲まれ、もう一方は雪持林(ゆきもちりん)の茂る
 急斜面となっています。
 集落には現在12棟の家屋があり、そのうち9棟が合掌造り家屋です。
 これらの合掌造り家屋は
 江戸時代末期(19世紀前期から中期)に造られたものが2棟、
 明治時代に建てられたものが6棟、
 最も新しいものは大正14年(1925)に建てられていて、
 このころまで合掌造りの家が建築されていたことがわかります。
 五箇山は江戸時代、和紙や養蚕、鉄砲の火薬の原料である
 「塩硝(えんしょう)」が主な生産品でした。
 菅沼集落でもそれらを生産するかたわら、
 わずかな土地を利用した稲作と、
 なぎ畑と呼ばれる焼き畑農業で生活が行われていました。
 塩硝の生産は、明治になって加賀藩の庇護がなくなったことや
 安価な輸入品のために衰退してしまいました。
 菅沼は小さいながらも日本を代表する山村集落として、
 昔からの景観を変えることなく、訪れる人々に歴史を語り続けています。』
(※原文ママ)

上記文内にある「塩硝」は、立派な“軍需物資”。
製造工場は、合掌造りの床下だ。
そこには3.6m四方、深さ2mほどのすり鉢状の穴が掘られ、
蚕や人の排泄物、農作物の不要な部分、雑草、畑の土などが
積み重ねられていき、およそ4~5年で“硝酸イオン”が蓄積した土に変化。
…これが、火薬の原料になる。

出来上がった「塩硝」は、険しい峠を越え、谷川沿いを進み、金沢へ。
五箇山⇔金沢を結ぶ道は、トップシークレットを運ぶ、重要な街道。
菅沼集落は、一種の“隠れ里”だったのかもしれない。

 
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(津幡)街をかける少女。

2011年12月15日 23時37分56秒 | 日記
「今日の一枚」は、平日の朝の日常の風景である。
ある人は厳しい表情を崩さずに。
ある人は携帯電話で話しをしながら。
ある人は仲間と楽しげに談笑しながら。
小・中・高校生、勤め人たちが、それぞれの目指す場所と移動してゆく。
立場やゴールは違えど、「時」に追われているのは皆同じ。
彼女・・・サドルにまたがり“街を駆ける少女”も、急いでいる様子だった。

何らかの要因により登校・出勤・約束の刻限に遅れそうになったとしたら、
誰もが一度はこう考えた事があるはずだ。

『時間も空間も、一足飛びに越えることができたらいいのに。』

勿論、現実には叶わない夢なのだが、空想の中なら現実に出来る。
例えば「筒井康孝」が著したSF小説・・・
「時をかける少女」も、その1つである。

詳述は避けるが、主人公は中学生。
瞬間移動-テレポーテーションと、時間旅行-タイム・リープ、
2つの超能力を持つ少女。
度々、映画(アニメ)化、TVドラマ化され、今も愛されている名作である。
個人的には、NHKの少年ドラマシリーズ第一弾「タイムトラベラー」と、
「大林宣彦」がメガホンを取った、最初の角川映画版が思い出深い。

作品が最初に発表された、半世紀近くの昔、
「時かけ」の読者は未だ見ぬ未来へ憧れを抱き、
将来の自分や世の中に思いを馳せた。

…果たして21世紀の今は、当時のイメージと重なるだろうか?
「夢見た未来」と言えるのだろうか?
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津幡町の軒先にて、モラル変遷考。

2011年12月13日 21時20分10秒 | 日記
「今日の一枚」は、とある民家の玄関先スナップ。
散歩中「寿司桶」が目に留まり、途端に朝食前の腹の虫が騒いだ。

『寒ブリやズワイが季節だし、久しぶりに行ってみるか。』

ネタとシャリを職人さんの技がまとめた寿司は旨い。
巻き物や握りが並んだ寿司桶の有様は、何とも壮観。
美味しさと華やかさを兼ね備えた寿司は、ハレのメニューである。
…などと、思いを至らせると同時に、妙な違和感も覚えた。

僕の生家では出前の寿司を食べ終わった後、寿司桶は内玄関に置いていた。
頃合いをみて引き取りにやって来たお寿司屋さんは、
勝手に引き戸を開けて回収するのが当たり前だったのである。
建物の構造や考え方などによって差異はあるだろうが、
そんな家庭は多かったのではないだろうか?
何故なら、庶民の家の玄関をロックするのは稀だったからだ。

丸一日、あるいは数日に渡って留守にでもしない限り、
昼も夜も鍵に手をかける事はない。
そもそも、引き戸に備え付けられた鍵は“ねじ式”。
防犯の観点からは十分とは言えない簡易なものだった。
それほど、大らかで安全。
人心はほのぼのとしていたのである。
しかし、今や厳重に防がないと枕を高くして眠れない。
玄関の扉も、一枚当たりのガラス面を狭くして、
たとえ割られても人が入り込めないようにしてあるのが常識だ。

お寿司屋さんには申し訳ないが、
何時でも誰でも気軽に出入り出来たのは、過去の光景なのである。
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津幡町の看板に見る、復権。

2011年12月12日 07時52分14秒 | 日記
「冒頭の一枚」は、津幡町の飲食店前に立つ「トリスハイボール」の看板。
ちなみに、サブロクの縦長サイズの中に描かれたキャラクターは
「アンクルトリス」という。

トリスおじさんは、昭和33年(1958年)生まれ。
彼が誕生した昭和30年代、全国の飲み屋さんで爆発的にヒットしたのが、
トリスバーだ。
国産ブレンデッドウイスキー「トリス」の売りの1つは、
うまい・安いの「庶民感覚」。
それをソーダで割ったハイボールを目当てに、
トリスバーにはサラリーマンや大学生が集い賑わったらしい。
きっと、店内には「アンクルトリス」のポスターが
貼り出されていたのだろう。

数年前まで、日本国内における酒類販売における「ウイスキー」の地位は、
年配向け。 50~60代が家で飲むために購入するケースが多かった。
しかし、景気低迷、巣ごもり消費、低カロリーなどの傾向から、
昨今の「ハイボールブーム」により、見事に復権。
売上が伸び、壮年層以下にも浸透してきた様子は、
何だか、1980年代の「チューハイブーム」に重なる。
若年層を中心に焼酎(主として甲類だが)が居酒屋や自宅で市民権を得た頃。
ブラウン管では「マイルス・デイビス」や「シーナ・イーストン」、
「ボーイ・ジョージ」など洋楽スターを起用したCMが流れていたっけ…。

話題が昭和に及んだところで、80'Sの思い出話をもう1つ。
当時、サントリーのビールは「PENGUIN'S BAR」と銘打ち展開。
松田聖子が歌う「SWEET MEMORIES」にのせて、
アニメのペンギンキャラが男女の機微を紡ぎだす、
印象的で洒落たCMのアレである。

 

僕はあるビアホールで、このペンギンの着ぐるみを被るバイトをした。
真夏である。
密封である。
ものの数十分で休憩を入れなければ倒れてしまいそうなくらい暑かった。
苦行だったが、今となっては“甘い思い出”である。
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津幡町のクリスマスデコレーション。

2011年12月11日 09時26分51秒 | 日記
「今日の一枚」は、最近オープンした「サークルK 本津幡駅前店」の
店頭にて撮影。
コカ・コーラ社のクリスマスキャンペーンポスターである。
有名なエピソードだが、コーラとサンタの縁は深い。

白の縁取りのある赤い服・ナイトキャップ姿。
白いヒゲを生やし笑顔を絶やさない好々爺。
8頭立てのトナカイが曳く橇に跨り、
世界中の子供たちにプレゼントを届けてくれる「サンタクロース」。
モデルは、4世紀頃のキリスト教の聖人「セント・ニコラウス」だ。
その貧者を救済したエピソードが、壮大なフィクションの元となっている。
そして、架空のヒーローの出で立ちである鮮やかな赤と白は、
コカ・コーラのブランドカラー。
1931年、同社の広告にサンタクロースが登場し、
飲料の普及と歩調を合わせ世界中に定着した…と考えられている。

12月に入り、こうしたポスターの他にも、
彼方此方でサンタを見かけるようになると、
クリスマスシーズンの到来を感じるのだ。

また、街角に電飾が瞬き始めると、思いは一層強くなる。
去年・2010年12月20日、
近所の民家に設置されたイルミネーションについて投稿したが、
津幡町役場隣の中央公園では、それと比べ、やや規模が大きい。

 

公園入口にLED点灯は、津幡町の年の瀬恒例行事になった。
2007年には、総務省の補助金によって電飾を買い足し、
6000個あまりの灯りが闇の中に浮かび上がっている。
街路樹の光は、青で統一。
その中央、赤や緑の光は「きぼうの入口」と名付けられたゲート部分だ。
僕の携帯電話のカメラの性能では、あまり鮮明な画像ではないが、
実際はもっと美しい。
お近くの方は、足を運んでみてはいかがだろうか?
勿論、訪れるタイミングは夜。
真昼のイルミネーションは、意味を成さない。

 
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