きのうから、日本列島上空には寒波が襲来し、
今シーズン初の本格的な降雪を記録した。
津幡町も10センチ程度の雪が積もり、それなりの銀世界が出現。
…しかし「冒頭の一枚」と比べてみれば、
ほんの鳥羽口に過ぎないのだと分かる。
葉の落ちた木々は、枝の先端に至るまで雪化粧。
山一面が白く染まり、足元の通行路はアイスバーン状態。
車でほんの1時間余り移動した里山は、冬に包まれていた。
写真手前の小屋のシルエットは「合掌造り」。
奥には、同じスタイルの人家も写っている。
「合掌造り」とは、日本有数の豪雪地帯・岐阜県と富山県の県境…
昔の言い方なら飛騨と越中の国境に分布する独特の民家の事。
屋根は、イネ科の草「茅」で覆われた、急傾斜の山型「切妻造り」。
釘を使わない「合掌造り」は、厳しい地形と気候風土の中で培われた
伝統的な生活様式と知恵の結晶。
家に入ってみると、中は3階建て。
人が生活するのは1階部分のみで、2階・3階は絹糸を作る「蚕」の飼育や、
食糧・道具の保管のための空間だった。
また2階、3階の床の中央部分は、等間隔の隙間を空けて
細い木の板が渡してあり1階の囲炉裏から、熱気と煙が昇る仕組み。
つまり、一種のセントラルヒーター効果で、
雨で湿った桑の葉を乾燥させたり、煙で害虫を寄せ付けない。
…といった理にかなった空間なのである。
しかも、合掌造りは博物館ではない。
今も、実際に人間が住む一般住宅として“生きている遺産”なのだ。
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今日、ハンドルを握り訪れたのは、富山県・南砺市の平地区。
日本国内では6番目に世界遺産に登録された
「白川郷・五箇山の合掌造り集落」の「菅沼集落」である。
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その概要については、南砺市の観光ガイドから引用したい。
『菅沼集落は庄川の谷あいにせり出した平坦地にあり、
三方を庄川に囲まれ、もう一方は雪持林(ゆきもちりん)の茂る
急斜面となっています。
集落には現在12棟の家屋があり、そのうち9棟が合掌造り家屋です。
これらの合掌造り家屋は
江戸時代末期(19世紀前期から中期)に造られたものが2棟、
明治時代に建てられたものが6棟、
最も新しいものは大正14年(1925)に建てられていて、
このころまで合掌造りの家が建築されていたことがわかります。
五箇山は江戸時代、和紙や養蚕、鉄砲の火薬の原料である
「塩硝(えんしょう)」が主な生産品でした。
菅沼集落でもそれらを生産するかたわら、
わずかな土地を利用した稲作と、
なぎ畑と呼ばれる焼き畑農業で生活が行われていました。
塩硝の生産は、明治になって加賀藩の庇護がなくなったことや
安価な輸入品のために衰退してしまいました。
菅沼は小さいながらも日本を代表する山村集落として、
昔からの景観を変えることなく、訪れる人々に歴史を語り続けています。』
(※原文ママ)
上記文内にある「塩硝」は、立派な“軍需物資”。
製造工場は、合掌造りの床下だ。
そこには3.6m四方、深さ2mほどのすり鉢状の穴が掘られ、
蚕や人の排泄物、農作物の不要な部分、雑草、畑の土などが
積み重ねられていき、およそ4~5年で“硝酸イオン”が蓄積した土に変化。
…これが、火薬の原料になる。
出来上がった「塩硝」は、険しい峠を越え、谷川沿いを進み、金沢へ。
五箇山⇔金沢を結ぶ道は、トップシークレットを運ぶ、重要な街道。
菅沼集落は、一種の“隠れ里”だったのかもしれない。
今シーズン初の本格的な降雪を記録した。
津幡町も10センチ程度の雪が積もり、それなりの銀世界が出現。
…しかし「冒頭の一枚」と比べてみれば、
ほんの鳥羽口に過ぎないのだと分かる。
葉の落ちた木々は、枝の先端に至るまで雪化粧。
山一面が白く染まり、足元の通行路はアイスバーン状態。
車でほんの1時間余り移動した里山は、冬に包まれていた。
写真手前の小屋のシルエットは「合掌造り」。
奥には、同じスタイルの人家も写っている。
「合掌造り」とは、日本有数の豪雪地帯・岐阜県と富山県の県境…
昔の言い方なら飛騨と越中の国境に分布する独特の民家の事。
屋根は、イネ科の草「茅」で覆われた、急傾斜の山型「切妻造り」。
釘を使わない「合掌造り」は、厳しい地形と気候風土の中で培われた
伝統的な生活様式と知恵の結晶。
家に入ってみると、中は3階建て。
人が生活するのは1階部分のみで、2階・3階は絹糸を作る「蚕」の飼育や、
食糧・道具の保管のための空間だった。
また2階、3階の床の中央部分は、等間隔の隙間を空けて
細い木の板が渡してあり1階の囲炉裏から、熱気と煙が昇る仕組み。
つまり、一種のセントラルヒーター効果で、
雨で湿った桑の葉を乾燥させたり、煙で害虫を寄せ付けない。
…といった理にかなった空間なのである。
しかも、合掌造りは博物館ではない。
今も、実際に人間が住む一般住宅として“生きている遺産”なのだ。
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今日、ハンドルを握り訪れたのは、富山県・南砺市の平地区。
日本国内では6番目に世界遺産に登録された
「白川郷・五箇山の合掌造り集落」の「菅沼集落」である。
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その概要については、南砺市の観光ガイドから引用したい。
『菅沼集落は庄川の谷あいにせり出した平坦地にあり、
三方を庄川に囲まれ、もう一方は雪持林(ゆきもちりん)の茂る
急斜面となっています。
集落には現在12棟の家屋があり、そのうち9棟が合掌造り家屋です。
これらの合掌造り家屋は
江戸時代末期(19世紀前期から中期)に造られたものが2棟、
明治時代に建てられたものが6棟、
最も新しいものは大正14年(1925)に建てられていて、
このころまで合掌造りの家が建築されていたことがわかります。
五箇山は江戸時代、和紙や養蚕、鉄砲の火薬の原料である
「塩硝(えんしょう)」が主な生産品でした。
菅沼集落でもそれらを生産するかたわら、
わずかな土地を利用した稲作と、
なぎ畑と呼ばれる焼き畑農業で生活が行われていました。
塩硝の生産は、明治になって加賀藩の庇護がなくなったことや
安価な輸入品のために衰退してしまいました。
菅沼は小さいながらも日本を代表する山村集落として、
昔からの景観を変えることなく、訪れる人々に歴史を語り続けています。』
(※原文ママ)
上記文内にある「塩硝」は、立派な“軍需物資”。
製造工場は、合掌造りの床下だ。
そこには3.6m四方、深さ2mほどのすり鉢状の穴が掘られ、
蚕や人の排泄物、農作物の不要な部分、雑草、畑の土などが
積み重ねられていき、およそ4~5年で“硝酸イオン”が蓄積した土に変化。
…これが、火薬の原料になる。
出来上がった「塩硝」は、険しい峠を越え、谷川沿いを進み、金沢へ。
五箇山⇔金沢を結ぶ道は、トップシークレットを運ぶ、重要な街道。
菅沼集落は、一種の“隠れ里”だったのかもしれない。
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