つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

80年前に思いを致す。

2021年12月05日 21時00分00秒 | 日記
                 
2021年は「太平洋戦争(※)」開戦80年。
今投稿の数日後、ちょうど節目を迎える。

戦争の端緒は、昭和16年(1941年)12月8日未明(日本時間)に決行された、
日本の機動部隊による「ハワイ真珠湾奇襲攻撃」。
史上初の大規模な航空攻撃は、米戦艦部隊をほぼ壊滅させることに成功。
皆、このラジオ放送で大戦果を知った。



昨夜、NHKの「新・ドキュメント太平洋戦争 ~1941開戦 前編~」を観た。
市民、兵士、為政者らが綴った日記や手記などを男女合わせて250人以上収集。
AI(人工知能)に読み込ませ、SNS上の「つぶやき」に見立てて解析。
投稿数に換算すれば12万件にのぼるデータから、
当時の日本人の「心の変化」を捉えようとする、現代ならではの試み。
なかなか興味深い内容だった。

番組のあらましや感想を書き連ねていたら長きに過ぎる。
ご覧になった方も少なくないだろうし、アーカイブ、再放送もあるだろう。
詳しくは割愛したい。
ともかく、AIによる「エゴドキュメント」解析の結果では、
国民の圧倒的多数が開戦を支持したようだ。



本日の散歩で大西山を訪れ、町中心部を見下ろしながら想像してみた。
この人気のない街道も、80年前は「提灯行列」が練り歩き、
万歳!万歳!が木霊したのだろうか。



振り返れば、目に入るのは「忠魂碑」。
日露戦争以降、主に在郷軍人会などによって建立された、
戦死者を記念するために建てた石碑。
以前にも取り上げたが、傍には数枚の「戦没者芳名」プレートも建っている。



黄色エリアは日清戦争。
青色エリアは日露戦争。
緑色エリアは日中戦争(石碑表記は「日支事変」)。
赤色エリアが太平洋戦争(石碑表記は「大東亜戦争」)。
--- 時代を経るほど領域は広く、その分、戦死者の数が多い。

「津幡町史」に、以下の記載がある。

『この戦争はドイツ・イタリアと結び、
 ほぼ全世界を相手とする第二次世界大戦の一かんで、ものすごい消耗戦となった。
 津幡の旧町村の人々も多く参戦し、戦死傷者もたくさん出た。
 戦死者名簿によると六八八名で、
 日清・日露の七一名に比べると損害が段違いに大きいことがわかる。
 また「銃後」の生活も物資・食料の窮乏と無権利状態に置かれた。』(原文ママ)



また「町史」巻末には発刊当時の記録も。
個人名は伏せたが、大陸や南方で命を落としたことが分かる。
戦死者の背後には、倍する遺族が。
戦死者が属した組織・軍隊の背後には、彼らを支える更に多くの町民がいた。
北陸の片田舎にある小さな町も、物心両面の犠牲を払ったのである。

(※「太平洋戦争」呼称、戦争の起点には異論あるが、
  現在のところ最もポピュラーなものに統一した)
                  
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水辺に歴史あり。 ~ 津幡町民大学 聴講。

2021年12月04日 19時00分00秒 | 日記
                         
わが津幡町行政の「生涯学習課」では、
年間10数回に亘り「町民大学講座」を開催している。
今年は少なからず新型コロナ感染拡大の影響を受けたが、
関係各位の尽力により講座中止は回避して継続中。
先日、うまく都合がつき
「ふるさとつばた講座③ 河北潟の歴史~その変遷と人々の足跡~」に参加した。
今回は、そこで見聞きした内容に、私見を交え、簡潔に投稿してみたい。



拙ブログでも度々取り上げているが---
「河北潟(かほくがた)」とは、石川県のほぼ中央に位置し、
金沢市、津幡町、内灘町、かほく市にまたがる大きな水辺だ。
かつてのサイズは、東西4km、南北8km。
内灘砂丘の発達によって日本海と遮断されて形作られた、
北陸で最大の汽水湖だった。
戦後、国の干拓事業が進み、残存水域は往時の1/3あまりに留まる。





上は、今講座で紹介された昭和27年頃の河北潟。
国土交通省の写真56枚をつなぎ合わせて作成した合成写真。
下は現在の姿。
角度は異なるものの、形状の違い、水陸の割合の変化などが見て取れる。

---さて、河北潟の歴史は今から2,000年前にまで遡るという。
周辺地域から遺跡が数多く出土していることからも明らかだ。

(※1:北中条遺跡出土、弥生式土器/以前の企画展より)


今講座では、時系列を追ってそれらの紹介があった。
・北中条遺跡   (縄文時代後期~)
・谷内石山遺跡など(弥生時代末期~古墳時代後期)
・加茂遺跡    (奈良・平安時代)
・中橋遺跡
 庄ナカナシマ遺跡(平安時代~室町時代)

土地勘のある方にしか分からないだろうが、
どの遺跡も馴染みの区域名(字名)が付いているものばかり。
昔の河北潟沿いをぐるりと囲むように展開している。

また、干拓以前の様子も紹介された。

(※2:昭和30年 津幡川~河北潟を往く舟)

(※3:昭和30年代 河北潟のシジミ漁)


・水郷が広がる多様な景観と、漁労活動。
・水運・舟運の共同体。
・“北陸の宝塚”を目指し、内灘砂丘に建設された「粟崎(あわがさき)遊園」。
・一時、金沢-東京間を結んだ空路の拠点で河北潟沿いにあった「金沢愛国飛行場」。

そして、干拓工事風景。
どれも、興味深く拝見、拝聴した。
どれも、もう目にすることのできない失われた世界。
全てを記憶しているのは、今も静かに水を湛える河北潟だけだ。



付記:(※1)(※2)(※3)の画像は、
   「津幡町ふるさと歴史館 れきしる」にて入手した。
                      
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