2021年は「太平洋戦争(※)」開戦80年。
今投稿の数日後、ちょうど節目を迎える。
戦争の端緒は、昭和16年(1941年)12月8日未明(日本時間)に決行された、
日本の機動部隊による「ハワイ真珠湾奇襲攻撃」。
史上初の大規模な航空攻撃は、米戦艦部隊をほぼ壊滅させることに成功。
皆、このラジオ放送で大戦果を知った。
昨夜、NHKの「新・ドキュメント太平洋戦争 ~1941開戦 前編~」を観た。
市民、兵士、為政者らが綴った日記や手記などを男女合わせて250人以上収集。
AI(人工知能)に読み込ませ、SNS上の「つぶやき」に見立てて解析。
投稿数に換算すれば12万件にのぼるデータから、
当時の日本人の「心の変化」を捉えようとする、現代ならではの試み。
なかなか興味深い内容だった。
番組のあらましや感想を書き連ねていたら長きに過ぎる。
ご覧になった方も少なくないだろうし、アーカイブ、再放送もあるだろう。
詳しくは割愛したい。
ともかく、AIによる「エゴドキュメント」解析の結果では、
国民の圧倒的多数が開戦を支持したようだ。
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本日の散歩で大西山を訪れ、町中心部を見下ろしながら想像してみた。
この人気のない街道も、80年前は「提灯行列」が練り歩き、
万歳!万歳!が木霊したのだろうか。
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振り返れば、目に入るのは「忠魂碑」。
日露戦争以降、主に在郷軍人会などによって建立された、
戦死者を記念するために建てた石碑。
以前にも取り上げたが、傍には数枚の「戦没者芳名」プレートも建っている。
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黄色エリアは日清戦争。
青色エリアは日露戦争。
緑色エリアは日中戦争(石碑表記は「日支事変」)。
赤色エリアが太平洋戦争(石碑表記は「大東亜戦争」)。
--- 時代を経るほど領域は広く、その分、戦死者の数が多い。
「津幡町史」に、以下の記載がある。
『この戦争はドイツ・イタリアと結び、
ほぼ全世界を相手とする第二次世界大戦の一かんで、ものすごい消耗戦となった。
津幡の旧町村の人々も多く参戦し、戦死傷者もたくさん出た。
戦死者名簿によると六八八名で、
日清・日露の七一名に比べると損害が段違いに大きいことがわかる。
また「銃後」の生活も物資・食料の窮乏と無権利状態に置かれた。』(原文ママ)
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また「町史」巻末には発刊当時の記録も。
個人名は伏せたが、大陸や南方で命を落としたことが分かる。
戦死者の背後には、倍する遺族が。
戦死者が属した組織・軍隊の背後には、彼らを支える更に多くの町民がいた。
北陸の片田舎にある小さな町も、物心両面の犠牲を払ったのである。
(※「太平洋戦争」呼称、戦争の起点には異論あるが、
現在のところ最もポピュラーなものに統一した)