【中日社説】真に憲法の仲間として 沖縄復帰47年
沖縄県読谷村(よみたんそん)。太平洋戦争末期、米軍が沖縄本島で最初に上陸した村の役場前に高さ三メートルほどのコンクリート柱が立っている。
憲法九条の碑。「日本國(こく)民は正義と秩序を基調とする國際平和を…」。旧字体で条文を刻んだ金属板が埋め込まれ、柱の上には植物の萌芽(ほうが)のごとく九条の精神が世界に満ちるように、との願いを込めた彫刻が掲げられている。
輝かしい命
建立は戦後五十年に当たる一九九五年。「沖縄の人々にとって日本国憲法は輝かしい命そのものだった。人間が大事にされ、戦争をしない国になるという希望を与えてくれた。戦後の米国統治下の沖縄の復帰運動は、日本国憲法の下への復帰を目指すものでもありました」。当時読谷村長だった山内徳信(とくしん)さん(84)=元社民党参院議員=は、建立の背景を振り返る。
五二年発効のサンフランシスコ講和条約で、沖縄は正式に米国の施政権下に置かれた。米側は沖縄に日本の「潜在主権」を残すことは認めたが、日本側は六五年、政府統一見解で日本国憲法の「適用はない」と宣言した。
沖縄には米国憲法も適用されない。軍人の高等弁務官を頂点とする米国民政府が軍事的必要性を最優先に行政、立法、司法上の権力を行使。基地拡大のための土地の強制収用をはじめ政治家の弾圧、表現の自由の規制、事件事故を起こした米兵の無罪放免-などが繰り返された。
人々が、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義を基本原理とする憲法下での生活を求めたのは言うまでもない。山内さんによると、若者たちは鉛筆で条文を書き写しながらその日を夢見ていた。
戦争と隣り合わせ
七二年五月、沖縄の復帰は実現する。しかし「日本国憲法への復帰」は決してかなえられたとはいえない。悲運の発端は、広大な基地の継続・維持が盛り込まれた日米間の沖縄返還協定である。
返還交渉中、日本政府は基地の扱いについて「核抜き本土並み」と表明し縮小に期待を持たせたものの、復帰前に沖縄本島面積の20%を占めた米軍基地は今なお14・6%と取り組みは進んでいない。
基地は復帰まで、共産圏をにらむ最前線として最大約千三百発もの核が配備され、ベトナム戦争の出撃拠点となった。冷戦終結後も湾岸戦争、イラク戦争などに空軍や海兵隊を送り出してきた。
日本は戦後一度も他国と戦火を交えていないのに、沖縄は米国の戦争と隣り合わせの状態に置かれ米軍機の事故や米兵、米軍属による事件が繰り返される。在日米軍の特権を定め、翁長雄志(おながたけし)前沖縄県知事が「憲法の上にある」と嘆いた日米地位協定もそのままだ。
沖縄県や県警のまとめでは、復帰後二〇一七年末までに、県内で発生した米軍航空機関連の事故は七百三十八件(うち墜落は四十七件)、米軍人などによる刑法犯罪は五千九百六十七件(うち凶悪事件は五百八十件)。生命、生活、財産が脅かされる日常は法の下の平等に大きく反する。
その上で、名護市辺野古で進められる新基地建設に県民が重ねて反対の意思を示すのは、当然すぎる行動だ。政府は米軍普天間飛行場の移設・返還のためというが新基地完成のめどは立っていない。その矛盾をどう解消するのか。
新基地建設を巡ってはことし一月、国内の主な憲法研究者の約四分の一に当たる百三十一人が連名で「憲法の重要原理を侵害、空洞化する」との声明を発表した。解決には「何よりもまず沖縄の人々の人権問題」を考え工事を即時中止すべきだとする。
「民主主義や地方自治の在り方が問われている点で、日本国民全体の問題」ととらえようとの提起は極めて重要だ。
沖縄の地元紙琉球新報が、本土復帰に関して五年ごとに行っている県民世論調査がある。復帰して「とても良かった」「どちらかと言えば良かった」との回答の合計は、復帰から三十五年の〇七年には82・3%だった。四十周年の一二年にはちょうど80%。さらに五年後の一七年には75・5%と幅を広げながら低下している。
「自己決定権」を希求
一方、同紙の別の県民意識調査では、今後の沖縄の立場について自治州や連邦制への移行、または「独立」を望む声が一一~一六年の五年間に二割から三割超に急増した。「自己決定権」の希求。裏を返せば、復帰の本意をかなえないままの「日本」不信の表れだ。
沖縄を真に憲法の下の仲間とする-。中央の政治はもちろん本土側の国民も、あらためて当たり前のことを行いたい。
沖縄タイムス社説[長官訪米と移設問題]語るべき事語らず何を
菅義偉官房長官は、事実上の「外交デビュー」と位置づけられた4日間の訪米日程を終え、12日帰国した。https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/418832
拉致問題担当相として拉致問題の解決に向け日米の連携を確認することが、訪米の主な目的だった。
米国側は、ペンス副大統領やポンペオ国務長官、シャナハン国防長官代行らトランプ政権を支える主要閣僚が相次いで会談に応じた。
シャナハン国防長官代行やペンス副大統領との会談では、辺野古問題も取り上げられ、引き続き推進することを確認したという。
菅氏はこの機会に、知事選や県民投票、直近の衆院沖縄3区補選で示された民意を米国要人に伝え、県との話し合いによる打開を提案すべきであった。
それが沖縄の基地負担軽減を担当する官房長官の重要な役割のはずだ。
だが、辺野古埋め立てを進める姿勢は少しも変わらなかった。
日米両政府は今回に限らず会談のつど、辺野古移設が唯一の選択肢だと、メディア向けに発表してきた。繰り返し、何度も。
政策に唯一というものはない。「辺野古唯一論」が繰り返し発信される事態は、あまりにも異様である。当事者である県民はカヤの外だ。
政府は「負担軽減のため」だと主張するが、多くの住民は埋め立てによる新基地建設に納得していない。長期にわたって抵抗が持続し、その勢いが衰えないのは、政府の案に無理があるからだ。
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1996年4月、普天間飛行場の移設返還を明らかにした橋本龍太郎首相は当初、二つの点を強調していた。
一つは、地元の頭越しに進めないこと。もう一つは既存の基地内にヘリポートを建設すること、である。
復帰後の基地返還は、都市部にある米軍基地の隊舎や倉庫などを中北部の既存の基地に移設し、それによって都市部の基地返還を促進する、という考えにたっていた。
橋本氏の主張は、この流れに沿ったものだ。
だが、こと普天間返還に関しては、譲れない最低限の条件さえ維持することができず、後退に後退を重ね、「沖縄の負担軽減」という側面は薄らいでいった。
現行の辺野古案は、海兵隊を将来も沖縄に引き留めておきたい政府と、日本政府の予算で辺野古に新たな基地をつくり北部の基地を整備したい米海兵隊の意向が合致したものである。
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安倍政権は、県から埋め立ての承認を得ると、県民投票の結果や県の中止申し入れ、自然保護団体の危惧の声などには耳を貸さず、埋め立て工事を強行し始めた。
米軍統治下の沖縄を描いて直木賞、山田風太郎賞をダブル受賞した真藤順丈さんの「宝島」は、沖縄でも広く読まれている。小説の中の復帰運動を巡る一節が、今の状況と重なって、切実に響く。
「この島の人権や民主制はまがいものさ。本物のそれらはもうずっと、本土(ヤマトゥ)のやつらが独り占めにしてこっちまで回ってきとらん」