今から六十年前の一九六〇年六月十九日午前零時、旧日米安全保障条約を改定した新条約が国会で自然承認となりました。当時の首相は自民党の岸信介氏。安倍晋三首相の母方の祖父です。
岸首相は十八日から十九日朝にかけて、首相官邸で過ごしていました。安保改定に反対するデモ隊が取り巻き、小倉謙警視総監から「ほかの場所に移ってほしい」と要請されますが、岸氏は「首相として官邸以外にいる所がない」としてとどまったのでした。
「対等な立場」目指して
「兄さん、ブランデーでもやりましょうや」。岸氏とともに官邸に残ったのが、弟の佐藤栄作蔵相(のちの首相)でした。瓶とグラスを持ち込み、兄弟二人で自然承認の時刻が来るのを待っていたそうです(「岸信介回顧録」より)。
五一年、サンフランシスコ講和条約とともに結ばれた旧安保条約は、占領が終わり、日本の独立後も、米軍が引き続きとどまるための事実上の「駐軍条約」でした。
このため旧条約には、独立国にふさわしくない数々の問題点がありました。米軍の日本防衛義務が明確でないことや、日本国内の内乱に米軍が対応する規定です。
旧条約を結んだ吉田茂首相の退陣後、五四年発足の鳩山一郎内閣から条約改定の動きが始まります。基地使用制限を恐れた米国側は当初、改定に否定的でしたが、五七年、岸首相は就任四カ月後に訪米し、アイゼンハワー大統領との間で旧条約が「暫定的なものである」ことを確認、翌五八年から改定交渉が始まります。
岸氏ら当時の指導者たちの認識は、旧条約は「非常に片務的な、不平等的な形」であり、安保改定は「日本が独立国として対等な立場で発言権を持つ」ためでした。
不平等条約の改定です。にもかかわらず、警察官の権限強化を画策するなどした岸氏への国民の反発は「反安保」運動に発展。岸氏は六月二十三日の新条約発効後、首相退陣に追い込まれます。
地位協定で特権認める
あれから六十年。岸氏らが目指した「対等な立場」の日米安保関係は実現したのでしょうか。
新憲法で戦争放棄と戦力不保持を誓った戦後日本は戦火に巻き込まれず平和を享受してきました。今も世界三位の経済大国です。
必要最小限の実力として自衛隊を保持するには至りましたが、日米安保に基づく米軍の存在が日本の安全保障に一定の役割を果たしてきたのも事実でしょう。
日米安保は「盾と矛」の関係に例えられます。「盾」の自衛隊は専守防衛に徹し、「矛」である打撃力は米軍に委ねる関係です。
その代わり、占領期でないにもかかわらず、米軍は日本への駐留が認められ、基地提供などの経費は日本側が負担しています。非対称ですが、双務的な関係です。
冷戦終結後は、米国の圧力を背景に自衛隊の役割や装備が強化され、海外にまで派遣されるようになりました。特に、同盟強化を掲げる安倍首相の政権復帰後、日本の防衛費は再び増額に転じ、防衛力の増強が続いています。
歴代内閣の憲法解釈を変更し、他国同士の戦争への参加を可能にする「集団的自衛権の行使」の容認にも転じました。中国、北朝鮮の軍事的台頭はあるにせよ、平和憲法を踏みにじってでも、軍事的に対等な「同盟関係」に近づけるのが安倍内閣のもくろみです。
とはいえ、「対等な立場」の関係には程遠いのが現実です。駐留米軍に特権的な法的地位を認めた日米地位協定と合意議事録は手付かずだからです。
地位協定は、米軍基地内での米国の排他的な使用権や管轄権を認め、日本の主権は事実上及びません。基地外でも米軍の同意がなければ、日本側に米軍財産の捜索や検証をする権利はありません。
米兵らが公務中に事故や事件を起こした場合、米側に第一次裁判権があり、公務外の事件・事故も米側が身柄を確保すれば、日本側への引き渡しは殺人などの重大犯罪以外、基本的に起訴後です。
日本でありながら、日本の主権が及ばない。これでは、とても対等な関係とはいえません。
不平等の現状変わらず
沖縄には今も在日米軍専用施設の70%が集中し、県民がどんなに反対しても、新しい米軍基地の建設が強行されています。
地上配備型迎撃ミサイルシステム(イージス・アショア)の配備は停止されたとはいえ、F35戦闘機やオスプレイなど高額な米国製防衛装備品の購入は続きます。
内閣府の世論調査では安保条約支持は八割以上に上ります。
しかし、安保改定が目指した日米両国の「対等な立場」がいまだ実現されていない現実から、目をそらしてはなりません。地位協定を含む不平等な現状をどう改善していくのか。改定六十年を迎える安保条約の課題です。
◎安保闘争