赤い靴で 街あるき

横浜の波止場から~♪函館に。
街の散策やキッチンの片隅から。見たり聞いたりの「ひとかけら」を綴ります。

遠い昔さえ。。。

2007-08-15 | 日々のひとかけら

   

前に、私は<札幌磁石人間>だと、書きましたが・・・

<札幌>に限ったことではなく
遠い昔さえ。。。。引き寄せる磁力があるようなんです。

     *    *    *    *    * 

数年前、夫の転勤で山口県下関市に3年間いました。

私たちには初めての土地でしたが・・・
夫の父は、3ヶ月滞在していたことがあった。
遠い昔に。。。

私たちのところへ、夫の両親が訪ねてくれた時
父と一緒に、昔々滞在していた○○旅館を探した
でも、ハローページ・イエローページにはないし・・・
地名だけを頼りに、訊ねてみても全くわからない。
(街並みもすっかり変わってるし)

「やっぱり無理だよな。50年以上前のことだし
もう建物は残ってないよな・・・」と両親は帰ったが
私は、下関を離れる前に、役所などに出向いて調べようと
秘かに思っていました。
(そういう調べものは、けっこう好き

その後。整形外科や整骨院とは無縁だった私が
頚椎ヘルニアになり、両方へ通うことになった。
(どちらも、初めて)
評判の良かった整骨院が近所だったのに
私が通うことになる、ほんのちょっと前に移転。
車での通院でした。

通っていた整骨院はマンションの1階にあった。
(父が探していた旅館のあったところと、同じ地名)

ある日、近くを散策してみると 見るからに老舗っぽい
味噌屋さんを発見!
入ってみると、やはり製造・販売の老舗でした。
店番をなさっているおばあちゃまが、とてもお上品なかた。

お味噌も美味しくて、何度かお店に通っているうちに、
そのかたが家付きお嬢さんで、お婿さんをとってお店を
継いだと知りました。
この方なら、このあたりの昔をご存知かも。。。。

ある時、思い切って訊ねてみた。
「○○旅館って、このへんにあったようですが
ご存知ですか?」
「あ~知ってますよ。隣の自転車屋さんがそうですよ。
だいぶ前に、旅館を閉じて前の人は住んでないけれどね」

自転車屋さんが、父のいた旅館だったとは・・・・
たしかに、古い建物だし、2階の窓の作りが旅館らしい。

旅館といっても、とても小さな規模だったらしい。
「旅館の人が、うちに電話を借りにきてたんですよ」と
言うから、電話さえなかったらしい。
(いくら昔とはいえ、味噌屋にはがあったんですから)

横浜の父に報告すると、「去年あんなに探したのに」と
ただただ驚くとともに、
「さすが△△さん(私のこと)だなぁ。
探してくれたんだな。ありがとう」と 喜んでもらえました。
(お隣のお味噌屋さんの記憶はないとのこと)

父が懐かしがったその旅館。
そこにいたのは、昭和20年5月~8月。

5月に召集され、下関から船で戦地(おそらく中国)へ。。
。。。だったらしい。。。
でも、父たちの部隊が乗るはずだった船は
目の前で爆撃された。

戦地へ向かう船はもうなかった。
○○旅館にいて、防空壕を掘ったりの3ヶ月だったらしい。

父たちが、防空壕を掘ったという旅館の裏山。
整骨院のあるマンションは、その裏山を削って建てたもので
戦勝を祈って、毎朝参拝したという神社もありました。

やがて、終戦。8月15日。

召集されながらも、戦場へは行かずに父は
まもなく横浜へ戻ることができました。

もしも、あの時乗るはずの船が爆撃されなかったら・・・
さらに、兵隊を運ぶ船が、もしもまだあったら・・・
こうして、色々な<もしも>を考えると・・・

私は、横浜に住んではいなかったかもしれません。

そして、さらに<もしも>・・・
夫の転勤がなかったら・・・
私が頚椎ヘルニアにならず、いえ仮になったとしても
あの整骨院が移転していなかったら・・・

終戦の夏に父がいたという、あの建物を
見つけることはなかったと思うのです。

なにか目に見えない大きな力が、そこまで連れていって
くれたような気がします。

                

長い話を読んでくださって ありがとうございます

不思議な<磁力>は、自分の同郷人だけでなく
父の探していた建物さえ、引っ張ってしまうでしょうか(笑)

青く広がった夏空を撮ったのですが、昔話にふさわしく
今日はセピアにしてみました。