中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

雑煮

2007-01-01 19:41:51 | 身辺雑記
 まずは、友人、卒業生、知人の皆さんに「明けましておめでとうございます」と申し上げます。本年もよろしくお願いいたします。

 2007年の元旦は快晴ではないが、穏やかに明けた。いつものように朝寝坊して起き出し、これもいつものようにあまり食欲はないのだが、元旦なのだから雑煮を作った。2人分作り、1つは妻に「新年おめでとう」と言って、買ってあったお節と一緒に供える。毎年のことだが、この時には独りなのだと言うことを改めて思い、寂しさがこみ上げてくる。妻がいた時には雑煮や手作りのお節を前にして、向かい合って少し他人行儀に新年の挨拶を交わすのが、いかにも元旦らしく爽やかで暖かい雰囲気で、新鮮な気持ちになったものだった。毎年懐かしく思い出す。

 我が家の雑煮は祖父の代からの関東風だ。母方の祖父は岐阜の大垣出身、祖母は滋賀の長浜出身だったが、どうも雑煮は関西風の味噌仕立てのものではなかったようで、大阪生まれの母も私が物心ついた時から関東風の雑煮を作っていたし、味噌仕立てのものは好きではなかったように思う。関東風と言っても、いろいろなものがあるのだろうが、私の家ではこんなものだ。

 まず、餅は長方形の切り餅で、大晦日には平たく伸した餅を切り分けるのが父の、長じてからは私の仕事になった。まだ少し軟らかいうちに切っておかないと、硬くなると難渋する。この切り餅を焼いてから椀に2切れ入れ、その上に甘辛く炒りつけた鶏肉、ほうれん草、紅白の蒲鉾を置き、澄まし汁を注いでから最後に小さく切った海苔を1枚と、削いだ柚子の皮を置いて出来上がりである。



 子どもの頃からずっとこのような雑煮だったから、結婚してからも妻にはこのようにしてもらった。妻は広島出身で雑煮は澄まし汁だったらしいが、広島らしく牡蠣が入っていて、それがとても嫌で涙が出たわなどと言っていたから、すぐに我が家伝来の雑煮を作ってくれるようになった。息子達の家庭ではどうしているのか知らないが、3日に会った時に尋ねてみよう。

 中高生の頃は敗戦直後で食料が豊かでなかったが、戦後住み着いた滋賀の大津の家の周囲は農家ばかりだったから、もち米は比較的たやすく手に入ったようだった。だから餅もかなり搗いた。普段はあまりたくさん食べていなかったこともあり、発育盛りの年頃でもあったから、雑煮は何杯もお代わりしたものだった。6人きょうだいだったから、母も大変だっただろうと思う。今では1杯食べたら十分で、3が日雑煮ばかり食べるのもあまり気が進まない。それでついつい餅に黴を生やしてしまうことになる。昔は冷蔵庫がなかったから、硬くなった鏡餅を小さく割って水を張った甕に入れて台所の冷たい場所に置いておく。正月も半ばを過ぎてからこれを取り出して湯掻いて柔らかくして黄な粉をまぶして食べる。何やら少し黴臭い感じがしたこともあって私はこれがどうにも苦手で、後年になっても黄な粉をまぶした餅が好きになれなかったが、いつの頃からか食べるようになった。そのような年齢なったのだろうと思う。

  ひとりで雑煮を祝った後は年賀状をゆっくりと読んだ。初日は350枚ほど来たが、一人ひとり顔を思い浮かべながら読むのは楽しい。イタリア旅行をしたと言う添え書きが何枚かあったが、イタリアは人気があるのか。まだ来るはずのものもあるから、これから数日は楽しめるだろう。賀状を読んでしまうとこれと言ってすることもない。中国でも今年は3日まで休み(その代わり30、31日は出勤)だから、チャットすることもない。元日だからメールも入っていない。街に出てもしようがないからぼんやりと寝正月をした。今日はいつもよりは1日が長かったように感じた。