中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

結婚

2007-01-25 10:48:37 | 身辺雑記
 年末から年始にかけて陰惨な事件が続いた。中でも大きなニュースになったのは兄が妹を殺し、妻が夫を殺した事件で、どちらのケースでも殺した後で遺体を切断して、隠したり捨てたりしている。家庭の経済状態は悪くなく、むしろ恵まれている方で、どちらも被害者に対する憎しみの感情が爆発した結果のようだ。きょうだいや夫婦の間でこのような残酷な事件が起こるのは、よほど憎悪の念が強かったのだろうが、それにしても遺体を切断するなどと言うことは異常極まりない。

 このような家庭内での殺人事件が報じられるたびに、なぜこんなことが起こるのか理解できないし、とりわけ夫婦の間に起こったケースでは、それが何らかの利害を伴ったことであれば特に、夫婦とはいったい何なのだろうと考えさせられてしまう。今回の妻による夫の殺人と遺体損壊遺棄事件の場合でも、夫の度重なる暴力や双方の不倫が原因だとかいろいろ言われているが、何かもう1つ釈然としない。所詮加害者の心理というものは第3者には理解できないことなのだろうとも思う。

 夫婦はもともと他人同士であったのだから、その関係が冷えたり険悪になれば、また元の他人に戻ってしまうと言えばそれまでで、結果としては破綻することも当然あるし、現に別れる例は多く、そのほうが双方あるいは一方にとって良い場合もある。それを他人がとやかく言っても始まらないことだと思う。それでも他人同士が生活を共にしようと心に決めたのは、それが恋愛であれ見合いであれ、相手に対する何らかの共感のようなものがあったからのはずで、それが殺したくなるほどの憎悪に変わるのはなぜなのだろう。このような事件が起こるたびに識者がいろいろ分析したり解説したりするが、私にはすっきり理解できたことがない。なぜ、そうなる前に別れなかったのかと至極単純に思ってしまう。

 私はかねがね結婚というものは、堅苦しい言い方だが、異文化の融合による創造の営みではないかと考えている。このことは国際結婚についてなら理解しやすいだろうが、日本人同士の結婚の場合でも本質的には同じだと思う。それぞれが育った家庭を含む環境というものは、まったく同じではありえず、そういう意味では互いに異なった文化の中で成長してきた。私が知っているある女性は、伊勢のホテルで年末年始を過ごした時、出された雑煮が味噌仕立てで餅が丸かったので、こんな雑煮があるのかととても驚いたと言う。彼女は東北の出で雑煮は澄まし汁で切り餅だったようで、こんな雑煮は初めてだったと言った。こんなことでなくても、夫婦となった2人がそれぞれ育った家での日常のご飯や味噌汁の味でさえも微妙に違っているはずだ。それ以外にもさまざまな生活習慣が違っていて、最初は戸惑うことも多いだろう。それが夫婦としての生活を続けているうちに互いが持ってきた「文化」が次第に溶け合って、その夫婦の家庭の新しい「文化」が創られていく。だからその過程では互いに辛抱や妥協、折り合いをつけることも必要になってくる。大袈裟な言い方をすれば、自己変革も必要になるだろう。

 私のこのような結婚観は古めかしく観念的だと批判を受けるかも知れない。しかしこれは意識的に努力してきたということではないが、40年間の結婚生活から私なりに得た結論で、顧みると結婚と言うものは真に大事業だとしみじみと思う。だから妻を亡くした後で、再婚する気は?と聞かれたことは何度かあったが、その気はまったくないと答えてきた理由の1つは、こんな長い時間がかかる大事業をもう一度やってみる時間も気力も、もはや私には残されていないということなのだった。