中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

1955年1月17日午前5時46分

2007-01-17 09:18:02 | 身辺雑記
 あの日からまる12年がたった。

 あの日は前の夜、2階の自分の部屋で遅くまで起きていたので、部屋にあるベッドで眠っていた。そして突き上げるような大きな揺れで目を覚ました。地震だとすぐに判ったが、部屋の中は真っ暗で明かりを点けようとしたが停電している。足元がひどく濡れている。後で分ったことだが、数日前に妻が花を生けた花瓶をベッドのそばに置いたのが、足元に飛んできたのだった。とにかく大きな地震だと思ったので部屋を出ようとしたが、ドアの前には本棚が倒れ掛かってなかなか出られない。暗闇の中で何とか本棚をどけて部屋を出て階段を下りる途中で、下で寝ている妻の悲鳴が小さく聞こえた。妻の上には壁際の本棚が倒れ掛かり本が散乱していたが、本棚の上段の方には重い本はなくビデオテープばかりだったので、妻にはかすり傷もなかった。妻の足元に寝ていたペキニーズ犬はすばやく飛びのいたのか、部屋の片隅で不安そうにうずくまっていた。

 2人で外に出たが真っ暗で、北にある山を造成して作った高層住宅群のすべての窓には明かりがなく、住宅群が黒い大きな塊のように見えた。ひどく寒かった。今でもあの時の寒さを思い出すことができる。隣家の主人が蒼い顔をして出て来て挨拶した。とにかく近年では珍しい大きな地震だったのだろうとは思ったが、何しろ停電しているからテレビも見ることができない。明るくなって近辺を歩いてみると、近くにあった藁葺きの農家が崩れ落ちているので、これはひどい、新聞社が来るかななどと神戸などでの惨状を知らないものだから呑気に考えていた。午後に東京の義妹から電話があり、初めて神戸やその近辺が壊滅的な災害を被ったことを知った。夕方には電気も通じたので、一晩中ニュースを見ていた。何もかも信じられないようなことばかりだった。

 このような私が経験したあの朝のことなどは、言語を絶する悲惨な体験をした多くの被災者の方々に比べると、まったく取るに足らないものだった。それでもあの日以後には私なりにいろいろな経験をし、それを書こうとすればいくらでも書くことができる。たとえば、ボランティアの人達などの活動や多くの善意に接して心温まることもあった反面、一部の被災者の横暴とも言えるエゴ丸出しの行動に怒りを覚え、人間の本性というものは、このような異常な状態に置かれた時にむき出しになってくるものだと思ったこともあった。

 あれからもう12年もたったが、私のような避難所生活もしなかった被災者とも言えない者に比べ、身内を亡くし家も財産も失った方達の心の深い傷が、今なお癒えることがないのは当然のことだろう。最近も東海地方や南海沖で大地震が起こることが予測されている。科学的な予測だからいずれはかならずまた起こることなのだろう。それについてのテレビ番組などでは「死者の推定数は○千人」などと解説されるが、実際にその「○千人」が現実のものになったらと考えると何とも言えない気持ちになり、「備えあれば憂いなし」という決まり文句にも何か虚しさのようなものを覚えてしまう。