中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

什麼

2007-01-27 10:35:17 | 中国のこと
 中国語を勉強していると、時折「什麼(shenme)」と言う言葉が出てくる。これは疑問代名詞で「なに」とか「なんという」などの意味だ。西安の李真達とチャットしていると、時々中国語で書いてきて意味が解らないことがある。そんな時には「什麼意思?」(どういう意味?)と返すと日本語で教えてくれる。そんなこともあって、この言葉は何となく親しみが持てる中国語のように思ってきた。

  ところが、思いがけないところでこの言葉に出会った。前に紹介した内田百の本の中の「続百鬼園随筆」にある「大晦日の床屋」という作品を読んでいると、前に読んだ時には気がつかなかったようだが、こんな箇所があった。大晦日の夜の床屋で客達が順番を待ちながら会話している場面で、

  「今日の大崎屋の昼鳶ひるとんび什麼したでしょうな」と金物屋が云い出 した。
  「まだ、警察に居るでしょうな」と前の伯父さんが云う。

  「什麼した」の「什麼」には振り仮名がつけてあって「どうした」と読ませている。これを読んで、日本でも「什麼」が使われていたことを知ってちょっとびっくりした。百がこの作品を書いたのは17歳の頃と言うから、明治39年の頃、今から100年ほど前のことだ。出版された当時の百の作品には振り仮名はついていたかどうかは分らないが、その頃の人達は「什麼したでしょう」に振り仮名をつけていなくても、「どうしたでしょう」と読むことはできたのだろう。今ではいったいどれくらいの人が振り仮名なしですらっと読めるだろうか。まさに「明治は遠くなりにけり」の感がする。

  「什」の意味を調べてみると、いくつかある中に「近世の俗語では『何』という疑問詞を什麼(ジュウマ)・(ソモ)・(イカン)と書く」とあったので、ずいぶん昔から使われている言葉だということが分った。やはり現在の中国語と同じ「何」という意味だ。「麼」は語調を整える言葉らしい。ところで幼少の頃、講談全集などを読んでいると、禅坊主が互いに「ソモサン」、「セッパ」と声を掛け合って問答に入る場面があった。意味は分らないがその語調が何となく面白くて口ずさんだりしていた。この「ソモサン」も「什麼」に関係があるのだろうと思いついて調べてみると、やはりそうで、「什麼生」あるいは「作麼生」、「怎麼生」と書くようだ。「いかが」、「いかに」、「さあどうじゃ」という意味で、問答を仕掛ける時の掛け声のようなものだろう。もとは宋代の俗語で、禅宗で使われたものと言うから、確かに中国由来の言葉だ。「怎麼」も中国語の勉強をしていると出てくる言葉で馴染みがあり、「どのようにして」という意味だ。なお「セッパ」は「説破」のことで、これは日本語だろう。「ソモサン」と言われて「論破してやる」と応えたわけだ。

  百の作品のちょっとした言葉からいろいろのことを知り、大して役には立たないことだろうが、何となく得をしたような気になった。