中国古代の前漢王朝(前202~後8)は高祖劉邦以来214年間に11人の皇帝が立ったが、彼らの内2人を除き9人の陵墓は西安の西北約40km、咸陽市の北の黄土台地に、東西50キロにわたって築かれている。
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その最も西にあるのが第7代の武帝(劉徹)の茂陵であり、歴代陵墓中最大である。
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1963年に建てられた碑。
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遠くから見るとなだらかな丘のように見えるが、高さは47m、陵の周囲は916mで、錐形をしていて上面は平らで、上部を削ったピラミッドのような形らしい。かつては頂上まで行けたらしいが今では登れない。画面中央にあるのは清の乾隆年間の碑。
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諡号(しごう、死後の贈り名)は孝武皇帝
陵墓にある樹木は近年植えられたものと言う。
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武帝の在位54年間には政治、経済、軍事の面で漢の国威は大いに発揚され、たびたび軍を派遣し西方の匈奴と戦い、シルクロードも開いた。このような時代を背景に、茂陵の建造にも即位直後から53年という長い年月と、年間の租税の3分の1という莫大な費用を注ぎこんだ。
当時、漢代の埋葬制度に従って、茂陵の東南の辺りに茂陵邑という町が造られ、ここに多数の文官、武官、貴族が相次いでここに移住し、町の人口は28万人にもなったと言う。ここに住むことはステータスシンボルともなっていたらしい。
建造以来2000年の歳月を経た現在の茂陵の周辺は物寂しく、かつての栄華を偲ぶことはできない。
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その最も西にあるのが第7代の武帝(劉徹)の茂陵であり、歴代陵墓中最大である。
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1963年に建てられた碑。
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遠くから見るとなだらかな丘のように見えるが、高さは47m、陵の周囲は916mで、錐形をしていて上面は平らで、上部を削ったピラミッドのような形らしい。かつては頂上まで行けたらしいが今では登れない。画面中央にあるのは清の乾隆年間の碑。
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陵墓にある樹木は近年植えられたものと言う。
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武帝の在位54年間には政治、経済、軍事の面で漢の国威は大いに発揚され、たびたび軍を派遣し西方の匈奴と戦い、シルクロードも開いた。このような時代を背景に、茂陵の建造にも即位直後から53年という長い年月と、年間の租税の3分の1という莫大な費用を注ぎこんだ。
当時、漢代の埋葬制度に従って、茂陵の東南の辺りに茂陵邑という町が造られ、ここに多数の文官、武官、貴族が相次いでここに移住し、町の人口は28万人にもなったと言う。ここに住むことはステータスシンボルともなっていたらしい。
建造以来2000年の歳月を経た現在の茂陵の周辺は物寂しく、かつての栄華を偲ぶことはできない。