中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

桜切る・・・

2007-01-14 23:38:33 | 身辺雑記
 いつも通る道から見える桜の木が枝を切り払われた。

 この桜がある家の2階くらいの樹高で、桜の樹齢についての知識はないから、年月を経ているように見えるがどれくらいのものかは分らないし、とりわけ特徴のあるものでもないごく普通の桜だ。それでもこのあたりでは一番大きく、枝はかなり張っていて道路の上にアーチを作っているようだった。春にはぎっしりと花を咲かせる様子はなかなか美しく、いつも眺めて楽しんでいた。

 それが年末のある日、作業車が来て電動鋸で枝をほとんど切り払ってしまったところにちょうど通りかかり、ちょっとびっくりして立ち止まってその様子を見た。なぜ切ったのか理由は分らない。家か道路の邪魔になるのだったら根元から切り倒すだろうが、大きな枝だけを切っているからそうでもないようだ。枝を切り取られた後の姿は醜くなってしまい、それなりにあった桜らしい姿ではなくなってしまった。



 かつて「桜切るバカ、梅切らぬバカ」という言葉を聞いたことがある。桜の枝を切ってしまうと樹形は醜くなり、梅は枝を切ることで姿がよくなると言うことのようだ。この桜も無残な切り口をさらしていて、おそらく桜らしい姿に戻ることはもうないだろう。近寄ってみると細い枝は残っていて芽が着いているから、春になれば少し花を咲かすだろうが、これまでのような見事な開花は見られないだろう。これまでずっと見慣れてきたので、やはり何か寂しい感じで、去年の春に写真を撮っておけばよかったと思った。

哈薩克(カザフ)族

2007-01-12 10:50:52 | 中国のこと
 新疆ウイグル自治区は広大で、8つの国(モンゴル、ロシア、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、アフガニスタン、パキスタン、インド)と国境を接している。北端のアルタイ地方があるカザフ自治州は、西はカザフスタンと接していてカザフ族が多い。

 カザフ族は遊牧の民で幼少の頃から馬に乗り、女性でも巧みに操るそうだ。イスラム教を信仰している。夏には平地から高原に羊や馬などを移動させ、ユルトと言う組み立て式のフェルト張りテントで生活しながら放牧する。このユルトは、パオ(包)としてよく知られているモンゴル人のゲルと同じようなものだそうだ。

羊の放牧




 馬を追う牧夫。遠くに見えるイスラム教の寺院(モスク)のような白色の建物はカザフ族の墓所。カザフ族は遊牧生活をしているので、このような墓を建てて葬るが、生まれてくる時は何も持って来ないので、葬る時も副葬品は入れないとのことである。いかにも遊牧民らしいと思った。一家族が皆同じ墓に入ると言う。



 アルタイの高原に行った時は9月の下旬だったので、もう牧草は茶褐色になっていて、そろそろ平地に戻る時期だった。途中でも高原から下りて来る羊などの群れに何度も出会った。大きな群れでも1人の牧夫が馬に乗って動かしていて孤独な感じだった。アルタイからの帰りにジュンガル盆地の西縁に沿って南下した時、広大な草原に点在しているパオを見た。カザフ族のものかモンゴル族のものかは判らなかったが、それぞれのパオは互いに随分離れていて、中には1つだけぽつんとあるのもあった。広大な草原の中のパオを見ていると非常に寂しい感じがしたが、毎日をこのような所に暮らしている人達の語彙には「孤独」とか「寂寥」と言う言葉はあるのだろうかと考えた。





善意

2007-01-10 00:31:49 | 身辺雑記
 札幌市から手紙が届いた。封筒の裏の氏名を見て、面識はないがどういう方かすぐに判った。冒頭に年内に身内の不幸が続いたので返事を出すのが遅れたことを詫びてあるが、去年私が手紙を差し上げた、西安の李真がお世話になった方の奥さんからだった。

 去年の7月に李真は勤めている旅行社の出張で来日した。まず東京に着きそれから会議場のある札幌の定山渓温泉に行くために国内線に乗り換えたが、それが遅れて札幌に着いた時にはかなり遅くなっていた。バスターミナルまで走って行ったが、定山渓温泉行きのバスは見当たらない。たまたまそこにいた男性に尋ねると定山渓行きの最終バスは出た後だということだった。途方に暮れた李真に男性は、途中まで行くバスがあるから、そこからタクシーで定山渓温泉まで行けばいいと教えてくれたそうだ。

 その後のことは、奥さんからの手紙にはこうあった。

 「・・・よくよく話しを伺ってみますと、きょう、中国から来日されたばかりで札幌の地理もよくご存じないとの事。
 定山渓温泉は街なかにある温泉街とは違い、市街地からは夜は暗い国道を走らなければなりません。
 時間も遅く、若い女性一人きりという事もあり、万が一事故にでも遭ってはいけないと、主人は自分が自家用車で送り届けてさし上げた方がよいと判断したようです」

 そうしてこの男性Yさんは奥さんに電話でメールを入れて、家の近くのバス停まで車で来るように指示された。そして奥さんと一緒に李真を定山渓温泉まで送り届けてくださったのだった。何ともご親切なご夫婦と言う他はない。

 帰国した後で李真とのチャットでこの話を聞いたが、李真はまさに「地獄で仏の」思いだったようで、奥さんの手紙によると李真はご夫妻に「日本人は親切です。札幌でYさんご夫婦にお会いできて、私はラッキーでした。お二人は日本の誇りです」と言ったそうだ。彼女の安堵と喜び、感謝の念がどんなに大きかったか容易に想像できる。帰国してから彼女は両親や会社の同僚達にこの話をしたそうだが、皆とても感心したようで、両親も「日本人の誇りだ」と言ったそうだ。今日、李真とチャットして奥さんからの手紙のことを話すと、彼女は改めてその時の感動を思い返したようで、「もし、西安の駅でこんなことにあったら、どうなるかなと考えます。」と言っていた。

 私も李真から話を聞いて非常に感動し、同じ日本人として誇らしく思ったので、Yさんには李真の友人として礼状を出した。奥さんは手紙の中で「こんな私達がしている当たり前の小さなことを、そんな風に受け止めて下さる李さんの心のほうがよっぽど美しいと私は感じました」と謙虚に書いておられるが、とりわけ嬉しいのは「この様な小さい事が国際交流になるとしたら素晴らしいな・・・と思いました」、さらに「またチャットなどをされる機会がございましたら、李さんに私達の方こそ『ありがとう』と申し上げたい旨、宜しくお伝えくださいませ」とも書かれてあったことだった。改めて日本にこのような人達がおられることに誇りを感じた。 

 我が国の首相は就任する前からしきりに「美しい国の創造」を言う。何をもって「美しい国」と言うのかもう1つよく分らないのだが、このYさん夫妻のような善意溢れる人達がもっともっと多くなるような国が真に美しいのではないだろうか。

 Y夫人のきれいな筆跡で書かれた丁寧な文面を繰り返し読んだ。手紙には家の周りで摘んだというもみじの押し葉が同封されていて奥ゆかしく感じられ、新年らしい爽やかな気持ちになった。

              

即席麺

2007-01-08 10:30:33 | 身辺雑記
 世界に商品も名前も広めた即席麺の開発者が亡くなった。

 即席麺が初めて販売されたのは58年(昭和33年)のことだ。この年に私は教師になったが、ある休日に、担当した1年生の生徒達が数人、私をピクニックに誘ってくれた。山道を歩いている途中で一休みした時、1人の生徒が「先生、こんなものがあるんですよ」と言って取り出したのが即席麺だった。初めて見るものでひどく興味を持った。その時には湯がなかったので、皆で少しづつ分けてボリボリ齧ったが、これは旨いなと言ったのを覚えている。その後、この即席麺はたちまち人気が出たようで、我が家でも時々食べるようになった。

 当初はその企業のものだけだったから、その商品名が即席麺の代名詞のようになっていたが、やがて即席麺は発展の一途をたどり、食品関係の企業はさまざまな種類のものを販売するようになった。テレビでは競うように各社の即席麺のCMが映し出されるようになり「3分間待つのだぞ」と言うキャッチコピーが流行語のようにもなった。当初こそ珍しく思って我が家でも時折食べたが「食卓に上る」と言うほどではなく、息子達が食べている姿を思い出すことができない。しかし、開発者の企業は今では世界10カ国で年間100億食を製造しているようで、社団法人日本即席食品工業協会の統計によれば、2005年度に全世界で消費された量は約857億食(カップ麺を含む)、国内の生産企業は20社以上あると言う(Wikipedia)。世界的なファーストフードと言うことか。日本の宇宙飛行士がスペースシャトルの中でカップ麺を食べて話題になったこともあった。ある学者は「食品としては20世紀最大の発明」とまで言ったそうだ。

 中国でもいろいろな即席麺が売られているが、どれも丼型や大きなカップ型の容器に入ったもので、テレビでCMが放映されている製品もある。各種の麺の本場の中国でこのような即席麺に人気があるのは不思議なような気もするが、やはり手軽さが受けているのだろう。列車内でも販売していて、中国の列車内では熱い湯のサービスがいつもあるから、乗客たちは手軽な食事として利用しているようだ。

洛陽から西安への列車内で即席麺を食べる邵利明



  街で売っているものを何回か買って持ち帰り食べてみたが、味は日本のものとはまったく違うチャイニーズテイストで、濃厚で辛く、香りも強いから、日本人にはあまり好まれないと思う。韓国のものももらったことがあるが、これも辛かった。今では世界各国で生産されているようだが、おそらくその国の国民の味覚に合わせたさまざまな味なのだろう

維吾爾(ウィグル)族

2007-01-07 10:41:28 | 中国のこと
 中国本土には22の省、4直轄市(北京、上海、天津、重慶)と5自治区があり、西北端にある新疆ウィグル自治区が最大の行政区画である。

 雄鶏の形をした中国の尾に当たるところが新疆で、新疆の北の突出した所には、北部にアルタイ山脈、その南にジュンガル盆地(コルバントングト沙漠)、さらにその南には天山山脈がある。新疆の中央部から南部にかけては広大なタリム盆地(タクマラカン沙漠)が占めている。区都のウルムチは、この地図の「新疆」という文字の上の辺りにある。

 

の文字の偏の「弓」は新疆の国境線を表していて、「弓」の中の「土」は国境を守る人(「士」ならわかりやすいが)。旁の一番上の「一」はアルタイ山脈、その下の「田」はジュンガル盆地、中央の「一」は天山山脈、その下の「田」はタリム盆地、一番下の「一」は崑崙山脈を表していると、これはガイドの趙戈莉の話だが、こじつけにしてもうまくできている。

 この自治区で最も多いのがウィグル族で約48%を占めている。ウィグル族はトルコ系の民族だから中央アジア系の民族の目鼻立ちをしていて、区都のウルムチなどではイスラム教の雰囲気もあって、これでも中国なのかと思うくらいである。驚くようなエキゾチックな美女を見かけることもよくあるし、男性は髭を蓄えているのが普通だから漢族とはまったく違っている。



 ウィグル語は日常的に使われ、幼児の時には家庭ではウィグル語で話しているので、中国語(普通話)を話せるようになるのは学校に行ってからのようだ。老人達の中には中国語を話せない者もかなりいるらしい。文字はウィグル語を表音化したアラビア文字を使っていて、たとえば「新疆ウィグル自治区」はشىنجاڭ ئۇيغۇر ئاپتونوم رايونىのようになり、官公庁や企業の表示や道路標識などすべてに漢字とアラビア文字とが併記されている。

新華書店。中国各地にある。


 イスラム教を信奉しているから、豚肉は食べないで羊肉を常食する。ガイドの趙戈莉によると「豚」と言ってもいけないということだから戒律は厳しいようで、酒も飲まずタバコも吸わない。

ウルムチのバザールでの羊肉の店。


 夕方の路上でのナン売り。竈で焼いた円盤状のパンのナンを主食にする。ウルムチの空港でも売っていたので買って帰ったが、なかなか旨いものである。


 現地で買った冊子によると、ウィグル人は「客好き、礼儀正しい、目上を敬い目下を愛する、明るい」とあり、親しみやすい民族であることが分かる。ウルムチの南東120キロほどのところにあるトゥルファンで、夕食後散歩に出た時のこと、孫らしい男の子を連れた婦人が前を歩いていたが、その子どもがいかにも愛らしい様子なので追い越してから笑いかけると、その女性が何か言った。趙戈莉によると「お爺ちゃんにこんにちはと言いなさい」と言ったらしい。何でもないことなのだが、何かしらほのぼのとして気持ちにさせられたものだった。

 5世紀末から7世紀半ばにかけて存在した高昌国の廃墟である高昌故城で出会った少女達も親しみやすくて愛嬌があった。インスタントカメラで撮って渡してやると、とても喜んで「プレゼント」と言いながら石榴や葡萄、玉(ぎょく)のアクセサリーなどをくれ、そこを離れる時には車に寄ってきて「さよなら。また来てください」と言いながら手を振って見送ってくれた。どうやって覚えたのか、滑らかな日本語なので驚いたが、年少であってもウィグル人の気質がよく表れているのだろうと、この短い交流はとても印象に残った。



  玉のアクセサリーは鶏をかたどったもので、私の干支だから中国に行く時に持っていくバッグにはいつも付けて大切にしている。



民族差別

2007-01-05 09:49:25 | 中国のこと
  中国は多民族国家である。大多数(92%)を占め漢族以外に55の少数民族がいる。たとえば中国の西北端の新疆ウィグル自治区にはウィグル族が最も多く(約48%)、 その他にカザフ、回、キルギス、モンゴル(蒙古)、タジク、シボ、満(満州)、ウズベク、オロス(ロシア)、タタールなど46の少数民族がいて、新疆の約60%を占めていると言う。漢族はこの地では少数だ。このように新疆には多くの民族が居住しているが、やはり民族間には垣根のようなものはあるようだ。異民族間の婚姻はほとんどないと聞くし、微妙な感情もあるようだ。2003年に新疆の東北端のアルタイ地方に行った時にそのような異民族間の微妙な感情というものを感じたことがあった。

  第1日目の夜を過ごしたジムサルという町を翌朝に発ってしばらく行き、何軒かの小さな飲食店が並んでいる所で朝食をとることにした。ガイドの趙戈莉が車を降りて様子を見に行ったが、1軒の店に入るとすぐに出て来て、顔を顰めて首を振り「カザフ!」と言った。その後で回族料理の店に入ったが、なぜカザフではいけないのか、どうしてカザフと判ったのかと趙戈莉に尋ねると、「料理の匂いが臭いし、顔は頬の骨が出ているからすぐ判る。カザフは嫌い」と答え、それにはウィグル族の運転手のムテリプ君も同調していたようだった。この後でも2人は時折「カザフ嫌い」を出していた。目的地のアルタイのカナス湖に近い山道にさしかかった時に急に渋滞し、やがて車は動かなくなった。1週間前に起こった観光バスの谷への転落事故の処理が行われていて2時間近く通行止めとなったが、その間に苛立ったのか、後方から1台の車が走り抜けて行った。もちろんすぐ先で止められるのだが、それを見て趙戈莉とムテリプは顔を見合わせて「カザフ」と言い合って笑った。急に通り過ぎたから運転手の顔は見えなかったはずで、どうしてカザフなのかと聞くと、「あんなことをするのはカザフに決まっている」と言った。

  日本人には民族問題や宗教問題は、日常に身近に経験することではないこともあってなかなか理解できないが、世界にはイスラエルとパレスチナの紛争、かつてのアイルランドでのプロテスタントとカトリックとの激しい戦い、旧ユーゴスラビアのコソボでのアルバニア系住民とセルビア系住民との間の殺戮など枚挙にいとまがないくらい例は多い。イラクのイスラム教のスンニ派とシーア派の殺し合いなど、同じ宗教なのにどうしてあそこまで憎しみ合うのかと、歴史的宗教的な知識の乏しい私などにはどうにも理解できない。新疆での趙戈莉達のカザフ族への嫌悪感も伴った差別意識もかなり理不尽なものだが、案外その根は深くて、これがいわゆる民族問題の芽のようなものなのかとその時には思ったことだった。

  中国では少数民族を重視する政策が進められているようだが、それでもチベット族やウィグル族の一部には根強い独立志向があるとも聞く。中国でも民族問題はのどに刺さった棘なのだろうか。

クロチビ

2007-01-03 15:17:08 | 身辺雑記
 前(10月12日)に紹介した地蔵堂のノラ達の中に、その後小さな黒猫が来た。まだ生まれて間もないようで、同じような大きさの淡いグレーの縞の子と一緒だったが、グレーの子はいつの間にか姿を消した。黒いほうはずっといて、他のおとな猫に疎外されることもなく食べたり日向ぼっこをしていた。かわいいと思っているうちにクロチビと呼ぶようになった。



 この猫はだいぶ前から住みついているが、おとなしくて近寄っても警戒する様子はないし、子どもなどが撫でてもじっとしている。この猫には特に呼び名はつけていないが、取り敢えずハナグロと呼んでおこう。



 クロチビはハナグロが好きなのか、よくそばにいて、ハナグロもとくに優しくするわけではないが好きなようにさせているようだった。寒くなってきて毎年のことだが誰かが寝床を用意すると、何匹もその中に入って丸くなっている。そういう時にもクロチビはハナグロのそばに寄り添っている。何か親子のようだ。



 ハナグロたちが寝床の中にいる時、クロチビは外で餌を食べていたが、やがて寝床の中に入っていった。その時には寝床の中はかなり混み合っていたが、クロチビは眠っている猫達を押し分けて、やはりハナグロのそばに潜り込んだ。



 12月に入るとクロチビの姿が見えなくなった。初めのうちはどこかにいるのだろうと思っていたが、いつまでたっても姿を見せない。クロチビはどうしたんだとハナグロに話しかけたりしたが、もちろん応えるはずもない。とうとう年末になり、どこかで行き倒れたか、誰かに飼われるようになったのかと諦めた。おとなの猫達に混じって仔猫らしい愛らしいしぐさをしていたことを思い出す。

雑煮

2007-01-01 19:41:51 | 身辺雑記
 まずは、友人、卒業生、知人の皆さんに「明けましておめでとうございます」と申し上げます。本年もよろしくお願いいたします。

 2007年の元旦は快晴ではないが、穏やかに明けた。いつものように朝寝坊して起き出し、これもいつものようにあまり食欲はないのだが、元旦なのだから雑煮を作った。2人分作り、1つは妻に「新年おめでとう」と言って、買ってあったお節と一緒に供える。毎年のことだが、この時には独りなのだと言うことを改めて思い、寂しさがこみ上げてくる。妻がいた時には雑煮や手作りのお節を前にして、向かい合って少し他人行儀に新年の挨拶を交わすのが、いかにも元旦らしく爽やかで暖かい雰囲気で、新鮮な気持ちになったものだった。毎年懐かしく思い出す。

 我が家の雑煮は祖父の代からの関東風だ。母方の祖父は岐阜の大垣出身、祖母は滋賀の長浜出身だったが、どうも雑煮は関西風の味噌仕立てのものではなかったようで、大阪生まれの母も私が物心ついた時から関東風の雑煮を作っていたし、味噌仕立てのものは好きではなかったように思う。関東風と言っても、いろいろなものがあるのだろうが、私の家ではこんなものだ。

 まず、餅は長方形の切り餅で、大晦日には平たく伸した餅を切り分けるのが父の、長じてからは私の仕事になった。まだ少し軟らかいうちに切っておかないと、硬くなると難渋する。この切り餅を焼いてから椀に2切れ入れ、その上に甘辛く炒りつけた鶏肉、ほうれん草、紅白の蒲鉾を置き、澄まし汁を注いでから最後に小さく切った海苔を1枚と、削いだ柚子の皮を置いて出来上がりである。



 子どもの頃からずっとこのような雑煮だったから、結婚してからも妻にはこのようにしてもらった。妻は広島出身で雑煮は澄まし汁だったらしいが、広島らしく牡蠣が入っていて、それがとても嫌で涙が出たわなどと言っていたから、すぐに我が家伝来の雑煮を作ってくれるようになった。息子達の家庭ではどうしているのか知らないが、3日に会った時に尋ねてみよう。

 中高生の頃は敗戦直後で食料が豊かでなかったが、戦後住み着いた滋賀の大津の家の周囲は農家ばかりだったから、もち米は比較的たやすく手に入ったようだった。だから餅もかなり搗いた。普段はあまりたくさん食べていなかったこともあり、発育盛りの年頃でもあったから、雑煮は何杯もお代わりしたものだった。6人きょうだいだったから、母も大変だっただろうと思う。今では1杯食べたら十分で、3が日雑煮ばかり食べるのもあまり気が進まない。それでついつい餅に黴を生やしてしまうことになる。昔は冷蔵庫がなかったから、硬くなった鏡餅を小さく割って水を張った甕に入れて台所の冷たい場所に置いておく。正月も半ばを過ぎてからこれを取り出して湯掻いて柔らかくして黄な粉をまぶして食べる。何やら少し黴臭い感じがしたこともあって私はこれがどうにも苦手で、後年になっても黄な粉をまぶした餅が好きになれなかったが、いつの頃からか食べるようになった。そのような年齢なったのだろうと思う。

  ひとりで雑煮を祝った後は年賀状をゆっくりと読んだ。初日は350枚ほど来たが、一人ひとり顔を思い浮かべながら読むのは楽しい。イタリア旅行をしたと言う添え書きが何枚かあったが、イタリアは人気があるのか。まだ来るはずのものもあるから、これから数日は楽しめるだろう。賀状を読んでしまうとこれと言ってすることもない。中国でも今年は3日まで休み(その代わり30、31日は出勤)だから、チャットすることもない。元日だからメールも入っていない。街に出てもしようがないからぼんやりと寝正月をした。今日はいつもよりは1日が長かったように感じた。