卒業生の家に集まって夕食をしたら、帰りにバイモを持たせてくれた。いろいろな花や野菜をこまめにつくっていて、折々花をくれるので、家に帰って妻に供えてやる。妻もその卒業生夫婦には親しみを持っていたので、その心遣いが嬉しい。
バイモはアミガサユリとも言い、葉の先端が巻髭状になっている、繊細な感じの植物である。江戸時代に薬草として中国から渡来したユリ科の植物。中国名は貝母(beimu)と言い、その鱗茎二枚貝のようであることからつけられた名前だそうだ。漢方薬の貝母(ばいも)は鱗形を乾燥させたもので煎じて咳止めなどに使うようだ。「漢方薬入門」(保育社カラーブックス)には、奈良県や中国の浙江省で薬草として栽培されているとある。
貝母。上は奈良県産。下は浙江省産(同書より)
バイモはアミガサユリとも言い、葉の先端が巻髭状になっている、繊細な感じの植物である。江戸時代に薬草として中国から渡来したユリ科の植物。中国名は貝母(beimu)と言い、その鱗茎二枚貝のようであることからつけられた名前だそうだ。漢方薬の貝母(ばいも)は鱗形を乾燥させたもので煎じて咳止めなどに使うようだ。「漢方薬入門」(保育社カラーブックス)には、奈良県や中国の浙江省で薬草として栽培されているとある。
貝母。上は奈良県産。下は浙江省産(同書より)
上海の近郊に陽澄湖(Yangchenghu)と言う湖がある。ここでは上海蟹の養殖が行われていて、この湖で獲れる上海蟹が本物なのだそうだ。上海人たちはよくここに蟹を食べに来るらしい。
上海蟹は大閘蟹(dazhaxie)と言い、爪に黒い毛が密生している淡水産のモクズガニの仲間である。近縁のものは日本の川にも生息していて、私も一度食べたことがある。上海蟹の旬は9月、10月だから3月はオフシーズンで、陽澄湖を訪れる者はほとんどいないらしい。湖のほとりには養殖業者が開いているレストランが立ち並び、その1軒に入った。
レストランはほとんどが開店休業の状態で,店の前は閑散としていた。
蟹の養殖場。
食卓に着くと、いろいろな料理の皿が運ばれ、しばらくすると脚を糸で縛った生きた蟹を笊に入れて持ってきて見せた。体色は青黒い。これは500グラムくらいのもので、これを注文した。
この時期の蟹は、雌は美味くないので雄である。蟹を持って行った後も次々に皿が運ばれ10数皿になり、かなり腹が膨れてきた。「肝心の蟹はまだかな」などと言っているうちに、皿に盛って運ばれてきた。美しい朱紅色になっている。
爪には黒い毛が密生している。
それからしばらくの間は蟹を食べる時の常で沈黙が続いた。
注文したものは上海蟹としては大きい方だろうが、当然のことながら私達が食べるズワイガニやタラバガニに比べるとかなり小さい。まず体の下側から甲羅を開き、いわゆるミソを食べる。これはなかなか美味しい。次に体を縦に割って爪や足の肉を食べるのだが、これが結構難しい。脚は太目の箸くらいの太さでどうやって中の身を取り出せばいいのか扱いにくい。ガイドの翁(Weng)さんやドライバーの魏(Wei)さんを見ると、脚の関節を切り離してから両側を齧り取り、ちょっと吸うと身が出てくる。それを箸でつまんで黒酢をつけて食べている。さすが慣れたもので手早い。真似をしてやってみると、何とかできた。それで気をよくして齧っていると、しばらくして上の前歯が1本なくなっていることに気がついた。2、3日前からぐらついていた義歯なのだが、気をつけて齧らなかったので抜けたらしい。慌てて食べ殻を掻き分けて探しているうちに店の女性が皿を持って行ってしまった。いずれ帰国したら治さなければならないものだったが、歯ならぬ間の抜けたとんだことだった。
上海蟹は確かに美味しい。旬のものであればもっと美味しいようだから、もう一度行って見たいとも思う。しかし海産の蟹を食べつけている日本人には、言われるほどのものでないと思う人もいるのではないだろうか。旅行社募集のツアーの中に「上海蟹1杯付き」などと謳っているものがあり、かつて卒業生と一緒に参加したツアーで出たことがあるが、なんとも小さく貧相なものが1匹で、とても味わうなどと言う代物ではなかった。
上海蟹は大閘蟹(dazhaxie)と言い、爪に黒い毛が密生している淡水産のモクズガニの仲間である。近縁のものは日本の川にも生息していて、私も一度食べたことがある。上海蟹の旬は9月、10月だから3月はオフシーズンで、陽澄湖を訪れる者はほとんどいないらしい。湖のほとりには養殖業者が開いているレストランが立ち並び、その1軒に入った。
レストランはほとんどが開店休業の状態で,店の前は閑散としていた。
蟹の養殖場。
食卓に着くと、いろいろな料理の皿が運ばれ、しばらくすると脚を糸で縛った生きた蟹を笊に入れて持ってきて見せた。体色は青黒い。これは500グラムくらいのもので、これを注文した。
この時期の蟹は、雌は美味くないので雄である。蟹を持って行った後も次々に皿が運ばれ10数皿になり、かなり腹が膨れてきた。「肝心の蟹はまだかな」などと言っているうちに、皿に盛って運ばれてきた。美しい朱紅色になっている。
爪には黒い毛が密生している。
それからしばらくの間は蟹を食べる時の常で沈黙が続いた。
注文したものは上海蟹としては大きい方だろうが、当然のことながら私達が食べるズワイガニやタラバガニに比べるとかなり小さい。まず体の下側から甲羅を開き、いわゆるミソを食べる。これはなかなか美味しい。次に体を縦に割って爪や足の肉を食べるのだが、これが結構難しい。脚は太目の箸くらいの太さでどうやって中の身を取り出せばいいのか扱いにくい。ガイドの翁(Weng)さんやドライバーの魏(Wei)さんを見ると、脚の関節を切り離してから両側を齧り取り、ちょっと吸うと身が出てくる。それを箸でつまんで黒酢をつけて食べている。さすが慣れたもので手早い。真似をしてやってみると、何とかできた。それで気をよくして齧っていると、しばらくして上の前歯が1本なくなっていることに気がついた。2、3日前からぐらついていた義歯なのだが、気をつけて齧らなかったので抜けたらしい。慌てて食べ殻を掻き分けて探しているうちに店の女性が皿を持って行ってしまった。いずれ帰国したら治さなければならないものだったが、歯ならぬ間の抜けたとんだことだった。
上海蟹は確かに美味しい。旬のものであればもっと美味しいようだから、もう一度行って見たいとも思う。しかし海産の蟹を食べつけている日本人には、言われるほどのものでないと思う人もいるのではないだろうか。旅行社募集のツアーの中に「上海蟹1杯付き」などと謳っているものがあり、かつて卒業生と一緒に参加したツアーで出たことがあるが、なんとも小さく貧相なものが1匹で、とても味わうなどと言う代物ではなかった。
戦前、須磨に住んでいた頃、我が家にいた「女中さん」から、今年もタンカンが送られて来た。
古代にインドから中国に渡ってきたポンカンと、中国南部(現在の福建省~広東省)に自生するミカンが自然交配して生まれたものと言う。その後台湾を経て、わが国の南西諸島に移植されたようだ。
今では「女中さん」という呼称は封建的とかで「お手伝いさん」と呼ぶようになっている。「お手伝いさん」は大正時代から使われるようになったそうだ。しかし、私には「女中さん」の方が懐かしい感じがする。
彼女は鹿児島の枕崎の出身で、いわゆる「行儀見習い」として、父の知人の家で働いていた従姉妹かのつてで我が家に来たようだ。まだ15、6歳ではなかったかと思う。一介の会社員の家庭がそのような人をよく雇えたものだと今では思うのだが、両親はちょっと「お坊ちゃん」「お嬢さん」育ちのところもあったし、当時は何とかなったのかも知れない。名前は「とね」と言ったが、家では「とみ」と呼んでいた。当時私は小学校に入学したばかりで、その年相応のわがままな態度を彼女にとったこともあったかも知れないが、両親が我が家の一員として優しく接していたこともあって、私自身も「うちの人」と思っていた。今では気恥ずかしく思い出すのだが、とみさんは私を「坊ちゃま」と呼んでいて、私は彼女を「とみや」と呼んでいた。戦争が始まる前に東京に引越しし、とみさんはやがて故郷の枕崎に帰った。結婚したと聞いた。たぶん18、9になっていたのだろう。どのようにして我が家を去って行ったのか、その時のことはまったく覚えていない。その後は我が家には「女中さん」は来ることはなかった。
律儀な人で、結婚してからもずっと両親には手紙を出していたようだ。両親もいつまでもかわいく思っていたらしい。私が教師になってから、一度兵庫県の西の方の農家に嫁いだ娘の家に来たことがあり、母と一緒に会いに行ったことがあるが、その後は会うことはなく、私とは年賀状の交換をするだけになった。そしていつの頃からかポンカンやタンカン、時には自分の家でとれた米を送ってくれるようになり、私も盆暮れにはちょっとしたものを送ってきた。そんな時に時々電話するのだが、もう80を過ぎているのに明るい張りのある声で話す。記憶力がよく、私の親戚の者のことをよく覚えている。今でもバイクに乗って動き回っている元気なお婆さんになっている。さすがに今は「坊ちゃま」ではなく「さん」で呼んでくれるので有難い。この年になって「坊ちゃま」などと呼ばれたら入る穴を探したくなる。私も「とみさん」ではなく「とねさん」と呼んでいる。
昔の人達のことは、もうおぼろげな記憶の底に沈んでしまっているが、とねさんだけはいつまでも懐かしく思う。パソコンに入れてある住所録には、とねさんは「親戚」の中に入っている。
古代にインドから中国に渡ってきたポンカンと、中国南部(現在の福建省~広東省)に自生するミカンが自然交配して生まれたものと言う。その後台湾を経て、わが国の南西諸島に移植されたようだ。
今では「女中さん」という呼称は封建的とかで「お手伝いさん」と呼ぶようになっている。「お手伝いさん」は大正時代から使われるようになったそうだ。しかし、私には「女中さん」の方が懐かしい感じがする。
彼女は鹿児島の枕崎の出身で、いわゆる「行儀見習い」として、父の知人の家で働いていた従姉妹かのつてで我が家に来たようだ。まだ15、6歳ではなかったかと思う。一介の会社員の家庭がそのような人をよく雇えたものだと今では思うのだが、両親はちょっと「お坊ちゃん」「お嬢さん」育ちのところもあったし、当時は何とかなったのかも知れない。名前は「とね」と言ったが、家では「とみ」と呼んでいた。当時私は小学校に入学したばかりで、その年相応のわがままな態度を彼女にとったこともあったかも知れないが、両親が我が家の一員として優しく接していたこともあって、私自身も「うちの人」と思っていた。今では気恥ずかしく思い出すのだが、とみさんは私を「坊ちゃま」と呼んでいて、私は彼女を「とみや」と呼んでいた。戦争が始まる前に東京に引越しし、とみさんはやがて故郷の枕崎に帰った。結婚したと聞いた。たぶん18、9になっていたのだろう。どのようにして我が家を去って行ったのか、その時のことはまったく覚えていない。その後は我が家には「女中さん」は来ることはなかった。
律儀な人で、結婚してからもずっと両親には手紙を出していたようだ。両親もいつまでもかわいく思っていたらしい。私が教師になってから、一度兵庫県の西の方の農家に嫁いだ娘の家に来たことがあり、母と一緒に会いに行ったことがあるが、その後は会うことはなく、私とは年賀状の交換をするだけになった。そしていつの頃からかポンカンやタンカン、時には自分の家でとれた米を送ってくれるようになり、私も盆暮れにはちょっとしたものを送ってきた。そんな時に時々電話するのだが、もう80を過ぎているのに明るい張りのある声で話す。記憶力がよく、私の親戚の者のことをよく覚えている。今でもバイクに乗って動き回っている元気なお婆さんになっている。さすがに今は「坊ちゃま」ではなく「さん」で呼んでくれるので有難い。この年になって「坊ちゃま」などと呼ばれたら入る穴を探したくなる。私も「とみさん」ではなく「とねさん」と呼んでいる。
昔の人達のことは、もうおぼろげな記憶の底に沈んでしまっているが、とねさんだけはいつまでも懐かしく思う。パソコンに入れてある住所録には、とねさんは「親戚」の中に入っている。
今年は猪(ブタ)年だから、豚は上海の街中で見られた。日本のイノシシとは違って勇ましい姿はなく、どれも可愛らしいデザインだ。豚は西遊記の猪八戒が象徴しているように怠け者、好色、貪欲のイメージシンボルのように扱われているが、反面、家畜としては中国人にとってはきわめて重要なものだから、富裕のシンボルともなった。前にも書いたが、ブタ年の子は財運に恵まれると言うので、今年はどこの産院でも大盛況らしい。西安の李真は、この子達は将来大学進学の時に苦労するだろうねと言っていた。
街で見た豚たち。
レストランで
ショッピングモールで
おしゃれな街「新世界」で
レストランのロビーで
ホテルの壁で
スーパーマーケットの棚で
土産物屋の灯篭
灯篭を持ち、光る角をつけた幼女
豫園商場で。若い女性も手に豚の灯篭
豫園商場入場券の裏面
今年の中国国家郵政局発行の「丁亥年」切手。母豚に戯れたり、乳を飲んだりしている5匹の可愛い子豚は、長命、富貴、健康、徳行、天寿の5つの幸福に恵まれるという「五福臨門」の象徴。赤もめでたい色。
街で見た豚たち。
レストランで
ショッピングモールで
おしゃれな街「新世界」で
レストランのロビーで
ホテルの壁で
スーパーマーケットの棚で
土産物屋の灯篭
灯篭を持ち、光る角をつけた幼女
豫園商場で。若い女性も手に豚の灯篭
豫園商場入場券の裏面
今年の中国国家郵政局発行の「丁亥年」切手。母豚に戯れたり、乳を飲んだりしている5匹の可愛い子豚は、長命、富貴、健康、徳行、天寿の5つの幸福に恵まれるという「五福臨門」の象徴。赤もめでたい色。
卒業式の季節である。今年もたくさんの児童、生徒、学生達が卒業していく。もう早々に済ませた学校もあるだろう。
私自身は卒業式とはほとんど縁がなかった。宮城県の鳴子町の集団疎開先から転校した大阪府豊島(てしま)郡(現豊中市)の小学校には1年足らずしか在籍しなかったし、敗戦の翌春のことで、どのような卒業式だったのか記憶にない。その頃の先生もクラスメート達もまったく覚えていない。中学校は滋賀県大津市の旧制膳所中学だった。3年生のときに学制改革があり、市内の中学校、高等女学校、商業学校、工業学校その他が1校に統合され、翌年はそのまま高校に移行したから卒業式があったのやら、これも記憶にない。高校の卒業式の時は広島に大学受験に行き、第一次合格発表のために滞在していたから母が出席した。大学の卒業式は意識的に欠席したように思う。もうその頃には儀式を敬遠する性向があったのかも知れない。
そういうことで、高校に就職した翌年の卒業式は、私にとっては物珍しい印象のものだった。当時、卒業式の時期は昨今よりも気温が低く、体育館兼講堂の中は冷蔵庫のようで、3学年全員の現在よりもかなり多い生徒達が発する熱気でどうにか過ごせることができた。式は型どおり厳粛に進行し、最後は定番の「仰げば尊し」や「蛍の光」の斉唱になり、涙する卒業生も出たり、やっと式も終わりかというほっとしたような空気も流れるのだが、その前に私がまったく知らなかった歌が歌われた。2番しかない短い歌だが、静かな美しい曲で初めて聞いた私はとても感動した。当時の生徒達は遠足の時など何かにつけよく歌い、入学すると学校か生徒自治会かが編集した歌集が配られたが、その歌集に確か「分袖」という名でその歌が載っていた。メンデルスゾーン作曲で、次のような歌詞だった。作詞者は知らないが、歌詞からすると、おそらくメンデルスゾーンの曲を借りて卒業式のために作られたものだろう。
1.緑萌え出で
花は近く
学びの窓に
春は還る
2.三歳(みとせ)の月日
夢と流れ
別れの朝は
はや来たりぬ
今では歌われなくなっているが、当時はあちこちの高校の卒業式で歌われていたようだ。私は、普段は教師をあまり仰ぎ見ているようには思えない生徒達が歌うと、何かしら落ち着かなくなる出だしの「仰げば尊し」よりも、短いがしみじみした情感のあるこの歌のほうが好きで、また復活すればいいのにと思っているが、しみじみとした情感などは今時の卒業式の雰囲気にそぐわなくなったのかも知れない。
今年巣立つ、小学生から大学生までの多くの卒業生達の前途が多幸であるように。
私自身は卒業式とはほとんど縁がなかった。宮城県の鳴子町の集団疎開先から転校した大阪府豊島(てしま)郡(現豊中市)の小学校には1年足らずしか在籍しなかったし、敗戦の翌春のことで、どのような卒業式だったのか記憶にない。その頃の先生もクラスメート達もまったく覚えていない。中学校は滋賀県大津市の旧制膳所中学だった。3年生のときに学制改革があり、市内の中学校、高等女学校、商業学校、工業学校その他が1校に統合され、翌年はそのまま高校に移行したから卒業式があったのやら、これも記憶にない。高校の卒業式の時は広島に大学受験に行き、第一次合格発表のために滞在していたから母が出席した。大学の卒業式は意識的に欠席したように思う。もうその頃には儀式を敬遠する性向があったのかも知れない。
そういうことで、高校に就職した翌年の卒業式は、私にとっては物珍しい印象のものだった。当時、卒業式の時期は昨今よりも気温が低く、体育館兼講堂の中は冷蔵庫のようで、3学年全員の現在よりもかなり多い生徒達が発する熱気でどうにか過ごせることができた。式は型どおり厳粛に進行し、最後は定番の「仰げば尊し」や「蛍の光」の斉唱になり、涙する卒業生も出たり、やっと式も終わりかというほっとしたような空気も流れるのだが、その前に私がまったく知らなかった歌が歌われた。2番しかない短い歌だが、静かな美しい曲で初めて聞いた私はとても感動した。当時の生徒達は遠足の時など何かにつけよく歌い、入学すると学校か生徒自治会かが編集した歌集が配られたが、その歌集に確か「分袖」という名でその歌が載っていた。メンデルスゾーン作曲で、次のような歌詞だった。作詞者は知らないが、歌詞からすると、おそらくメンデルスゾーンの曲を借りて卒業式のために作られたものだろう。
1.緑萌え出で
花は近く
学びの窓に
春は還る
2.三歳(みとせ)の月日
夢と流れ
別れの朝は
はや来たりぬ
今では歌われなくなっているが、当時はあちこちの高校の卒業式で歌われていたようだ。私は、普段は教師をあまり仰ぎ見ているようには思えない生徒達が歌うと、何かしら落ち着かなくなる出だしの「仰げば尊し」よりも、短いがしみじみした情感のあるこの歌のほうが好きで、また復活すればいいのにと思っているが、しみじみとした情感などは今時の卒業式の雰囲気にそぐわなくなったのかも知れない。
今年巣立つ、小学生から大学生までの多くの卒業生達の前途が多幸であるように。
旧暦1月15日は中国の正月の最後の日、新年に入ってからの最初の満月の夜。この日は元宵節と言う祭で、家々や商店、街路などにも提灯などの灯火をつけて正月を送る。灯節とも言い、道教と仏教の混交行事と言う。この元宵節の賑わいを見るために上海を訪れた。
中国国際航空を利用したが、やはり正月らしく壁面に縁起物の絵が貼ってあった。
上海の旧い繁華街である豫園商場は、500年前の明代永楽年間に、町の守り神である城隍(chenghuang)を祭るために建立された老城隍廟の門前街として発展し、現在のような商場(マーケット)になってから100年以上になると言う。マーケットと言っても大きなビルなどはなく古風な感じでいい。普段でも多くの観光客などで賑わうが、春節のような時には特に人出が多く、とりわけ元宵節には何十万と言う人で賑わうようだ。今年の元宵節は、午前中は雨が降っていたが夕方にはあがったのでやはり人出は多かった。しかし最近は元宵節では臨時の入場券発売場を作って、普段のように自由に商場内には入れないようになっているし、その入場料が50元(約800円)とかなり高いから、そのせいか以前来た時よりも心持ち混雑はしていなかったように思う。
商場の中は光が溢れて美しい。人々も買った灯篭を手に持ったり、頭に赤く光る角のようなものをつけて、楽しそうに行き交っている。昔は手作りの灯篭を持って街に出たそうだが、今と違って街にはネオンなどの明るい灯火はなく薄暗かっただろうし、灯篭も電池で光るものでなく蝋燭の光だっただろうから、情緒のある雰囲気だっただろうと想像する。
「新年好」は「新年おめでとう」
商店の飾りつけ
レストランの飾りつけ
商場の中央の辺りに広場があって、そこには毎年その年の干支の動物の大きな飾り物が作られる。今年は猪(ブタ)である。サル年にもトリ年にも来たが、サル年は孫悟空とその手下の猿どもの群れでダイナミックで面白かったし、トリ年は大きな鶏が勇ましく天を仰いで羽を拡げて鬨を上げていたが、それに比べると豚は耳や尾が動く程度でやや平凡な印象だった。豚にダイナミックな動きをさせるのはデザイン的に難しいのかもしれない。
豚を取り囲む十二支の動物達
中国国際航空を利用したが、やはり正月らしく壁面に縁起物の絵が貼ってあった。
上海の旧い繁華街である豫園商場は、500年前の明代永楽年間に、町の守り神である城隍(chenghuang)を祭るために建立された老城隍廟の門前街として発展し、現在のような商場(マーケット)になってから100年以上になると言う。マーケットと言っても大きなビルなどはなく古風な感じでいい。普段でも多くの観光客などで賑わうが、春節のような時には特に人出が多く、とりわけ元宵節には何十万と言う人で賑わうようだ。今年の元宵節は、午前中は雨が降っていたが夕方にはあがったのでやはり人出は多かった。しかし最近は元宵節では臨時の入場券発売場を作って、普段のように自由に商場内には入れないようになっているし、その入場料が50元(約800円)とかなり高いから、そのせいか以前来た時よりも心持ち混雑はしていなかったように思う。
商場の中は光が溢れて美しい。人々も買った灯篭を手に持ったり、頭に赤く光る角のようなものをつけて、楽しそうに行き交っている。昔は手作りの灯篭を持って街に出たそうだが、今と違って街にはネオンなどの明るい灯火はなく薄暗かっただろうし、灯篭も電池で光るものでなく蝋燭の光だっただろうから、情緒のある雰囲気だっただろうと想像する。
「新年好」は「新年おめでとう」
商店の飾りつけ
レストランの飾りつけ
商場の中央の辺りに広場があって、そこには毎年その年の干支の動物の大きな飾り物が作られる。今年は猪(ブタ)である。サル年にもトリ年にも来たが、サル年は孫悟空とその手下の猿どもの群れでダイナミックで面白かったし、トリ年は大きな鶏が勇ましく天を仰いで羽を拡げて鬨を上げていたが、それに比べると豚は耳や尾が動く程度でやや平凡な印象だった。豚にダイナミックな動きをさせるのはデザイン的に難しいのかもしれない。
豚を取り囲む十二支の動物達