中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

春の便り

2007-03-09 17:50:57 | 身辺雑記
 神戸の垂水に住んでいる卒業生から、いかなごの釘煮を送ってくれた。彼女は私のクラスの生徒だった。少し体力的には弱いところがあったが、なかなか明るい性格の子で家にも遊びに来たし、私の妻を好いてもくれた。結婚してからは元気で2人の娘をもうけ、その娘達も結婚した。中年になってから癌にもかかったが無事に乗り切ったようだ。毎年この時期になると手作りのいかなごを送ってくれる。

 送られて来た釘煮。彼女の次女がパソコンで作ったラベルが春らしい雰囲気を出している。

       

 彼女が住んでいる神戸の西部から明石にかけては春の魚であるいかなごがよく獲れる地方で、漁が解禁(今年は2月28日)になると商売人はもちろん、各家庭でも一斉に釘煮を作るので、住宅街の中を歩いていてもあたりに香りが漂っているそうだ。何キロも作る家もあるらしい。そうして親戚や知人に贈るのも季節の楽しみなのだろう。私の家の近くの100均ショップでも釘煮用のケースを売っている。

 釘煮は佃煮である。出来上がりが曲がった釘のような形なのでそのように呼ばれている。獲れてから数時間以内に煮上げないと、ぴんとした釘のようには仕上がらず、錆びた釘のような脆い食感のものになってしまう。それぞれの家庭ではお得意の味付けがあるようだ。10年位前から輸送能力が改良されたのか、私が住んでいる市でも手に入るようになった。妻も一度作ってみたが、ぴんとした釘状に出来上がり、味もまずまずだったので喜んでいた。砂糖を加えた醤油を煮立たせて、そこにいかなごをさっと入れて煮詰めるのだが、要するにいかなごが新鮮であれば、それほど難しいものではないらしい。香り付けには生姜や柚子を使う。昔ながらの庶民の味だが、デパートなどでは結構いい値段で売られている。

  

 いかなごはイカナゴ科の硬骨魚で、「玉筋魚」と書くようだが、釘煮にする体長2~3センチくらいの幼魚が半透明の体をしているからこのように言うのだろうか。獲れてから時間がたって釘煮にできないものは釜揚げにする。体色は白くなり軟らかく、三杯酢をかけて食べると美味しい。少し成長した稚魚の釜揚げは「新子」と呼ばれて売られていて、同じようにして食べる。20センチほどの成魚となったものは「かますご」とも言われ、少し火であぶったり、そのままで食べたりするが、稚魚と違って少し背骨の感触が口に残る。少し生臭さもあり、人によって好き好きだろう。時々生のものをてんぷらにしたらどんなものだろうかと思ったりするが、釜揚げされたものしか見たことがない。毎年の稚魚の漁獲量は膨大なものだろうが、よく減らないものだと思う。

   




夏蜜柑

2007-03-02 09:54:17 | 身辺雑記
 時折、車窓などから畠の夏蜜柑の木に実が鈴なりになっているのを見ることがある。収穫間近らしく緑の葉の間の黄金色の実が美しい。

            

            

 子どもの頃は夏蜜柑と言うから夏にできるものと思っていた。あの頃の夏蜜柑はかなり酸っぱく、皮を剥きだす時から口の中の唾液が増え、口をすぼめてシイシイと息を吸い込みながら剥く。袋を剥いて口に入れると、酸っぱさに顔を顰めながら食べた。時には砂糖をつけたが、それでも酸っぱかった。こうして書いているだけでも口の中が酸っぱくなってくる。

 夏蜜柑に限らず、蜜柑には酸味があるものと思っていた。冬の蜜柑でも、今頃のものに比べるとずっと酸味があった。火鉢の炭火にかけた網の上に乗せたり、灰の中に埋めたりして温めて食べると、少し甘味が増すように思われた。運動会の季節になるとまだ青い蜜柑が出て、弁当と一緒に校庭に作られた観客席で食べた。まだ皮も硬くかなり酸っぱかったが、初物で何となく嬉しかった。今でも青い蜜柑を見ると運動会を連想する。近頃は何かにつけ甘さ嗜好が強くなったようで、蜜柑もほとんど酸味がない。また、ポンカン、タンカン、デコポンなど、昔から産地では珍しくなかったようなものや交配されて創られたものなど、さまざまな品種が店頭に並ぶようになった。どれも甘い。夏に出回る蜜柑類の種類も多くなった。

 夏蜜柑は酸っぱいものだが、いつの頃からか甘夏と言うものが出るようになった。甘いと言っても、私が酸っぱさには少し弱いせいか、やはり酸味は強いと思った。そのうちに、米国産のグレープフルーツが出始めた。横半分に切って切り口に砂糖をかけ、スプーンで果肉を掘り出すようにすくって食べるのが物珍しかった。知人に昔ながらの酸っぱい夏蜜柑が好きなのがいて、グレープフルーツなんてと敬遠していた。

 柑橘類は温州蜜柑に限らず、柚子でも酢橘でもレモンでも、香りを嗅いだだけで気分が爽快になるような気がする。もっとも猫は蜜柑の匂いが苦手なようで、皮を折り曲げて汁を吹きかけると顔を振って逃げ出してしまう。食べるわけではなかったが、子どもの頃に火鉢で蜜柑の皮を焼くと、香ばしい香りが部屋の中に漂うのが好きだった。夏蜜柑も香りは好きだが、あの酸っぱさだけはどうにもならず、最近はかなり甘くなっているのかも知れないが、酸っぱいものだという先入観があって、やはり今でも敬して遠ざけている。

 
              



自転車放置

2007-03-01 09:28:27 | 身辺雑記
 今に始まったことではないが、駅前などの自転車やバイクの放置はひどい状態だ。もちろん捨てているわけではない。家から通勤通学のために乗って来たり、買い物などの用事があって出かけて来たりなどしたもので、たいていの者がそうするものだからまるで路上駐輪場のような状態になっている。

 私が住んでいる市では今のところ歩行者の妨げになるほどではないが、他の市では無政府状態のようなひどいところもある。





 もちろん駐輪禁止の掲示はあるし、撤去して収容施設に移すという警告も書いてある。現に月に何回かは抜き打ちに撤去して、いついつに撤去したから、どこどこまで取りに来て所定の料金を払えば返却するという通告文が貼ってあることもある。今時のことだから、取りに行くのは面倒だし、罰金を払うくらいなら買い換えたほうがいいと思う者もいるだろうが、さすがにバイクともなるとそうはいくまい。それでも、馬耳東風と言うのか、まったく意に介せず放置する者が後を絶たない。放置と撤去のいたちごっこのような有様だ。





 近くに公共の駐輪場があるから、そこに預けるようにという案内もしてあるが、どこまで効き目があるのか。



 言うまでもなく日本では識字率は100%に近いから、誰でもこのような掲示文は読めるはずだが、このことに限っては識字率はひどく下がるのではないかと思うほどだ。要するにモラルが低いのだろう。これだけでも、よその国のことをあげつらうことなどできない。

 隣の市のある住宅と店舗などの複合施設にある公共駐輪場。雨の日だが、このとおりの物凄い数だ。もしこの駐輪場がなければ、この周辺にはおびただしい数が放置されるだろう。この駐輪場も満員のせいか、場外に放置しているのもある。





 しかし、私がもし自転車かバイクを持っていたら、やはりこうしてしまうのだろうかと考えることがある。正直言って「まあ、いいか。ちょっとだけだから」と言うことをやりかねないかも知れない。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」のような心理状態には自分も陥いるのではないかと思うと、いささか憂鬱な気分になる。