癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

山陽道(中国街道)1日目・高麗橋(大阪)~西宮神社<27km>(6時間40分)

2020年11月15日 | 登山・旅行

 これから山陽道(中国街道)の旅となるわけだが、どうも西宮からを西を山陽、または西国街道。大阪から西宮までを中国街道と呼んでいる例が多いので、ここでも西宮までを中国街道と呼んでおくことにしたい。

 ホテルを6時に出て、近くの心斎橋から高麗橋近くの北浜駅まで、地下鉄で移動。乗り換えで手間取って、歩いても違わない時間になった。大都会は嫌いだ。

 しかし、今日は距離が短かったので、13:40にはゴールすることができ、昨日のオーバーワークの分を取り戻した感じ。しかも、昨日までに比べて、見所も少なく、写真の選定で苦労することはなかった。

 なお、省エネブログのために今日からは、これまで詳しく書いてきた宿場の説明は省き、文章やキャブションの中で触れることにする。

高麗橋~尼崎宿

 7:00、昨日の京街道の終点の高麗橋からスタート。西国の道路元標となっているので、中国街道の始点でもある。

 まもなく、ライオン像や塔の立つ重厚な「難波橋」を渡る。

 ビルの谷間や広い道を進み、やがて、茶屋町に入ると、ビルの谷間に地名の由来となる「鶴の茶屋」の石碑が立っている。

 十三(じゅうそう)大橋の左側の歩道へ上がって行くと、
 土手の上に大正9年の道標が立っている(左下)。「東 往来安全 池田 四里 伊丹 二里半」などと彫られている。

 橋を渡ると、土手の左側に「十三の渡し跡」の石碑がたっていた(右下)。

 

 府道10号線の高架下をくぐると、左手に「香具波志神社」がある。
 神社の名前は孝徳天皇の行幸の際、詠んだ歌に由来するとか。中世には楠木正儀(正成の三男)が戦勝を祈願したり、戦国時代には三好長慶が鳥居一基を奉納している。

 神社の前に店開きをしてある果物屋さんに挨拶をし、聞かれたので、歩き旅の話をしたら、ミカンを3個いただいた。四国遍路では、当たり前にあるお接待をここでいただくとは思わなかった。

 やがて、神崎川に架かる神崎橋を渡る。川の向こうは尼崎市となる。

 神崎川を渡って、旧街道の細い道へ入ったら、新しい家ではあるが、旧家とおぼしき立派な家が建っていた。この付近に渡し場があったので、祖先は当時から財をなした家かもしれない。

 土手沿いに南下して、神崎橋の下をくぐって行くと、身代一心地蔵尊」がある。説明板を読むと、新田義貞、楠正成軍と足利尊氏軍とが戦い、正成の軍は神崎の辺りから神出鬼没、一心をこめた戦いにより、圧勝し高氏軍は遂に九州へと逃げ延びる・・・・世にこれを神崎一心の戦いというと書かれていた。

 長洲中通3丁目の「大門川緑地公園」内に、大きな道標立っている。元の位置は当然違うと思うが、文化五年、「左 尼崎 西宮」、「右 尼崎 大坂」などとある。 

 

尼崎宿~西宮神社

 やがて、尼崎市の市街地に入っていく。初めて中国街道についての説明板があった。

 その先で、阪神高速3号線沿いの道となる。面白味のない道だが、この辺りが、尼崎宿の中心地だったという。 今はその面影すら感じられない。

 高速道路沿いの道から離れて、旧街道へと入っていくと、西本町8丁目の右角に大きな「弘化3年の道標が立っている。「左 西ノ宮兵庫」 「右 大坂道」 と彫られている。

 武庫川土手にぶつかる。ここは伝説「雉が坂」の場所である。天正10年、本能寺の変を知り備中から急ぎ引き返す秀吉一行がこのあたりまで来た時、農夫の知らせで川の向うを見ると、あわただしく雉が飛び立つのが見えたため、明智光秀の兵が待ち伏せしていることを知り、道を変えて難を逃れたという言い伝えが残る所。

 説明板によると、左側の坂は現在の坂で、右手へ上る坂が昔はあったようである。

 やがて、琴浦通りを進む。蓬川沿いの紅葉がきれいだったので、カメラに収めた。

 この先で、ネパールカレー屋を見つけたので、昼食にした。やはり、ネパール人が店主だった。久し振りにナンを食べた。

 琴浦通りは、いつの間にか「旧国道」となり、今日のゴールの西宮神社まで続いていた。昔の中国街道がそのまま国道になったのだろう。左奥は甲子園球場である。

 ゴールが近くなり、京都から大阪を通らないで、西宮まで来る西国街道との合流地点たが、標識はなかった。

 13:40、今日のゴール、西宮神社の表大門に到着。

 時間があるので、広い境内の中を見て歩いた。七五三の日らしく、七五三の子供たちと家族で大にぎわいだった。

 この西宮の地名の由来にもなっている西宮神社だが、、古事記、日本書紀に書かれる・・・伊邪那岐、伊邪那美二柱の大神が最初に生み給いしお子は骨のない蛭児であり、吾が子をあわれと思いつつも、葦船に入れて海へ流してしまわれた。その流された蛭児の神が、この地あたりに流れ着き、祀ったのが西宮神社であるという。
 天文3年(1534)の兵火により焼き尽された境内も、慶長9年(1604) から秀頼により拝殿、本殿等全て元に復したと言われています。国宝だった本殿は、先の空襲により焼失してしまったが、昭和36年、ほぼ元通りに復興された。

 大阪からここまでを中国街道といい、明日からは山陽道となる。

 

 ゴールから旧街道を5分ほど戻った所に、今日のホテルリブマックス西宮がある。移動の必要のない立地がうれしい。

 チェックインできる15:00まで近くの公園で時間を潰した。

 普段は高くて泊まらない6485円だが、GoToで4216円になり、やはり地域クーポン券が付いてきた。半額で泊まるようなもの。

 早くゴールしたので、18時過ぎにはブログアップ完了。これから、夕食を食べに出て、早く寝ようと思う。

 歩数計43000歩

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京街道2日目・樟葉駅~56枚方宿~57守口宿~高麗橋(大阪)<35km>(8時間45分) 

2020年11月14日 | 登山・旅行

 今日は天候に恵まれて、予想したよりは距離が長く、時間は掛かったが、京街道のゴールの大阪の高麗橋まで歩くことができた。

 今日のスタート地点の樟葉駅の少し手前から大阪府だったので、昨日は京都府内の歩きで、今日は大阪府内の歩きだった。

 枚方宿と守口宿は、京街道の宿場町としての歴史を大切にし、観光資源として力を入れ、標識等も充実していた。お陰で撮った写真の枚数が多くて、精選するのに多くの時間を要した。

 ホテルを6時前に出て、樟葉駅へ移動。

樟葉駅~枚方宿

 6:40、樟葉駅から旧街道に出て、スタート。

 今日は、印刷した地図も見ないで、ひたすらスマホのGoogleマップの現在地の表示されるルート図を見ながら歩いた。

 赤線が旧街道、青丸が現在地。絶対間違わないはずだが、それでも、目の前の道路に引かれて、間違って進んでしまっては、戻ったりうろうろしたりする。

 

 上の地図の府道13号から旧道に入ったところ。今日の旧道歩きはここからだった。

 このあと、天野川の橋を渡ると、枚方宿へと入っていく。

枚方宿~森口宿

・枚方宿は京都と大阪の中間にあり、 淀川の京都伏見と大阪八軒屋浜とを結ぶ三十石船の寄港地として、また陸上の交通の要衝として重要な位置を占めて繁栄した。

・宿は岡新町村、・岡村、・三矢村、・泥町村の4ヵ村で構成され、東見付から泥町の西見付まで13町17間(1477m)あった。

・現在の枚方市は当時の建物や景観の保存に熱心で昔の宿場の面影が残されている。本陣1 脇本陣2 旅籠67 

 枚方宿東見附跡は、東の入口に当たる。大きな案内板には淀、伏見宿方向へ向う大名行列が「天野川」に差掛かり、見送りに出た宿役人が待受ける光景が描かれている。 ここを右折して、枚方宿に入って行く。

 すぐそばに番屋役人の屋敷が建っている。

 町に入っていくと、枚方宿案内図が設置されていて、ほぞんに力を入れていることが分かる。

 枚方市駅近くに大きな「枚方宿」の看板が立ち、近くに由緒ある旧家が残されている。 

 本陣跡と高札場跡の石碑もあり、カメラに収めたが、間違って消してしまった。

 

 繁華街の真ん中の「左近の辻」~角に文政9年の道標が残されている。正面に「右 大坂みち」、側面に「願主 大阪 和泉屋・・」とあり、「阪」 の文字は江戸時代は一般に「坂」の字が使われて「阪」の時は明治からというので、大変珍しい道標とこのと。辻向かいに「左近辻の道標」があった。

 繁華街から抜けて旧街道然とした道になると、このような旧家が目につく。

 やがて、旧街道は、淀川の堤防の歩きとなる。昔も古い堤防の上に街道が続いていたのだろう。

 土曜日なので、広い河川敷公園に並ぶ多くのグランドでは、少年野球やサッカーで、また、堤防や河川敷の道路はジョギングや自転車の人たちで大にぎわいである。それらを眺めながら快適な歩を進める。

 しばらく進むと、左側に「茨田(まんだ) 堤碑」が建っていた。説明板には「日本書紀に茨田堤の築造は、仁徳天皇十一年とあり、これは河川堤として本邦最初のものである・・・」。築造は難工事で、二ヵ所の「絶間」という場所に人柱を出すことになり、二人が選ばれた。一人は、機転をきかせて助かったという伝説が残っている。

 淀川新橋の下を潜ってしばらく進むと、土手の下「茨田樋之跡の石碑」というのがある。案内板によると、淀川から農業用水、生活用水を引き込んだ水門のようなもので、枚方ら毛馬まで八ヶ所あり、台風などの大水時に堤防が決壊するおそれがあるとして、すべてが廃止され、その跡が残っているのは、ここだけとこのと。

 堤防の道を1時間半も歩いて、ようやく左へ下りていく。6kmはあったろう。

 堤防から下りてからの路が非常に複雑でうろうろすることが多かったが、このような標識が目についた。右は路面の標識である。

 

守口宿~高麗橋(大阪)

57 守口宿(東海道57次)
・守口宿は江戸から57番目の宿場で、秀吉が造った文禄堤の上に造られた。南北約十町(1km)、東西は約1町(109m)の細長い宿である。

・大坂から2里の近距離にあったため旅人の宿泊は少なく、さらに時代が下がるとともに淀川舟運が発展し、交通量は少なくなってしまった。しかし、米・菜種・綿花などの農産物の集散地として重要な機能をはた商業活動は活発だった。

・宿場通りには今でも伝統的は商家なども所々に残されていて、当時の面影をしのぶことができる。また豊臣秀吉が文禄6年(1569)に淀川左岸を修築して作ったいわゆる文禄堤の京街道は、その多くは消滅してしまったが、八島交差点から義天寺まで1kmほどに往時の面影が残っている。本陣1、脇本陣0  旅籠27 

守口宿一里塚跡~ここには、東見附もあったようで、ここが守口宿の実質的な入口となる。

 この難宗寺は、蓮如上人が開創したと伝えられる寺で、角に石碑が4本建っている。「左京 すぐ京」、「すぐ守口街道」などと刻まれている。山門左の3階建ては太鼓楼で時間を知らせる為のもののよう。

守口宿にはあちこちに幟が建っている。京街道より、東海道57次をアピールしている。本陣跡の標識も設置されている。

 難宗寺を右折すると、竜田通りを西に向かう。この通りでは市が開かれ、道幅も15mもあったという。問屋場や本陣があった所で、いわば守口宿の心臓部であったためといわれる。 道の左の駐車場が本陣跡である。

 八島交差点で、カレー屋を見つけて、昼食にした。タルタルチキン南蛮カレー。唐揚げが抜群に美味しかった。

 八島交差点で、すぐ左側の斜めの道に入り、ゆるい坂道を上がって行く。この先が「文禄堤」の上に存在した守口宿の跡が続いている。説明板を読むと、文禄堤は豊臣秀吉が文禄5年(1596)、毛利輝元、小早川隆景などに淀川左岸に堤を築かせたもので、京街道のうち27kmにも及ぶが、八島交差点からこの先の義天寺までの約1kmの間だけ残っている。

 街道は、回りより数段高くなって、左側の「京阪守口駅」の高架よりいくらか低いくらいの不思議な光景となっていた。
 守口宿が「文禄堤」の上に存在することがよく分かる。市街地を抜けて急な坂を下ると、宿の終りとなる。

 あとは、ひたすらゴールの高麗橋を目指して歩を進める。

 森小路京かいどう商店街~街頭の支柱にも「京街頭」と書かれ、その上に「京」の字をモチーフにして、京街道にある商店街をアピールしている。

 守口宿から先の旧街道には、多くの「京街道」標識が設置されている。

 やがて、アーケードの「京橋商店街」が続く。なぜ、大阪なのに京橋なのかと進んで行くと、大阪城の堀の上に架かる街道の橋が「京橋」だった。

 大阪城の堀に架かる京橋の上から高層ビルを望む。右は、陸橋の上から眺めた大阪城。

 大阪城の堀から離れて、広い府道「土佐通り」を進む。

 15:20、京街道(東海道57次)のゴール、「高麗橋」に到着。若い二人連れにシャッターをお願いした。

 江戸時代幕府が管理する公儀橋の中でも格式が高く、高麗橋は常夜燈の付いた風格ある造りとなっている。西詰めには高札場があり、江戸日本場と同じく、西国諸国への「里程元標」となり、石碑建っている。江戸時代はここが京街道の終点となり、明日から歩く中国街道(山陽道)の始点ともなる。

 これで東海道は日本橋から京都三条大橋までの53次と、大名行列が歩いた、大阪までの57次をすべて終了したことになる。

 このあと、心斎橋にあるホテルまでの道順を検索したら、3kmだったが、大して疲れもないので、歩いて向かう。

 16:20、Feel Osaka Yu(カプセルホテル)に到着。対応が素晴らしく、コロナ対策とセキュリティが非常に厳しいホテルだった。しかし、シャワーしかない。どうしても湯船に浸かって疲れを取りたい。そこで、近くの銭湯へ。

 宿泊代が3890円→GoToトラベル割引で2529円。さらに、ここも地域クーポン券1000円が付いた・・・助かる!

 銭湯から帰ったら、17時過ぎになっていた。それから、記憶を頼りに写真の選定。そして、ブログアップ。途中でギブアップし、翌朝に残し、夕食を食べに出た。地域クーポン券のお陰で、少しは贅沢できる。

 この手のホテルは、土曜日は混むはずだが、ガラ空きだった。これもコロナの影響だろう。

 今日の歩数計、56,000歩(ホテルからホテルまで)

 

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京街道1日目・追分~54伏見宿~55淀宿~樟葉駅<32km>(7時間40分)

2020年11月13日 | 登山・旅行

 まずは、2日間の京街道歩きからスタート。56kmあるので、およそ半分の樟葉駅までが、今日の歩きである。

 6:30、今夜も電車で戻って連泊するので、余計な荷物を預けてホテルを出る。無料の朝食は遅いので食べないで出た。

 京都駅からJR東海道線に乗り山科で京阪京津線乗り換えて、追分駅まで移動した。さらに、東海道との追分がある、髭茶屋までやって来た。

山科追分~伏見宿 


 髭茶屋の由来はわからないが、ここは大津市と京都市との境でもある。右へ行くと「東海道 三条大橋へ」。左へ行くと「京街道 大阪」まで。

追分には道標があり、「みきハ京ミち」「ひだりハふしミみち」と彫られている。横に「蓮如上人」と彫られた碑もある。

 ここは、4年前の中山道(東海道との重複部分)の最終日に通っているはずだが、当時の記録を見たら、触れていないので、見落としているようだ。

 このあと、ポカをして、往復2kmも無駄に歩いてしまった。朝食を買いにコンビニに寄ったが、店から出たときに、90度違う道を進んでしまった。

 山科大塚の交差点を過ぎると、民家の前に「ひだりおヽつみち みぎうじみち」と書かれた道標がある。この道は「奈良街道」とも呼ばれているが、狭い道で車が多く渋滞気味。
 右手に、「皇塚」と彫られた石碑がある。この地には,直径20mほどの円墳があり、桓武天皇の墓所という伝承もあり,大塚という地名の由来となったといわれるそうだ。

  しばらく府道歩きが続くが、右手に京街道の旧道分岐があり、右へ進む。 

 旧街道らしい雰囲気を残した家並みが続く。

 再び府道へ出るが、その手前の左手に「桓武大王陵」、右手に「仁明天皇御陵」、などと彫られた石標があった。  

 やがて、由緒ありげな藤森神社に寄ってみた。1800年前に、神功皇后によって創建された皇室ともゆかりの深い古社である。
 鳥居には後水尾天皇の宸筆による扁額があり、参勤交代のとき大名も駕籠から降りて拝礼しなければならなかったという格式があったが、幕末の動乱の時代となり、時代にそぐわないと近藤勇がはずしたという逸話で有名で、現在は架かっていない。

伏見宿~淀宿

54 伏見宿(東海道57次)
・山科追分から分れて、大坂へ向う東海道としての54番目の宿場町であると同時に伏見城の城下町でもあり、さらに淀川の水運の中継地(伏見港)でもあった。

・江戸時代は幕府の直轄地で伏見奉行が支配する大きな町であり、他の宿場町に比して大変大きく、宿場は東は京町通りから、西は高瀬川、北は墨染、南は宇治川に接し、東西1km、南北4.6kmという大きな広さで、人口2万4千人程の大都市であったという。本陣4、脇本陣2軒、旅籠39 

 伏見宿は墨染駅の辺りから始まるらしいが、城下町だったこともあり、右折・左折が多い。ダウンロードして印刷した地図だけではとても歩けたものではない。現在地が分かるスマホのGoogleマップのルート地図を見ながら歩いた。

 伏見区役所を左に見ながら直進すると、前方にアーケード付商店街である。「大手筋商店街」である。今日の歩きの中で、最も人通りが多かった。
 さらに進み、先の交差点で右折して「油掛通」という通を進む

 伏見宿の中心部だった辺りに、黄桜酒造があり、カッパテーマ館もある。

 油掛通を左折すると京橋へ行くが、その手前を左に入った所に寺田屋事件で有名な「寺田屋」がある。再建されているが、現在も営業をしている宿屋である。坂本龍馬の定宿で、おりょうさんとの恋の宿としても知られている。

 宿の右側が公園になっていて、寺田屋事件のことや坂本竜馬とおりょうさんに関わる史跡がある。

 街道に戻ると、京橋に出る。そのたもとに「伏見口の戦い激戦地跡」の碑が立っている。

 伏見宿の中心は、現在の京橋付近だったようで、本陣があったという。橋の下の川は「豪川」というが、宇治川に注ぎ淀川に通じている。淀川の水運は、ら京都、大阪を結び、琵琶湖経由で遠く東海道・北陸ともつながる交通の大動脈であった。 

 

 京橋の上から「伏見みなと公園」を見下ろす。

 伏見みなと公園の「伏見みなと橋」~ここは江戸時代の港ではなく、戦時中の河川輸送の為に造られたものだそうだ。「三十石船」をイメージしたベンチがあり、常夜燈も立ち、橋も架かっている。

 やがて、3kmほどの宇治川堤防の歩きとなる。狭い街道ばかりを歩いてきたので、非常に開放的な歩きを楽しめた。

 やがて土手を下り、京阪本線の踏切を横断して、線路沿いに進む。「京都競馬場」が見えてくる。右手に「史跡 戊辰役東軍西軍激戦之址」と書かれた木標と「戊辰役東軍戦死者慰霊」の石碑があった。 

淀宿~樟葉駅

55 淀宿(東海道57次)
・淀宿は、淀城の城下町であり、伏見宿からわずか1里14町の近い所にあった。

・江戸時代の淀城は、豊臣秀吉が築城して淀君を住まわせた淀城ではなく、伏見城を廃城にして、桂川、宇治川、木津川が合流する三角州に新しく築かれた淀城を指す。

・淀宿はこの新しい淀城の領域にある三つの町と淀小橋でつながった城外の三町で形成されて、水陸交通の要衝として繁栄した。本陣0、脇本陣0 旅籠16 

 12:30、京阪淀駅前に出る。この辺りが淀宿の中心地だったようだ。

 この駅の左方向に淀城公園があるが、余裕がなく、寄らなかった。

 その手前の呑龍という中華料理店で昼食にした。

  淀駅前を通り、再び旧街道然とした古民家が並ぶ道を進む。

 やがて、淀川に架かる昭和2年竣工の御幸橋を渡る。

 

 御幸橋は淀川と木津川の2本に架かっているが、その間の「背割堤」は桜の名所らしい。桜がきれいに紅葉していた。

 木津川に架かる御幸橋を渡り、このあとしばらくは府道が上を走る堤防の根元の歩きが続く。しかし、この道は、旧街道ではなく、河川や堤防の工事なとで分からなくなっているそうだ。

 やがて、再び旧街道の町並みとなる。この辺りは遊郭があった所らしく、古い宿屋とおぼしき建物が並んでいた。

 堤防を越えて河川敷の道を歩くところもあった。

 今日のゴールの樟葉駅近くになったら、突然、これまでになかった「旧京街道」の標石が現れてびっくりする。

 覚悟はしていたが、五街道と違って、全く街道の標識はない。曲がり角が分からないので、現在地の表示されるGoogleマップのルート図が頼りだった。

 15:00、今日のゴールの樟葉(くずは)駅に到着。

 ここから一回乗り換えて、京都駅まで戻り、16:00、昨夜と同じホテルに到着。今日1にちのホテルからホテルまでの歩数は、49,000歩。

 まずは、大きめのバスタブにお湯を入れ、疲れを抜いて、ブログアップ作業に取り組んだ。

 しばらくぶりなので、相変わらず、時間が掛かる。書き終わったら、20:00近くになった。明日からはもっと省エネアップを工夫しなくては・・・。

 

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移動日・函館~大阪(伊丹)空港~京都

2020年11月12日 | 登山・旅行

           ↓ ↓ ↓

 今回の歩き旅のスタートは京都である。その京都までの移動だが、大阪(伊丹)空港まで、ANAのシニアスマート割引(16.260円)を利用するので、今日にならなければ予約ができない・・・幸い、朝5時の段階で空席があり予約ができたので、今日出発することができた。

 歩き旅専用の軽量のリュックとショルダーバック

 田家入口からの空港行きのバスは、ちょうど良いバスがなく、JR五稜郭駅から函館駅まで行き、空港行きの直行バスに乗った。昼食は、おんじきの赤味噌ラーメン。

 13:20発の便に乗る。乗客は8割ほどの混み具合。

 北アルプスの山並み?

 大阪の町並み

 15:10、大阪(伊丹)空港に到着。15:40発のリムジンバスで京都駅まで移動(1380円)。

 京都駅前から5分ほど歩いて、今日の宿のホテルエクセレンス京都駅八条口に到着。じゃらんを通して予約したので、Gotoトラベルで、ただでさえ安い簡単な朝食付で3500円が、2475円といううれしい料金になった。

 さらに、地域クーポン券1000円が付いてきた。これで夕食が食える。実質1470円で泊まったみたいなもの。

 これからの宿はほとんどじゃらんで申し込んであるので、35%割引で、そらに、この地域クーポン券が付いて来ると、凄いお得な旅になりそう。

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恵山高原コース維持管理作業ほか

2020年11月11日 | 登山・旅行

 恵山自然休養林管理運営協議会主催の「恵山登山コース維持管理作業」に、多くの山仲間と共に参加してきた。

 当初の計画では、高原コース全体と権現堂コースの山頂付近の予定だった。しかし、昨夜からの積雪で、火口原駐車場までの車道が閉鎖になったので、高原コース全体に絞った作業となった。高原コースは、5年前の同じ日に再開削して以来の整備作業である。

 主な作業は草(笹)刈りで、あとは見出し杭設置とテープ付けである。自分は草刈り機を持参して参加した。

 4台の草刈り機を2台ずつ、残りのメンバーを2班に分けて、刈られた草や笹の除去作業、テープ付け、杭の設置等に取り組んだ。1班は、駐車場まで先に登って、下りながら作業をし、2班は、下から登りながら作業をした。自分は2班の草刈りである。

 9:20スタート、12:15 1班と2班合流(作業終了)。13:10下山、13:30解散。

朝は函館市街地は晴れていたが、恵山地区だけは降雪状態で、恵山も真っ白になっていた。

スタート前の記念写真(自分は前列右)~17名の参加。

 先に1班がスタート

雪の降る中を登る2班

2班の草刈り作業風景と快適になった登山道~この辺りから晴れて来た。

1班と2班の先頭の草刈りマンが合流(右が自分)

1班と2班の先頭の草刈りマンの握手で開通式~これで本日の作業は終了。

下山風景

 カエデの名残紅葉~ほかの木はすべて葉が落ちていた。

※過去記事2社の新聞にも掲載された2015年11月11日の高原コース再整備作業(クリック!)

 

ピーナツカボチャ丸ごとグラタン

数日前にいただいた、初めて目にした珍しい形のピーナツカボチャ・・・形と色が名前の由来のようだ。

スープにすれば美味しいらしいが、半分は、妻がネットのレシピを参考に作ってくれた。


「京街道・山陽道」歩き旅の計画

2020年11月10日 | 登山・旅行

今日は今季一番の寒気に見舞われ、冬将軍到来の1日となった。

 旧街道歩き旅はこれまでに、中山道、東海道、奥州街道、日光街道、甲州街道の五街道のほかに伊勢街道も歩いている。特に奥州街道は、奥州奥道中も含めた三厩~日本橋間を歩いている。

 あと山陽道を歩けば、本州の三厩から下関まで繋がり、旧街道歩きで本州縦断となるので、今回の計画となった。新型コロナの感染が急増中である。密を避け、自己防衛に努めながらの旅になるが・・・。

 「山陽道」は通常、西宮~下関間の51次をいう。これまでの東海道と繋ぐためには、京都追分~大坂への「京街道」か、京都~西宮への大坂を通らない「西国街道」のどちらかを歩かなければならない。

 どちらにするか、悩んだが、東海道の延長として道中奉行の管轄下に置かれ、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4つの宿場が設けられ、「東海道57次と呼ばれることもある「京街道」を歩くことにした。

◎京街道(東海道57次)

  「京街道」とは、大坂から京都へ向かう街道の総称であるが、今回歩くことにした街道は東海道53次目の大津宿の先、追分(髭茶屋)から伏見、枚方などを経て大阪市内の高麗橋までの道をいう。

 徳川家康は大名が京都で公家と接触するのを禁止したため、大名行列は髭茶屋で京へ向う東海道と分れ、京を通らずに大坂へ向うことになった。

 この間は東海道の延長として道中奉行の管轄下に置かれ、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4つの宿場が設けられた。このため4宿を足して「東海道57次」と呼ばれることもある。元々文禄3年(1594年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が淀川左岸に築いた「文禄堤」(堤防道)が起源である。追分から高麗橋間は、全長約56km。

山陽道(中国街道)

 旧山陽道は西宮から下関まで、全長約550㎞の長距離街道で、51次(46の宿場町と間(あい)の宿5宿)があったとされる。

 江戸時代の五街道には含まれていないものの、山陽道の歴史は非常に古く、古代の7道の中ではもっともメジャーな街道であった。それは、京都と大宰府を結ぶ重要な道でもあり、大陸文化流入の道でもあった。

 今回は、大阪から下関へ向うので、「中国街道(路)」と呼ばなければいけないのだが、大阪以西は山陽の言葉が定着し、中国路の名称はあまり一般的ではないと思われるので、「山陽道(中国街道)」の名称を用いることにした。

 幕府の公文書では九州門司市の大里が終点のように書いてあるので、下関から関門海峡(渡船か関門人道)を渡って大里まで行ってみたいとも思っている。

◎計画と準備

 これまでの五街道歩き旅は、奥州奥道中(三厩~白河)以外は、ガイドブックが多く発刊されていたが、今回の山陽道のガイドブックやガイドマップは発刊されていない。しかし、ネット上には多くの詳しい記録が掲載されている。
 
 その中から、googleマイマップに街道を落した添付地図が掲載されていて、スマホでも見られ、現在地も表示される『街道歩き旅・com』「京街道歩き旅」「山陽(中国)街道を歩いてみました」に全面的にお世話になることにした。

 ・実質歩行距離の計測と自分の現在地を知るために、GPSも持参する。
 ・装備は、これまで通り、登山用具やランニング用具で間に合わせる。
 (サロモントレッキングシューズ、スポーツタイツ2本、ハーフパンツ2本、冬用コンプレッションシャツ2枚、Tシャツ2枚、登山ズボン1本、長袖シャツ1枚、下着パンツ4枚、五本指ランニングソックス3足、薄いウインドーブレーカー、インナーダウン、雨具上下、折り畳み傘ほか)
 ・日が短いので、1日30㎞平均で計画を立ててみた。
 ・これまで通り、できるだけ安い宿を探して、素泊まりを中心に、食費も抑えてケチケチ旅行に徹するつもり。
 ・基本的に1日の食費を2000円程度に抑え、宿代を含めて6000円程度になるようにしたい。
 
 計画を組んでみたが、ずっと山陽本線や国道2号に沿った都市部を繋ぐ街道なので、安い宿を探すことには苦労しないで済みそうである。さらに、じゃらんで予約できる宿は、GoToトラベルの対象になり、35%割引になるので、非常に助かる。
 
 ただ、これまでもそうだったが、都市部の旧街道歩きは、交差点での右折や左折が多く、それを見極めるのに苦労しそうな感じである。
 また途中には有名な観光名所もあるので、新型コロナの感染状況をふまえながら、街道から外れても寄ってみたい。特に、しまなみ海道(尾道~今治・70km)は、1日の予定を組んで、往きはレンタサイクルで、帰りはバスで往復したいと考えている。

◎京街道・山陽道歩き旅計画案(移動日・予備日含めて23日の予定)

 明後日(12日)の伊丹空港行きの空席があり、シニア割引が取れれば、出発する予定である。毎日の旅日記を、これまでと同じように、スマホからこのブログにアップし続けますので、お付き合いのほどよろしくお願いいたします。

11/12(木) 移動日(函館~伊丹空港~京都)

<京街道> 56km

11/13(金) 追分~54伏見宿~55淀宿~樟葉駅<28km>

11/14(土)  樟葉駅~56枚方宿~57守口宿~高麗橋(大阪) <28km>

<山陽道> 489km

11/15(日) 高麗橋(大阪)~①尼崎宿~西宮神社<24km>

11/16(月) ②西宮宿~③兵庫宿~須磨<24km>※以下、「宿」を省略

11/17(火) 須磨~④明石~⑤加古川<32km> 

11/18(水) 加古川~⑥御着~⑦姫路~⑧鵤<28km>

11/19(木) 鵤~⑨正条~⑩片嶋~⑪有年~⑫三石<31km>

11/20(金) 三石~⑬片上~⑭藤井~⑮岡山<30km>

11/21(土) 岡山~⑯板倉~⑰川辺~清音<29km>

11/22(日) 清音~⑱矢掛~⑲七日市~⑳髙谷~御領<34㎞>

11/23(月) 御領~㉑神辺~㉒今津~㉓尾道<29㎞>

11/24(火)※しまなみ海道(尾道~今治)往復(行き・レンタサイクル、帰り・バス)

11/25(水) 尾道~㉔三原~㉕本郷~<24㎞>

11/26(木) 本郷~㉖西條<28㎞>

11/27(金) 西條~㉗海田~㉘広島<32km>

11/28(土) 広島~㉙廿日市~㉚玖波<31km>

11/29(日) 玖波~㉛関戸~㉜御庄(岩国)~㉝玖河本郷~㉞高森<29km>

11/30(月) 高森~㉟今市~㊱呼坂~㊲久保市~㊳花岡~㊴徳山~㊵富田~㊶福川<35㎞>

12/1(火) 福川~㊷富海~㊸宮市~㊹小郡<32㎞>

12/2(水) 小郡~㊺山中~㊻船木~㊼厚狭<28㎞>

12/3(木) 厚狭~㊽吉田~㊾小月~㊿長府~51下関宿<31㎞>

12/4(金) 予備日

12/5(土) 移動日


昭和新山登山学習会

2020年11月03日 | 登山・旅行

この山の成長を記録し続けた三松正夫氏の銅像の建つ地点から溶岩ドームを見上げる

 「有珠山周辺地域ジオパーク友の会」主催の「昭和新山登山学習会」に参加。この昭和新山(398m)は、国の特別天然記念物に指定されている上に、私有地でもあり、現在は立入禁止となっている。登るためには、この友の会の会員になって、年1回のこの登山学習会に参加するしか方法はない。

 実は、大学1年生(昭和37年)の夏、研究室の洞爺湖キャンプの時に頂上まで登っている。すでに60年近く経過しているが、ぜひもう一度登っておきたいと、この友の会に加入していた。

 今年は、春に計画されたが、新型コロナの影響で夏に延期された。ところが、今度は熊出没のために、さらに延期されて、今日の実施となった。

 5:30に家を出て、集合場所の昭和新山パークサービスセンター駐車場を目指した。幸い、天気予報が良い方に変わって、素晴らしい天気に恵まれた。

 9:00前には受付を済ませ、9:15~諸注意・説明終了後入山。参加者は60名ほどの大所帯なので、先発隊と後発隊の2班に分かれて出発した。自分は先発隊だった。中に何度も参加されている北斗市のYoさんもいたので、一緒に行動した。

 コースは、9:15駐車場~銅像~入山ゲート~サンゴ岩麓森林界~屋根山~<左廻りコース>~ガレ場トラバース~崩落土砂堆積区域~屋根山左展望所~ドーム北東麓ガレ場トラバース~亀岩~溶岩ドーム登攀~10:40頂上手前~10:50亀岩【昼食】

 ~11:30下山開始~コブ山東陵~屋根山~<右回りコース>~グレン谷~後山 潜在ドーム~珊瑚岩下~ゲート~駐車場12:45

「麦圃生山」(麦畑に生まれた山の意)

サンゴ岩下の屋根山分岐からドーム下を左廻りに進む

赤い溶岩ドームの西面を見ながら

北側へ回り込んで、奥に見える、頂上へ繋がる北東尾根を登る

亀岩から壮瞥町市街地を見下ろす。奥の山は、左から徳舜瞥岳~ホロホロ山~オロフレ山。

亀岩~生成期より定点地熱観測ポイント。昭和20年初頭は900℃もあり、夜には伊達市から赤く見えたそうだ。

亀岩のアップ~亀の甲羅のような模様になっている

戻って昼食場所となる亀岩から空身で山頂を目指す。

ドームの斜面越しに洞爺湖と羊蹄山を眺める

有珠山を眺める

山頂ドームを見上げる。山頂は、亀裂が入っていて、現在は登れないので、この上へ少し登って戻った。

溶岩に交じって、火山には似つかわしくない川原石が散在する。これは、長流川の堆積物が、隆起して持ち上げられたもの。

戻る少し下で、洞爺湖をバックに先発隊の記念写真。(自分は右下)

洞爺湖をバックの自分(Yoさん提供)

亀岩での昼食タイムの所へ登ってきた後発隊が合流して賑やかになった。

東側から山頂ドームを見上げる

南側から見上げる溶岩ドーム

眼下のカラマツ林の黄葉を見下ろす

60年前はどこから取り付いたかは不明だが、山頂までの北東尾根は当時より崩壊と浸食が進み、険しくなっていた感じである。

帰りに60年前とほぼ同じアングルから撮影した昭和新山

昭和37年(1962年)8月3日の昭和新山と登頂記念写真

(左端の紅顔の美少年?が自分)

 この時は、今日登った北東尾根を登っているが、決まった登山道はなく、「やけど注意」「有毒ガス注意」などと書かれた立て札があちこちに立っていて、それを避けながら登った記憶がある。確か10人くらいでトライしたはずだが、頂上に到達できたのは、このシャッターを押してくれた人を含めて、多分5人だけだったようだ。 

 今日聞いたところによると、立ち入り禁止になったのは、昭和54年からだそうだ。国の方から管理者責任を求められるようになったからとのこと。


毛無山(北斗市)・ブナの黄葉

2020年10月28日 | 登山・旅行

 北斗市の毛無山(750m)は、これまでに10回登っている。2014年3月の齋藤博敏さんの捜索活動も含めればもっと多くなる。

 例年は、晩秋の11月に、「函館山楽クラブ」と「北斗市の自然に親しむ会」が登山道整備をしてくれていたが、夏以降は登山道が笹や夏草で覆われていて、悪評の高い山だった。

 しかし、今年は、7月に刈り払い整備をしてくれていたので、この時期でも歩きやすいだろうと思っていた。天気予報が良い方に外れたので、遅きに失した感はあるが、急遽、ブナの黄葉狙いで向かった。

 登山道は、お陰で、笹や夏草が被さることもなく、快適に歩くことができた・・・感謝!しかし、ブナの黄葉は、予想通りピークを過ぎていて、稜線上はすでに枯葉状態だった。

 <登り>8:25登山口~10:20山頂(1時間55分)、<下り>10:35山頂~12:15登山口(1時間40分)

 ブナ(山毛欅、橅、椈)は、北海道では道南にしか分布せず、黒松内が北限。夏の柔らかな新緑と秋の金茶色に輝く黄葉が魅力である。北海道のブナは、本州のブナよりも葉が大きいのが特色。 

今年、新しく設置された登山口標識

まだ黄葉状態のブナ

ブナの黄葉に覆われた桧沢の滝

ほどよい金茶色を呈しているブナの若木

ブナの幹に設置されている頂上標識。左後ろもブナ林。

湖面にダケカンバを映している大石の沼

駒ケ岳(上)、二股岳(下)

函館平野の北部(上)、木地挽山越しの駒ケ岳と横津岳(下)

<過去の毛無山の「山行記録一覧」のページ>へ

 


「七飯スノーパーク」ゲレンデ登山 & 「留の湯」お別れ入浴

2020年10月27日 | 登山・旅行

 ずっと以前から、機会があったら、いつも滑っている七飯スノーパークのゲレンデを夏に登ってみたいと思っていた。

 ここ数年、夏のゴンドラ運行もしていて、観光客を呼び込み、ゴンドラ山頂エリアに、4ヵ所の展望デッキが設置され、散策路も整備されている。

 スキー指導員仲間のTaさんたちがトレーニングを兼ねて、良く登り下りしていると聞いたので、ゲレンデ内の状況を尋ねてみた。刈り払いもされていて、管理道路がしっかり付いている・・・とのことだった。

 どうせ登るなら、紅葉の頃が良いだろうと思っていたら、先日、新聞に上からの眺めの写真と記事が載っていた。

 しかし、そのあとの3日間ほどの強風で、山頂付近のダケカンバを中心とした木々の紅葉が散ってしまって、タイミング的には遅かった。

 メインゲレンデ(小沼コース~白樺コース)を登り、ゴンドラ山頂付近の展望デッキ巡りをして、高速リフト山頂駅から、高速リフトのゲレンデ(チャレンジコース)を下り、さらに、下の林道コース(からまつコース)を下って周回した。

 標高差は700m、総距離は9.25km、歩数は15000歩。

 <登り> 8:50山麓駅~10:20ゴンドラ山頂駅(1時間30分)〈展望デッキ巡り〉10:20~10:50(30分) 

 <下り> 10:50高速リフト山頂駅~12:00ゴンドラ山麓駅 (1時間10分)

 駐車場からスキー場を見上げる。(朝は逆光だったので下山後撮影)

 事務所へ、許可をいただきに寄る。副支配人から、差し入れのミカンをいただいてスタート。

ゴンドラ横から小沼コースの方へ向かう。(ここも下山時に撮影)

途中の急斜面を登り切った地点から駒ヶ岳と大沼を眺める。

通称・松の廊下から振り返る。

松の廊下の上のゲレンデを見上げる。

PEAK CAFE 下から噴火湾を見下ろす。山頂部を雲で覆われた羊蹄山も見えている。

 PEAK CAFEの横を通り、1時間半で山頂駅に到着。

山頂エリアの展望デッキと散策路の地図

展望デッキ「見晴らしの丘」から鹿部市街地と噴火湾を見下ろす。

 

展望デッキ「紅葉の谷」から、木の葉の散ってしまった横津岳山頂斜面を見上げる。ここからの紅葉の見頃は10月15日前後らしい。

一番のお勧めスポットの「紅葉の谷」だが、時すでに遅し。来年はここが見頃のころに再トライの予定。

高速リフト山頂駅の横にある「展望の丘」から駒ヶ岳を眺める。

チャレンジコースから小沼と大沼を見下ろす。

チャレンジコースの急斜面から紅葉斜面を眺める。

からまつコースの紅葉。

 下山後、副支配人に下山報告とお礼を言い、車の中で昼食のおにぎりを食べる。その後、11/8で160年の歴史を閉じるという留の湯へお別れ入浴へ。

 

◎11/8で閉館する留の湯へ(お別れ入浴)

 七飯町東大沼の「東大沼温泉 旅館留の湯」が11月8日に閉館する。支配人の三谷忠清さん(71)、純子さん(64)夫婦の高齢化に加え、新型コロナウイルス感染拡大の影響などで来客が落ち込み、経営の見通しが立たないと判断したという。

 約160年前には湯治場として使われていたという文献が伝わる歴史のある温泉であり、自分も若いころから、長い間ずいぶんと利用させていただいた。

 この留の湯は、駒ケ岳が大噴火した1856年(安政3年)、湯治客が犠牲になったという文献が残る。経営者を変えながら湯治場として続いたとみられ、1985年に、純子さんの両親が関西に住む留の湯のオーナーから管理を任されて日帰り温泉の営業を始め、89年に温泉旅館となった。その間、何度もリニュアルされている。

 「源泉100%、24時間掛け流し」が自慢の、それぞれ異なる源泉を持つ湯殿が、「大浴場」(400円)、「安政の湯」(500円)、「露天風呂」(1時間1200円)、「新泉の湯」(貸切家族風呂・1時間2000円)と、4つもある。

 いつもは、「大浴場」へ入っているが、今回は最後なので、昔からある懐かしい、黒っぽいお湯の「安政の湯」の方へ入ろうと思ったが、掃除をした後でまだお湯が溜まっていないとのこと・・・残念。

 このあと、今年から開催されている「北斗紅葉回廊」の八郎沼へ寄る。(明日アップ予定)

 ライトアップされるまで、駐車場でこのブログのアップ作業に取り組む。


紅葉の円山(札幌)~北海道神宮境内散策

2020年10月22日 | 登山・旅行

 札幌の円山(225m)はこれまで何度か登っているが、いずれも出張の会議等の前の散策登山である。今回も昨日の講演の前に、紅葉狙いで訪れた。

 円山は、1912年(大正10年)に「円山原始林」として、国の天然記念物に指定されていて、都会にありながら深い自然を満喫することができる。 

 円山公園の有料駐車場に車を置いて、札幌自然歩道になっている「八十八ヶ所ルート」を登り、「動物園裏ルート」を下って、1時間ほどで周回した。

八十八ヶ所ルート入口

この山には、カツラの巨木が多く点在する。黄葉した葉は非常に甘い匂いを放つ。

歴史を感じるカツラの巨木の根張り

樹間の紅葉

山頂のカエデと左下の山神の碑

山頂から南の方向を眺める

動物園裏ルートとの分岐に建つ奥の院

北海道神宮境内散策

駐車場から南側の鳥居を眺める

カエデの紅葉

北海道神宮

カエデの紅葉

神宮の手水舎の後ろに立っている、札幌の礎を築いた開拓使判官・島義勇の銅像


札幌までの紅葉ドライブ~岳友との飲み会

2020年10月20日 | 登山・旅行

 明日に依頼を受けていた講演と、それに日程を合わせてもらった今夜の岳友との飲み会のために、札幌へ。

 せっかくなので、紅葉が見頃を迎えているという豊平峡と定山渓に寄ってから札幌入りすることにした。

 今年見た紅葉で最もきれいだった。

◎中山峠

 

◎豊平峡ダム

 

◎定山渓

 

◎岳友との飲み会

 7月末に、札幌の岳友のsaijhoさんから、「私が所属している山岳会の代表が坂口さんにぜひとも会いたいと言っている。札幌へ出てくる機会がありましたら、お願いできませんか?」というメールをいただいていた。

 コロナの影響で、札幌は避けていたが、明日の10/21に、かでる2・7にある道民ガレッジから講演依頼を受けていたので、その前後ならということで返事をしたら、今夜ということになった。

 会場は、個室のあるすすきのの三川屋会館本店で、19時から。メンバーは、saijhoさんのほかに、会の代表のHaさん、今年の大千軒岳でお会いした小樽のO女史、初対面の道新のU記者と読売新聞のKa編集委員とのこと。

上の2点は、三川屋会館本店に飾られているsaijhoさんのお父さんの作品


健八流(松前)の二十三夜塔へのご案内

2020年10月18日 | 登山・旅行

 松前町の江良地区に河口を持つ大鴨津川上流に、珍しい名前の健八流(けんぱちながれ)(539m)という山がある。2回登っているが、その山頂手前の516ピークに「廿三夜」と彫られた月待信仰のものと思われる、慶応元年の石塔とその近くまでの昔の道の跡を見つけている。

 この「月待ち信仰」とは、江戸時代初期から末期に掛けて全国的に広まっていた民間信仰であり、「講中」仲間が特定の月齢の夜に集まり、飲食を共にし、月の出を待ち、お経を唱えながら悪霊を追い払うなどの月待ち行事を行ったものである。月待塔はその記念として造立した塔である。

 月待信仰は、地域によっていろいろあるが、二十三夜が最も盛んで、全国に広まっている。実際、本州の旧街道歩きでも、「二十三夜」と彫られた石塔をあちこちで眼にしている。

健八流登山1回目 http://sakag.web.fc2.com/kenpatii.htm

健八流登山2回目 https://blog.goo.ne.jp/sakag8/d/20191222

 8月末に、上記のページを目にしたという松前町の佐藤学芸員から、「町内にこのような月待信仰やその石塔があることは初めて知りました。現地へ行って、ぜひともそれを見たいのですが、自分のような山の素人でも行けるでしょうか?」というメールが入った。自分的にも興味もあったし、「お役に立てるのであれば、ご案内いたします」ということで、10月の案内を引き受けていた。向こうからも「それまでに、町内の二十三夜講のことについて、調べておきます」とのことだった。

 それが、今日のご案内となった。向こうの都合で、9:30に松前の道の駅で待ち合わせて、現地へ向かった。

 車の中で、佐藤学芸員から、これまでの調査結果をいろいろ詳しく聞くことができた。さすが、学芸員である。

・健八流はかつて三夜山と呼ばれていた。
・現在でも旧暦九月二十三日(今年は11月8日の予定)に二十三夜講をする集落(茂草地区)がある。朝日地区には、二十六夜講が残っている。
・しかし、茂草地区の人も朝日地区の人も、この二十三夜塔のことは知らない。
・江良地区には月待信仰の歴史はない。この石塔のことを知っている人もいない。
・松前城下には、この月待信仰の歴史は見当たらない。
◎大正7年の記録に、今日車を停めた辺りに、七番山という字名があり、6戸の集落があった。炭焼きを生業としていたようだ。その手前に江戸時代に建立の山神神社があったという記録もある。
※この集落の二十三夜講の可能性大である。この集落が江戸時代からあったと考えられる。
 
 
 <登り>10:15入山口~11:25 516ピーク(1時間10分)。周りの笹刈り・拓本作成作業50分。
 <下り>12:15 516ピーク~13:10入山口
 
 
昔のこの二十三夜講の参拝道と思われる踏み跡を辿る。
 
拓本採取作業を初めて見させていただいた。
たわしで汚れを落す→紙を貼る
霧吹きで紙を濡らす→固く絞った棒状のタオルでなぞってピッタリ張り付ける。
 
拓墨をタンポンに付けて、丁寧に上からなぞる。
 
完成→これを剥がして持ち帰って、低温でアイロンをかけるらしい。
 
この二十三夜等に刻まれた文字
廿三夜
慶應元年丑五月二十三日(旧暦)
講中拾人(10人の講中)
甚吉(多分これを作成した石工ではないかとのこと)
正五九(正月、五月、九月→講を行う月)
 
 石塔に使われている石は、松前城の石垣と同じ緑色凝灰岩。それも質の良いものとのこと。産出は松前本町の裏にある石切り場。
 
 台座の石は、モルタルが使われているので、上磯セメント工場ができたあとのものである。
 すなわち、慶應元年に石塔は造られてここに設置されたが、台座はのちの明治~大正年間に持ち込まれたものであろう。
 
 この場所から大鴨津川を挟んで、東の方向に大千軒岳と前千軒岳の連なりがはっきりと見えた(撮ったつもりが写っていなかった)。その方向の展望が開けているので、そちらから昇る月を眺めたものと思われる。
 

 記念撮影をして下山開始。

この山は3回目だが、いろいろな疑問が解明され、拓本採取作業も見学できて、学びの多い山だった。


砂原岳・北面直登ルート(新ルート開拓)

2020年10月09日 | 登山・旅行

 駒ケ岳の1ピークで、剣ヶ峰と火口原を挟んで対峙する砂原岳(1112m)・・・車社会になる前には、砂原駅から、頂上までまっすぐ登る登山道があったらしい。今日は、SHOさんとそのルートと思しき北面直登ルートを、弥右衛門沢川の右岸に続く、砂防ダム工事用道路跡を利用してまっすぐ頂上を目指した。7月中旬にも計画したが、天気が悪くて、下見だけで終わっている。

 砂原駅から山の方へ向かう道路を走ったが、道が荒れて来たので、T字路手前に車をデポしてスタート。T字路から保安林管理道路駒ケ岳線を西へ少し向かい、弥右衛門沢川の右岸に続く、砂防ダム工事用道路跡に入った。途中から沢に中の藪漕ぎになり、尾根に逃げて、急斜面を頂上を目指して直登した。

 藪から抜け出した700m付近から、斜度がきつくなる。下の方は苔がびっしり生えているので歩きやすかったが、上の方は、ザレ場のような急斜面で、落石があるので、浮石には気を付けながら、恐怖心と闘いながら必死で登った。

 昔の登山道があった剣ヶ峯の南西尾根ルート(函中コース)や砂原岳の東尾根ルートには、ケルンがあり、その痕跡があったが、ここには何も見つからなかった。

 下山は、同じコースを下るのは怖いので、正規の登山道を下って、周回した。

 <登り>8:00車デポ地点~8:15弥右衛門沢川工事道路へ~10:20頂上(2時間20分) 頂上休憩20分

 <下り>※登山道 10:40頂上~12:15保安林管理道路~12:55車デポ地点(2時間15分)

弥右衛門沢の砂防ダム工事道路跡へ入る

藪漕ぎとなる

沢の中で岩場にぶつかり、右の尾根に上がって、そのまま直登。

薮が薄くなり、歩きやすくなる。

ミヤマウズラと、健気に咲いていたイワギキョウ

700m付近で、藪を抜け、上の岩場の左側を目指す。

登ってきたルートを振り返る。下は砂原市街地の海岸線。

上は、苔の胞子のう?、下は苔の中に生えている蕾を持った感じの不明な植物

900m付近の岩場の横を登る。この辺りが最も急だった。

頂上に続く微かな尾根地形を登る。

苔がなくなり、浮石が多くなり、足場に細心の注意を払いながら慎重に登る。

2人とも何度か、足場の石が崩れて前のめりになった。この登りが最も怖かった。

飛び出した三角点標石に迎えられて、ようやく頂上到着。

頂上から眺める剣ヶ峰と火口原とその向こうに大沼と函館山。

東側のゴリラ岩

登ってきた斜面は急で見えない。中央下の砂防ダムの見える右側の尾根からまっすぐ登ってきた。

飛び出した三角点とともに記念撮影。

登ってきたコースを下るのは怖いので、正規の登山道を下る。

西円山分岐付近から登った斜面を眺める。


今回の旅を振り返る

2020年09月25日 | 登山・旅行

 今回の旅は、移動日の9/12と今日を除くと12日間だった。メインは登山だったが、天候にあまり恵まれすに、山に登れた日は5日間だけだった。

 本来は大雪山系の紅葉登山が目的だったが、紅葉が大幅に遅れていて、1週間ほど知床方面へ移動して、再び大雪山系に戻った。

 9/13は、旭岳ロープウエイを利用して、「裾合平~中岳温泉~中岳~北鎮岳~比布岳~安足間岳~当麻岳~当麻乗越」と回ることができた。この時点で紅葉が1週間以上遅れていることが判明した。裾合平のチングルマ斜面もまだ早かったが、標高の高い比布岳や安足間岳斜面のチングルマ斜面は、それなりに見応えがあって満足できた。

 9/19は、15年ぶり、3回目の「斜里岳」に、道内の登山道や縦走路で唯一歩いたことのない、念願の三井コースを往復することができた。頂上直下の岩稜歩きと最後の急登が印象的だった。しかし、変化があって楽しいのは、やはりメジャーコースの清里コースであることを確認することができた。

 9/20は、4回目の「羅臼岳」に、24年ぶりの岩尾別コースを往復した。5年前の羅臼コースからの時は、頂上は雲海の上だったので、展望は雲海しかなく、天候に恵まれた360度の展望は24年ぶりだった。羅臼コースとの分岐付近にある岩清水は、昔のようにすだれ状の湧水がなくなり、登りでは見逃してしまったくらいである。斜里岳も羅臼岳も4連休と日本百名山なこともあり、登山者の数ももの凄かった。

 9/22は、大雪山系に戻り、シャトルバスを利用して、「黒岳~北海岳~白雲岳~赤岳~銀泉台」と縦走した。このコースは、大雪山系の山岳紅葉を一番堪能できる贅沢コースだが、草紅葉は例年と遜色ないほどきれいだったが、赤を演出するナナカマドはオレンジ色のままで残念だった、それでも、ほかの山に比べると十分きれいなのだが、例年の写真を比べるとそのあまりの違いに愕然とした。

 9/24は、紅葉期待ではなく、「14年ぶりに復活した松仙園コース~沼の平~当麻乗越」と歩き、高層湿原の湖沼群や池塘群を単横することができた、幸い好天に恵まれ、青空を映す水面の色が美しかった。

 ◎大雪山系の例年との紅葉の違い

 上が、今年9/22の黒岳のまねき岩付近と銀泉台紅葉斜面である。下が、例年の9/15前後の状況である。違いが一目瞭然である。このあと、さらに赤くなれるのか、そのまま枯れてしまうのかは分からないが・・・。

 山に登れない天気の日は、あちこち探訪等を楽しみ、余った時間は図書館や温泉でのんびり過ごした。

 9/15は、知床方面への移動も兼ねて、当初からの計画だった、「遠軽のコスモス園と網走の能取湖のサンゴ草(アッケシソウ)」を鑑賞することができた。

 コスモス園は、その広さに驚き、いろいろな種類のコスモスを楽しむことができ大満足だった。サンゴ草は過去にも一度見に寄ったことはあるが貧弱な感じだった。しかし、今回は地元の人たちの努力で見事なほど復活していたことに感動した。

 9/23は、雨予報だったので、朝のうちに、過去2回訪れたことのある「大雪森のガーデン」に行った。この時期でも考えられないほどの多くの花が咲き、その中にあるいろいろな施設の野菜等を使った何気ないアレンジメントにも心奪われた。

 9/14は、小雨の降る中、旭川の博物館や公園や古い建物を歴史探訪を中心に走りまわった。上川アイヌの暮らし、屯田兵による開拓、北辺の守りを担う「北鎮部隊」と呼ばれた第七師団等の歴史に触れることができた。

 9/16は、斜里町の道の駅で朝を迎えたが、やはり雨予報だったので、網走まで戻り、午前中にまだ訪れたことのなかった「網走監獄」を探訪した。明治初期の北海道開拓の先駆けとして、囚人による道路建設や屯田兵舎の建築があったことやその苦労等を再確認することができた。その帰りに、天都山展望台からの景観や小清水町のいろいろなところをカメラに収め、18日のブログネタにした。

 9/17は、朝は斜里岳が見えていたので、登山口を目指したが、途中で雨が降ってきたので止めた。その後、雨は止んだので「清里町フットパス」を歩いた。清里町は、全国農村景観コンクール全国特選の20選の町で、それらを楽しめる「パノラマの丘コース」と「タウンコース」を歩いた。最後の5分で土砂降りに見舞われ、発着地点の温泉「緑清荘」で午後からのんびりと過ごした。

 9/18は、やはり雨で、小清水町の図書館で一日時間をつぶした。その前に、前々日に営業時間外で中に入ることのできなかった「ほがじゃ」の工場見学をし、お徳用の4種類の割れものを購入した。この日のブログネタは、前日のカメラに収めたものと、この「ほがじゃ」のことを書いた。

 9/21は、大雪山系への移動日だったが、朝に内に、「知床五湖」をようやく歩くことができた。どの湖からも知床連山が眺められ、その姿を湖面に映していた。4連休中なので、駐車場待ちの車列が1kmも並んでいたし、道の駅、ビジターセンター、見所、ウトロ市街地も車や観光客が溢れていた。

 本来の目的であった山旅は天候に恵まれず、停滞日が多かったが、その分、いろいろなところを見たり、歩いたりして、それなりに充実した旅だった。山中や温泉で5グループの岳友やHYML仲間にも会うことができた。


松仙園~沼の平~当麻乗越

2020年09月24日 | 登山・旅行

  松仙園の新しい木道の向こうに愛別岳~永山岳~安足間岳の連なり

 今年になって14年ぶりに復活した愛山渓・松仙園コースを歩き、沼の平を通り、当麻乗越までが今回の計画である。下山は、沼の平から直接三十三曲りコースを愛山渓へ下った。

 永山岳へ最初に登った時に一度下っているが、その時の記憶と、松仙園までの登山道は泥濘が酷いという情報があったので、スパイク長靴で登ったが、大正解だった。

 〈登り〉6:00愛山渓~7:15松仙園~8:30沼の平入口(八島分岐)~9:50当麻乗越(3時間50分) 休憩40分

 〈下り〉10:30当麻乗越~11:35沼の平入口(八島分岐)~12:35愛山渓(2時間05分)

 まだ、太陽の恵みを受けていない愛山渓駐車場から愛別岳(左)と永山岳の稜線を眺めてスタート。左の建物は、下山後に入浴した愛山渓温泉。

 松仙園への分岐(右へ進む)

 旧林道を20分ほど進む。この道も結構泥濘があった。

 松仙園への登山道に入る。

 このような泥濘がほとんど。長靴でも苦労するほどである。

 1時間15分で松仙園入口に到着。

 新しい木道の向こうに、逆光の愛別岳から旭岳までの連なり。

旭岳を眺める。

 松仙園の池とう群(二の沼?)。奥の高い山は天塩岳。

 アカエゾマツと池とう群(三ノ沼?)

 四の沼を中心とした湖沼群

 再開削に苦労したであろうハイマツ帯とネマガリダケ帯の道。

 

 

 八島分岐の出口ゲート(一方通行)

 八島分岐から沼の平へ向かう。

 半月沼や五の沼の湖沼群。ここからひと登りすると六の沼が現れる。

 六の沼を中心とした湖沼を見下ろす。

 今年はこれが精一杯の紅葉を呈しているウラジロナナカマドとその向こうに当麻岳の尾根。

 当麻乗越直下の沼

 3時間50分で、11日前にも通過した当麻乗越(1650m)に到着。

 当麻乗越から、松仙園(左奥)や沼の平に広がる高層湿原や湖沼群を俯瞰する。

 11日前にも眺めたピユケナイ源流部の紅葉は進んでいたが、やはり、赤がない。

 同じく11日前に歩いた裾合平とその後ろにそびえる熊ヶ岳と旭岳。

 今年の大雪の紅葉はこれが精一杯のようだ。ずいぶんと長い間大雪の紅葉登山に来ているが、これほど赤くなれない紅葉は初めてである。それでも、他の山に比べたら十分にきれいである。

 今日を今年の大雪の紅葉の見納めとして、40分ほど休憩して、下山を開始した。しばらく下っていくと、登ってくるご夫妻に「坂口さんですよね。ニセコのNaです」と挨拶された。初対面ではあるが、お互いにフォローしあっている「ニセコのおさる」というブログを公開している方で、古いHYML仲間でもある。昨日のこちらのブログを見ていて、会えることを楽しみに登ってきたそうだ。

 下山後に愛山渓温泉から上がって車まで歩くと、下山してきたご夫妻に声を掛けられる。こちらも古くからのHYML仲間で、我が家にも泊まったことのある札幌のSuご夫妻だった。

 まだ、紅葉がきれいであれば、トムラウシ山や新得コースからの十勝岳も登りたかったが、明日は台風も来るようだし、今回の山旅はこれでお仕舞いにして、帰路に就くことにした。

 愛山渓から国道に出たところで、ブログをアップした。これから、走れるところまで走って、明日の午前中には帰宅できるだろう。