我が家から徒歩5分ほどのところにある温泉銭湯「富岡温泉センター」が、11月30日で営業を終了し廃業するという。
最近はご無沙汰だったが、これまでに一番多く入った温泉かも知れないだけに、そう聞くと寂しさが募る。
本日、見納めと入り納めを兼ねて、6時から営業している朝風呂に入ってきた。
以前は、朝風呂の常連がいて賑わっていたものだが、今日は自分を入れてわずか4名だった。
この温泉は、昭和40年(1965年)に「富岡浴場センター」の名で開業。そのときから数えると55年になる。
昭和60年(1985年)には地下1200メートルから65度の温泉を掘り当てて「富岡温泉センター」になった。
当時、湯の川には温泉銭湯は何軒もあったが、富岡のような住宅街にはまだないころだ。
最近では市内あちこちに開業されているが、住宅街での温泉銭湯の先駆けだった。
※以下の懐かしい画像は、撮影禁止だったので、他サイトから借用したもの
開業当時からもったいないほどドバドバの「65度の源泉掛け流し」である。1個50円のゆで卵も懐かしい。
開設当初から20年ほどはもの凄い人気で、建て増しもし、近所一帯の空き地が全てこの駐車場となったくらいである。
その当時を知っているだけに、最近は過去の賑わいがなくなっていたのは寂しい限りだった。
露天風呂を備えた近代的な施設の温泉銭湯があちこちに開業した影響が大きい。
かくいう自分も、最近は少し離れている昭和温泉へ行くことが多い。
客が減り始めてからは設備投資はほとんどしないで来たせいか、逆に昭和チックな雰囲気が残っていて、これも魅力だった。
当時から源泉を薄めないことにこだわって、65度の源泉を循環させて、46度くらいにしてから浴槽へ注いでいたようだ。
開業当時から、浴槽は4個で、一番右奥が小さなサウナ用の水風呂で、次の一番深い浴槽から「高温」「中温」「低温」と浴槽が並んでいる。
46度くらいの源泉は高温浴槽に注がれ、そこから段々になった中温浴槽>低温浴槽へ流れていくうちに、湯温が下がる仕組み。
また、湯温を下げるためにも浴槽の深さもだんだん浅くなっていた。
自分が入るのは、もっぱらその42度くらいの低温浴槽だった。当然、この浴槽が一番混んでいた。
最盛期のころは、隣の同じ方式の女風呂を繋いで男風呂として使用していたこともある。
その時の女風呂は建て増しした方に移ったらしい。
温泉の質の良さは折り紙付きだったが、湯温が高いこともあり、ゆったりと入浴を楽しむのにはちょっと不向きな温泉だった。
それでも、前妻が亡くなって一人暮らしをしていた3年間は、自宅の風呂は使用せずに、回数券を買ってこの温泉に通っていた。
なんと言っても、湯船に入ったときの体に染み入る感覚が筆舌に尽くしがたいほど好きだった。
疲れも抜けていくような気がするし、最高に温まるのも魅力だった。
ずっと6時から年中無休で営業しているので、早朝ジョギングをしていたころは、この駐車場に車を置いて、そこからスタートして、ここに戻ってきて、汗を流し体を温める・・・寒い時期などは一日中体がポカポカしていたものだ。
帰りに、番台にいた社長と、最盛期のころの駐車場の広さや女風呂も男風呂として通して使ったことなど懐かしい話をして来た。
源泉はすでに昔駐車場だったところに建っている老人福祉施設で利用しているので、改めた利用は考えていないとのこと。
今は、富岡センターの跡地には、建て売り住宅と小さなマンションが建っています。昔の面影はありません。
最盛期には周りにたくさんあった駐車場もなくなって、建物が建っています。
最盛期の富岡温泉が懐かしいですね。
亀田小の卒業生のようですが、20数年ぶりの函館、あの辺りも、亀田病院や亀田公民館がなくなり、だいぶ変わっています。母校と思われる桐花中は五稜郭中になっています。
亀ッコで、富岡浴場センターから富岡温泉になってからも入っていたものです。極近所だったもので…
富岡浴場センターの隣にはさとう店があり、斜め向かい側に移転しましたね。マルニのクレープもよく覚えております。
私の祖父は15時に富岡温泉に行く習慣がありました。学校帰りによく、風呂上がりの祖父と鉢合いました。肌着一枚に、首にタオルをかけて、風呂桶を小脇にかかえて歩いていたのが懐かしいです。学生の時、年末に夜間の掃除のバイトをしたのも思い出されます。
かき氷の自動販売機もありました(笑)。
一時期食堂もありましたね。全盛期のころでしょうか…
お気に入りのアイスがありまして、コーヒー、イチゴ、バニラのぼっこアイスです。(ぼっこが方言だと最近知りました)
今でも探してみますがやはりもうどこにもないです。
この春、20数年ぶりに函館へ帰ります。
浦島太郎のような気持ちです。
懐かしき富岡温泉はありませんが、函館の街を改めて楽しもうと思います。
しばらくあの通りを通ってなかったらしく気づきませんでした。
最盛期の、あの辺り一帯に駐車場が広がって行ったことが嘘みたいな感じですね。
新型コロナの事もあり、ここ2〜3ヶ月は必要最小限以外の外出を控えていたのですが、私用で暫く振りに温泉センターの道路を車で通ったら温泉センターは跡形も無く解体され更地になり、跡地には戸建ての木造の骨組みが建ってました。
これでまた一つ昭和・平成世代の富岡町1丁目住民にとっての原風景が失われてしまいました…。
将来“あの場所に温泉センターが有った事知らない令和生まれの富岡町1丁目住民”が出て来ると思うと一抹の寂しさを感じてしまいます…。
ご近所の様子の移り変わり、とても事細かに
覚えていますね。書かれている場所は私もすべて懐かしく思い出すことができました。本当にどんどん変わっていくのは寂しいですね。
私は昭和47年生まれなので、息子さんとは亀小在学時代には何年か被ってる様ですね。(笑)
私が通学していた頃の亀小と桐花中は木造校舎(当時の亀小は1年と6年はコンクリ校舎、2〜5年が木造校舎だったと記憶してます)でしたが、今ではすっかり小綺麗になってしまいました。
通学途中にはバス停毎にペンギンゴミ箱がありましたが、今ではそれも無くなってしまいました。
先のコメントで“私に縁深いバーバーアラキと太陽荘が解体され更地になってしまった”と書き込みましたが、現在セブンイレブンが有る場所にあった亀田病院には、幼少時代に火傷を負い当時住んでた太陽荘から両親が担ぎ込んだと聞いてます(右手甲に今でも大きな火傷痕が残ってます)。
そんな亀田病院も随分前に移転してしまいましまね。
バーバーアラキと太陽荘の向かい側にあったマルニは、私が小学生時代に一時期店の右奥にクレープ屋があってよく買いに行ったものです。
そんなマルニも去年一昨年位に解体され、今では信組になってしまい、隣には商工会議所があったのが今ではジュエリーサザキが入ってるテナントビルになってしまいました。
亀田病院や北口の五差路の所には、私が小学生時代に十字屋フードセンターがありましたが、今では美容院になってしまいました。
嘗て北口の隣にあり、小学生時代夢中になって買ったガンダムのプラモデルを売ってた道南無線センターも、今ではピザの104になってしまいました。
富岡の和合寺傍のダイエーと富岡廉売も無くなり、富岡廉売跡地は酒のロッキーを経て今ではセイコーマートになってしまいました。
私が中・高時代には函館市内各所に大手ゲームメーカー直営のゲーセンが多数あったものですが今では全て閉店してしまい、殆んどが解体されてしまいました。
ボウリング場があったホテルオークランドや五稜郭ジャンプも無くなり、挙げ句に五稜郭ダイエー(旧五稜郭ホリタ)も無くなってしまいました。
私は高校卒業後進学で東京に行き、そこから干支一回り超位東京で生活してましたが、年に数回の里帰りの時ですらそれ程函館はあまり変化を感じなかったのですが、また函館て生活する様になってから、特にこの10年位は何だか劇的に変化してる様に感じるのは私だけでしょうか?
今は未だ富岡温泉センターの建物を見る事が出来ますが、これも何れ解体され更地になってしまう訳で…。
昔は未だフィルムカメラの時代でしたから、現在の様にデジカメやスマホで気軽にパシャパシャ写真を撮れない時代だっただけに、こうして私と縁深い思い出の建物がどんどん無くなっていくのは本当に寂しい限りです…。(´;ω;`)
私は大学卒業と同時に昭和41年から48年まで亀小に勤めていました。
その頃はまだ温泉ではなく「富岡浴場センター」でした。そこに勤めていたボイラーマンのお子さんを受け持ったこともありましたし、このセンターのお嬢さんも隣のクラスにいました。
そのころから知っているだけに、本当に寂しい限りです。
全盛期はあの周りのあちこちに、このセンターの駐車場がありましたが、今ではそこにも建物が建っていますね。
あの辺りで一番変わったと思うのは亀田病院がなくなったことです。
私が亀小で最後に受け持った1年生が今は53歳になっています。星白金TKSさんは文章からすると、それよりお若いようなので、私が亀小を出た後のお子さんだったようですね。
むしろ、やはり亀小に入学した44歳になる私の息子に近いかな?
また、たまにこのブログに遊びに来てください。
私は富岡温泉センターから5分どころか3分掛からない所に住んでます(実家です)。w
富岡温泉センターは私が小学生の頃からあるので、かれこれほぼ40年に近い位の30数年前から知ってます。
小学生時代は同級生とよく行ったものです。
私は勿論の事、あの辺に住む亀小・桐花中の生徒は殆どが温泉センターの前を通って通学していた筈です。
最早当たり前の様に街の景色と完全に一体化してる建物だっただけに、解体により無くなるのは大変悲しい事です。
最近は最近は温泉センターの近隣にあり、太陽の子幼稚園傍あった私と縁深いバーバーアラキと太陽荘も解体されてしまいました。
この先どんどん私の記憶にある思い出が消えてゆくと思うと…。
いつか“この日が来る”と分かってはいても、いざ実際にそうなるとやはり一抹の寂しさを感じてしまうのは、それだけ私も年を取ったと言う事なんでしょうね…。(^_^;)