昨日の夕刊(みなみ風)で、市民交流まちづくりセンターを会場に、函館山にまつわる歴史を語る講座「函館山物語」の開催を知った。今日がその9回目とのこと。講師は、ムックリ横内さんこと、横内輝美さん。膝を悪くし、癌も患って、膝のリハビリに函館山を歩くようになって、函館山の魅力に取りつかれたらしい。
普段は、20名ほどの講座だったそうだが、今日は新聞に出たこともあり、60名くらいに膨れ上がっていた。
今日のテーマは「函館山三十三観音と函館山植物の特性」だった。しかし、初めての参加者が多かったこともあり、「函館山の魅力や素晴らしさ」の紹介から始まった。
再確認したことや新しく知ったことが多かった。それをいくつか列挙しておきたい。
◎函館山の世界に類を見ない特色
①夜景の美しさ
②陸繋島の砂州の上に30万都市
③650種もの植物
◎初めて知ったこと
①箱館の地名の起源は、河野政道の館が箱型だったことに因るという説は間違いで、すでにそのころはハコダテと呼ばれていた。岡田健蔵氏の説によると、函館山の下にあるアイヌのチャシだったエゾダテ山が起源だとのこと。
②高田屋嘉兵衛の江戸幕府による全財産の没収は、幕府の天保の大飢饉対策の資金が必要だったからという説もある。(現在のお金に換算すると20兆円ともいわれる)
③三十三観音設置に当たって、高田屋嘉兵衛が西国三十三観音の土と新しく作った観音を大阪から運んだことになっているが、函館山の三十三観音設置は1832年(天保2年)に起工され、天保5年に完成したと伝えられている。しかし、このときはすでに高田屋嘉兵衛は死亡していて、二代目襲名の弟・金兵衛も、天保4年には闕所(けっしょ)されていて、全財産を幕府に没収されていた。
④要塞になるときに、江戸時代に設置された初代の三十三観音の一、三、三十三番を残して、山麓に降ろし、さらに湯川寺に移設したのは、当時の廃仏毀釈の命を受けた軍により、観音が処分されると思ったからとのこと。一、三番が山に残ったのは、当時すでに陸軍・海軍の建物の敷地になっていて、市民が入れなかったからでははないか。三十三番は当時の称名寺にあったが、たび重なる大火で寺の場所も変わって、不明になったので大正4年に新しく作って、今の称名寺の墓地に設置されたらしい。
◎そのほか印象に残ったこと
①植物学者のマキシモビッチやブラキストンが幕末に函館へやって来たのは、ペリーに随行したモロやハイネの報告書に刺激されたからとのこと。
②これまで当たり前と持っていたエンレイソウ、コジマエンレイソウ、ミヤマエンレイソウ、オオバナノエンレイソウの4種類のエンレイソウが同じ場所で見られるのは全国で函館山だけとのこと。
③327haの面積の函館山に650種もの植物があるのは、密度的にも全国で非常に珍しい。
④そのわけは、南方系と北方系の植物が混じり合って生育しているというこの山の特色と、長い間要塞となっていたことも影響がある。
「函館山物語」の件、了解です。
体力も脳力も衰えず行動する姿に感服の一語です
函館山物語 明日のブログで利用させて下さい
よろしくお願いいたします