おひさしぶりです。
時折 おいで下さっている方々へ
ちっとも更新のされないページで ごめんなさい。
いざ書くとなると、わたしは
わりとまとまった時間&エネルギーを要するほうなのですが、
そのタイミングに ここしばらくは
なかなか恵まれずにいました。
また次はいつ?? という調子ですが、
よかったら たまにのぞいてみて下さい。
9月に入った。
吹く風や 日陰の涼しさは
秋の訪れを感じさせるが、
日中の残暑は まだまだ厳しい。
7月初旬から、心身落ちつかない毎日を過ごしている。
母が、あまり遠くないうちに
心臓の弁置換の手術を要することがわかった。
長年の高血圧も 高脂血症も
近年はうまくコントロールできており、
体重コントロールも まずまず。
本人も 加齢によるものはともかく、
体調がよく 元気に動けているというのが実感だったので
ショックが大きかったよう。
が、
いま現在 もっとも気がかりなのは
父のこと。
病気知らず、病院ぎらいの父に
胃がんが見つかった。
母に手術が必要であることを知らされたその翌日、
胃カメラを受けた父。
2度に渡るカメラの肉眼的所見で
がんです と言われながらも 病理組織診断では
2度ともがん細胞は 見つからず、
(病巣のある場所の何点かからしか組織をとれず、
調べるところが限局的であるため)
入院し、内視鏡的に病巣を採りきっておこなった病理診断で、
はじめて がんが確定診断となった。
この間 約ひと月。
ここで、良性のポリープという結果であったなら、
検査とともに 治療もめでたく終了、
ということになるのだが…
がんと確定されたからには、
あらためて 胃を部分切除することが
根治的治療となるので、
再度入院して 今度は全身麻酔の開腹手術となる。
その日時が決まったのが、
やっと昨日。
そして 手術日までには、
さらに 2週間を待たなければならない。
父の所見は いちおうは早期がんに分類されるが
気になるのは、
筋層には至らないものの、粘膜下層深くに及んでおり
一部 静脈浸潤がみられること。
細胞のタイプと浸潤の深さから
早期がんに入るとはいえ、
転移の可能性は ありうる。
それは、ごく近いうちになのか、
何年も経て なのか、
寿命を迎えるまで 表面化しないでいてくれるのか、
いまの時点では 誰にもわからない。
さらに、
もうひとつ 心配なことには、
開腹手術をするにあたっての
術前検査の一環でおこなった胸部CTで、
気になる影が 見つかった。
とりあえず、
わかっている胃の病気を先に片づけるのがのぞましいとの見解で
肺の精査はそのあとに。
わたしもそう望んでいたので、
ひとまずは ほっとした。
7月と、内視鏡的処置前に撮った8月の
胸部レントゲンには 何も写らなかったのだが…
タバコを長年すっているわりには
きれいな肺だねーと、いつも言われていた父。
CTでこそ、写る程度のものだったのなら、
いまの段階で見つかったことを よかったと考えるべきだろう。
呼吸器科の医師の見立てでは、
悪性のものだとしても
今回の胃とは 別のものだろうということだった。
まだ初期ならば、
肺のほうも 根治がのぞめる。
病気知らず、病院ぎらいの父だが、
医師や わたしの説明をよく前向きに理解して、
体力・気力をたもってくれているのが 救いだ。
けれど、
心臓のこともあり こわがりで不安のつよい母には
できるだけ心配をかけたくないと、
父の希望で
胃の悪性がはっきりしていることも
気になる肺のことも 伏せてある。
ほんとうに大変なこんなときに、
夫婦で かくしごとなく苦しみを分かち合えないのは
つらくないのか、
弱音やぐちを言いたいときだってあるでしょうに。
父にそう言うと、
「そんなことは、自分で こうと思い決めたら、
のみこめる。
それより、いま おかあさんに倒れられたら どうしようもないから」
と言う。
状況の変化のなかで 父の思いが変わってくることも
考えておくつもりだが、
いまのところは 父の希望に沿おうと思う。
父の病状…
けっして希望がないわけではないが、
不明瞭なことが 今は多すぎて、
どの程度 根治に期待が持てるのか、
どの程度 シビアな覚悟が必要なのか わからない。
いまの父の状況に限らないことだが、
最高に幸運な場合と 不運な場合では、
経過(結果)に、天と地ほどのひらきがある。
多くは その中間あたり となるのだろうが、
いろいろな場合を すべて想像できるわたしは、
どうしても 最悪の場合を考えては
気持ちが 不安定になる。
まだまだ、
治療の可能性があるうちは 悲観している場合じゃない
元気を出さなくては と思い直す。
そのときそのとき、
見えてきた現実に対して
いちばんいいと思うことをやっていく。
そのときそのとき、
今やるべきことに集中する。
(仕事でも 家事でも)
が、また次の瞬間には
大きな不安におそわれる。
気持ちをあちこちに揺らしながら、
人間は ひどいと思える状況でも
不思議と 適応できていくしなやかさがあるのだ、
最悪と思えるときは まだ最悪ではないのだ と…
言い聞かせる。
絶望と希望のあいだを 行ったりきたり。
張りつめて、緊張したまま長い時間を過ごしたら、
それをゆるめるように
わっとひとりで泣く。
わたしは なきむしだ。
不安で泣く。さびしくて泣く。つらくて泣く。
くやしくても、うれしくても 感動しても、
なにかというと 泣く。
泣かずにいることは できない。
だけど、
泣くときは ひとり。
意思に反して、
勝手に ひと前で涙が止まらなくなる なんてことが
ありませんように…
いくら泣いてでも、
そのあとは すっくと立てるように、
つよくありたい。
雨風に揺れても折れぬ雑草のように
たくましく、たくましくありたい。
いまは なにより、父と母のために。
1日も早く、いい方向で落ちつくのを祈っている。
父が ひと安心できる状態になるまで、
母にも どうか 心身安定していてもらえますようにと、
願う毎日だ。
わたしが 子宮体がんの手術を受けたのが、
ちょうど10年前の9月。
もう 10年になるのだ。
いまも元気でいられることに 感謝。
おなじ9月、おなじ病院で
今度は 父が手術を受ける。
きっと、順調にいく。
ひさしぶりに書くのに、重い内容でごめんなさい。
みじかくまとめるつもりが、いつものわたしのことで、
やっぱり長文になってしまいました。
でも、やっといまの胸のうちを書くことができました。
読んで下さって ありがとうございます。
ひと息で読めるくらいのものも
書いてみたいものですが…
あ、それが川柳か わたしの場合。
泣いてなどおれぬほんとの一大事 (泣いてるくせに??)
逆境で真価をみせたああ男 (父はやっぱりえらいです)
こんなにも広かったのだ父の傘 (いつもまもられてきました)
年かさね祈ることのみ多くなる (自分の思いやがんばりだけでは
どうにもならないことが ふえてきます)
愚痴よりはいいさと今日もおやじギャグ(でもやっぱり、生きているかぎり前向きに)
ご自分がお仕事柄いろいろな知識があるから、よけいつらいことも多いかと思います。
さくらさんは、ほんとにえらいなあ。
私なら「こっちがヨレヨレなのに、なんでだよっ」とかうらんじゃうかもしれない。(泣)
人前で泣かないというさくらさん、それでももし泣いちゃったら、「泣き虫で(ほんとはそうじゃないけど!)ごめんね~大丈夫だからね~♪」と言って半分笑ってくださいね。
そしたら相手の人もちょっと安心するかも。
こんばんは。 おひさしぶりです。
いつも読んで下さって ありがとうございます。
ひと前では泣かない!
なんて言いながら、泣いてしまうこと
いつもたくさんある気がします。
そうなりそうで、どうしても必要なとき以外は
ついついひとりで ひきこもってしまったり。
すごく大変なときを過ごしても、
あとで 父や母や弟と
「あのときは大変だったけど、
なんとか乗りこえて 今こうしてみんな元気でいられて
よかったね~!」
と、言い合いたいです。
父も母も 老いてはきましたけど、
せめて もうすこしの時間、
安らかな家族のときを過ごしたい
と 願うわたしです。
医療の最前線におられるかたに素人が大丈夫ですよなんて安直に言えないんですが、それでも「大丈夫」な気がするんです。
さくらさんちは素晴らしいご家族ですね。
昔、もしかして私が今のさくらさんくらいの年齢だったかもしれない頃、両親が相次いで入院しました。
私は遠いのを理由に、1度ずつ見舞いに行っただけだったような記憶が・・・(親不孝者)
弟は当時まだ結婚してなくて、オロオロするばかり、父の入院した病院へは見舞いに行かず、母のところへばかり行っていたようです。
なさけねえ分裂家族でした・・・両親ともに無事に退院してよかったです。
また、ナースさんの前ですが、お医者さんが「おかしいな、もっと悪くなって当然なのに、こんなによくなるなんて???」と首をかしげたという人を身近に何人も見ています。(笑)
だから、日記を拝見して、よく読んで感じたのが、「これは大丈夫だな・・・」という感覚でした。
あんまりうまく言えなくてごめんなさいね。
改めて、どうぞみなさまおだいじになさってくださいね。
さくらさん・ご主人・りんちゃんも、ご自愛ください。
あたたかいお言葉が こころに沁みます。
まだ見えないことが多すぎて、
さきの見通しに方向性がつけられないことが
希望ともなり、
また逆に 疑心暗鬼におちいることにもなり…
と、日々揺れうごく自分を 自覚できます。
病に限らず、
一歩さき、明日のことなど
だれにもわからないし、
予測できることなど 知れているのですが
自分の病気のときより こうも不安にさいなまれるとは。
ときには、
科学的根拠とか 医学的知識とか 統計とか
そんなものとは関わりなく
生命力とか 理屈では言えないちからを
信じることも ひとのつよさであり、
希望をみいだしたい思いが そうさせるのでしょう。
そしてまた、
それだけではどうしようもない運命や 寿命や
めぐりあわせがあることもまた 知っています。
むりに安定を望むより
日々ゆれうごくことは
生きているからこそ と 受け容れたほうが
らくになるかもな…
と、最近 感じています。
実家には なるべくまめに顔を出すようにしていますが、
父も母も 気持ちを揺らしつつも
なんとか 元気にやってくれています。
りんは毎日 わたしのそばにいて、
やすらぎとなぐさめを与えてくれています。