勤皇の志士、多田弥太郎

2007年12月02日 | ふるさとの話
                    (浅間峠の多田弥太郎顕彰碑)


今日も、もくもくと案内状配りです。
出石から八鹿に抜ける途中、浅間峠の多田弥太郎顕彰碑を通過する時、昨日の新聞記事を思い出しました。
新聞には、『幕末の討幕運動「生野挙兵」に加わった、但馬出石藩士の多田弥太郎の書簡六通が、豊岡市の旧庄屋宅で発見された』と言う記事です。
さらに、『多田の生き方は坂本龍馬にも似ているが、脱藩後も金銭に困らなかった龍馬に対し、多田は出石藩内での軋轢からお金には苦労していた』と、書簡から伺えると報じています。
昔から多田弥太郎に興味があり、いろいろ調べていましたが、
水戸斉昭公に蝦夷を北海道に改称すべしとか、屯田兵制度を提言したり、
江戸、長崎で学び西洋砲術や海防の重要性を説き、東奔西走の活動は、龍馬に比べられる存在だったようです。
龍馬の死と同じように、最後は生野挙兵の罪で捕らえられ、護送中の浅間峠で斬殺という非業の死を遂げています。
享年39歳、後の世、明治24年に明治政府は忠烈の死を悼み、従四位を与え靖国神社に手厚く合祀したと記されています。
幕末には全国どこにも、国を思う偉い人が大勢いたものだと感心いたします。