連載小説「六連星(むつらぼし)」第29話
「思い出の小道」
俊彦のアパートを出て、少し歩くと、
山裾を周遊しながら市内の最深部へと向かう「山の手通り」が現れます。
そこを横切ると今度は、閑静な住宅地の中を進んでいく生活道路が少しずつですが
進むにつれて登り勾配が強くなってきます。
徐々に狭くなってきた舗装道路は、突きあたりで急に左へ曲がります。
その先に、吾妻山(標高481m)への登山道の基点がある、『吾妻公園』への道が
白く光ってなだらかに現れます。
「見るからに、本格的なランニングスタイルというやつだ。
いつ頃から走りはじめたの」
「中高年向けの、スロージョギングというやつよ。
急ぎ足を、もうワンテンポ早くしたくらいのペースで、
2~3キロ距離を集団で、ワイワイと会話をしながら走るの。
過激に走ると中高年は、足腰に負担がかかり過ぎて、故障の原因にもなるそうよ。
メタボ対策にも有効な、有酸素運動のひとつです。
あなたもすこし、(体型には)気をつけないとねぇ・・・・」
汗ばんだ額へ、清子がタオルを使っています。
なだらかな坂を登り終わると、やがて公園の入り口が現れます。
入り江のような形をしたこの公園は、急峻な山肌にその三方向を囲まれています。
陽だまりとなっている公園は、桜とチューリップの名所としても良く知られています。
市内から近いということもあり、散策をする人の姿も多く見られます。
その中にハイカ―たちの登山着姿が混じって見えるのは、
この公園をスタートラインとする、登山道がほどよく整備をされているためです。
そのひとつ。吾妻山(あずまやま)山頂までの、1時間余りのハイキングコースは、
桐生の市街地はもちろんのこと、遠く埼玉や都心方面まで眺望が利くために
山歩き入門の手軽なトレッキングコースとして、根強い人気を誇っています。
「吾妻(あずま)山へも良く登ったわ、あなたと」
俊彦はまったくそれには思い当たらず、小首をかしげています。
間合いを詰めてきた清子が、タオルを使いながらそんな俊彦を怖い目で睨みます。
いくら見つめられても俊彦には、何故か、その時の記憶が有りません・・・・
清子の香り、『金木犀(きんもくせい)』が、さらに急接近をしてきました。
「貴方の事だから、まったく記憶にもないし、思い出すこともできないんでしょ。
もっとも・・・・あれから30年も経てば、
どうでもいい中学時代のささいな出来事なんか、ほとんど忘れてしまっているわよねぇ。
この道からいつも登り始めて、吾妻山の頂上までを何度も往復をしました。
途中で夕立に降られた時は、貴方と肩を寄せ合って
大きな木の下で、ドキドキしながら止むまで雨宿りもしました。
坂道でわざと足を滑らせて、転んだふりをして、
あなたに、キス寸前まで迫ったことも有ったのよ・・・覚えていないの?
いやだわ・・・・貴方たら。
本当になんにも覚えていないんだ。
けなげな乙女が、あんなに頑張って、いろいろとあなたに仕掛けたと言うのに、
あなたったら、なんにも感じてくれなかったんだ、結局。
いやになっちゃっうわねぇ」
「意外にも、君の胸のふくらみがふくよかだった、ということなら、
かすかにだが・・・・身に覚えがある」
「なんだあ・・・・ほら、やっぱり覚えていた。
そういえば、卒業式の日にみんなで此処へやってきて、歌を唄いながら
哲学の小路を何周も歩いたことも有ったのよ。
カップル達が次々に消えてしまって、
気が付いたら、残っていたのは、私たちの二人だけだった。
なんであの時も、口説いてくれなかったんだろう・・・・」
哲学の小路と言うのは、谷底に有る公園を見下ろして、
山の中腹を巡りながら散策することができる、よく整備された小路のことです。
特に茅葺(かやぶき)の小屋が有る周辺では、季節になると山吹の花などが群生をします。
そこの木立ち越しから見下ろす、花菖蒲畑(はなしょうぶ)の湿地は実に絶景です。
花が満開となると、恋人たちが好んで立ち止まる絶好のポイントに変わります。
俊彦がそこへ至る、急峻な坂道への進路をとりました。
急すぎる斜面のために、小路には等間隔に丸太が階段状に設置をされています。
谷側にだけ、転落防止用の手すりなども設けられています。
「ねぇ・・・」清子が、立ち止まると、早くも白い指先を伸ばしてきました。
途中まで登りかけていた俊彦が、苦笑いをしたまま戻ってきます。
「中高年になると、デートにも色気が欠けてくる。
腕を組むならまだしも、急すぎるから手を引いてくれとは、実に、情けない」
「お姫様抱っこでも、かまいませんよ。私は」
「重すぎるだろう。今のお前さんでは・・・・」
「失礼しちゃうわねぇ。
脂肪はたくさん増えましたが、体重はそれほどには増えていません。
うっふふふ・・・・
ほんとだ。これでは色気が足りません。
長年の恋心も冷凍庫のように、急速に冷めてしまいます。ねぇ、あなた」
急な坂道の中腹に、ちょっとした空間が造られています。
一息入れるのに、ちょうど適した広さです。
ここからは、木立ち越しに今登ってきたばかりの茅葺の屋根や、
細長く谷底に横たわる吾妻公園の全容を、そのまま眼下に見下ろすことが出来ます。
大きく深呼吸を入れた清子は、荒い息のままタオルで額の汗をぬぐい続けています。
しかしもう一方の手は、俊彦の右手をしっかりと握ったまま、いつまでたっても離そうとしません。
その手のひらも、こころもち汗ばんできたようです。
「私は15の時に、芸者になろうと決めました。
中学の修学旅行の時に、日光の東照宮へ行ったでしょ。
あの時に見た、芸妓さんたちの姿があまりにも衝撃的すぎたの。
『ああ・・・こういう生き方も有るんだ。着物姿も素敵!」そう思った瞬間、
矢も楯もたまらなくなって、もう、なにがなんでも芸者になると決意していたわ。
いま考えても、やっぱり変な話よねぇ。
15歳で見境もなく、綺麗なお化粧と、素敵な着物にあこがれただけで、
それだけで、自分の人生をあっという間に決めてしまうんだもの。
やっぱり・・・・頭が悪いんだ、私は」
「同級生は、全部で200人以上いたが、
中卒で就職を決めたのは、君を含めても、せいぜい30人くらいだったかな・・・・
経済的にも学力的にも、高校進学をするために、君には何一つ問題はなかったはずだ。
突然、芸者になると言いはじめて、止める暇もなく、卒業と同時に
君は湯西川へ行ってしまった。
あの時代のあの時、君の決意はかなり衝撃的な出来事のひとつだ。
7不思議の一つだと言って、同級生たちも長い間、大騒ぎをしたもんだ。
でもさぁ、本当のところはどうなんだ。
なにか芸者になる、別の特別な理由でもあったのかい?」
「あなたが中学時代に、私を口説いてくれなかったせいよ」
「いまさら、悪い冗談はよせ。」
俊彦も、ゆるやかに握られた指を離すことができません。
さらに上へ登っていくための道を、俊彦が上方を見上げながら確認をしています。
市内一帯を見下ろすことが出来るもうひとつの高台へ進むためです。
水道山公園と呼ばれているその山頂方向は、巨大な杉が林立をしている
この中腹の休憩スペースからでは、残念ながら見ることはできません。
さらに、つずらに何度か折り曲がりながら、目の目にある斜面を登りきらないと、
この巨大な杉の林からも、抜け出すことは出来ません。
(じゃあ、行くか)身体の向きを変えた俊彦が、山頂に向かって歩き出しまました。
その瞬間に、なにげなく離れかけた二人の指先を、清子が新しい力を入れて、
再び握り返してきました。
「ねぇ・・・・ひとつだけ、あなたに聞いてもいいかしら?
なんであなたは、一番最初の板前修業の場所を、湯西川の伴久ホテルに決めたの。
他に、有名なホテルでも、料理自慢の割烹旅館でも、あなたが希望さえすれば、
いくらでも学校で紹介をしてもらえたはずだわ。
なんで、栃木県の田舎の鄙びた隠れ宿なんかを、わざわざ選んだの。
なんで、よりによって私の居る湯西川を指名したわけ?」
「君が、そこにいたからさ。・・・・といえば満点かな。
何故だろう。俺が湯西川を、最初の修業の場所に選んだわけは。
よくは解らないが、やっぱり君がそこに居たせいなのかなぁ・・・・」
「なんだかなぁ・・・・
全部、上手く話を、はぐらかされているような気がしちゃう。
何を聞いても、全然、会話になっていないわよ、あんた。
本当のことを、そろそろ白状をしてくれないと、私たちは一生このままで、
平行線のレ―ルのままだわ」
「なんだ、それは?」
「いつまで経っても並行のままで、決して交わらないと言う意味です」
「なるほど・・・・意味深だぁ」
汗ばんできたお互いの手の中で、清子が指先に力を込めてきました。
俊彦もそれに応えて、清子の指を軽く握り返します。
(30)へつづく
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
・新作の連載小説は、こちら
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (62)ガスは谷底から湧いてくる
http://novelist.jp/62990_p1.html
(1)は、こちらからどうぞ
http://novelist.jp/61553_p1.htm
「思い出の小道」
俊彦のアパートを出て、少し歩くと、
山裾を周遊しながら市内の最深部へと向かう「山の手通り」が現れます。
そこを横切ると今度は、閑静な住宅地の中を進んでいく生活道路が少しずつですが
進むにつれて登り勾配が強くなってきます。
徐々に狭くなってきた舗装道路は、突きあたりで急に左へ曲がります。
その先に、吾妻山(標高481m)への登山道の基点がある、『吾妻公園』への道が
白く光ってなだらかに現れます。
「見るからに、本格的なランニングスタイルというやつだ。
いつ頃から走りはじめたの」
「中高年向けの、スロージョギングというやつよ。
急ぎ足を、もうワンテンポ早くしたくらいのペースで、
2~3キロ距離を集団で、ワイワイと会話をしながら走るの。
過激に走ると中高年は、足腰に負担がかかり過ぎて、故障の原因にもなるそうよ。
メタボ対策にも有効な、有酸素運動のひとつです。
あなたもすこし、(体型には)気をつけないとねぇ・・・・」
汗ばんだ額へ、清子がタオルを使っています。
なだらかな坂を登り終わると、やがて公園の入り口が現れます。
入り江のような形をしたこの公園は、急峻な山肌にその三方向を囲まれています。
陽だまりとなっている公園は、桜とチューリップの名所としても良く知られています。
市内から近いということもあり、散策をする人の姿も多く見られます。
その中にハイカ―たちの登山着姿が混じって見えるのは、
この公園をスタートラインとする、登山道がほどよく整備をされているためです。
そのひとつ。吾妻山(あずまやま)山頂までの、1時間余りのハイキングコースは、
桐生の市街地はもちろんのこと、遠く埼玉や都心方面まで眺望が利くために
山歩き入門の手軽なトレッキングコースとして、根強い人気を誇っています。
「吾妻(あずま)山へも良く登ったわ、あなたと」
俊彦はまったくそれには思い当たらず、小首をかしげています。
間合いを詰めてきた清子が、タオルを使いながらそんな俊彦を怖い目で睨みます。
いくら見つめられても俊彦には、何故か、その時の記憶が有りません・・・・
清子の香り、『金木犀(きんもくせい)』が、さらに急接近をしてきました。
「貴方の事だから、まったく記憶にもないし、思い出すこともできないんでしょ。
もっとも・・・・あれから30年も経てば、
どうでもいい中学時代のささいな出来事なんか、ほとんど忘れてしまっているわよねぇ。
この道からいつも登り始めて、吾妻山の頂上までを何度も往復をしました。
途中で夕立に降られた時は、貴方と肩を寄せ合って
大きな木の下で、ドキドキしながら止むまで雨宿りもしました。
坂道でわざと足を滑らせて、転んだふりをして、
あなたに、キス寸前まで迫ったことも有ったのよ・・・覚えていないの?
いやだわ・・・・貴方たら。
本当になんにも覚えていないんだ。
けなげな乙女が、あんなに頑張って、いろいろとあなたに仕掛けたと言うのに、
あなたったら、なんにも感じてくれなかったんだ、結局。
いやになっちゃっうわねぇ」
「意外にも、君の胸のふくらみがふくよかだった、ということなら、
かすかにだが・・・・身に覚えがある」
「なんだあ・・・・ほら、やっぱり覚えていた。
そういえば、卒業式の日にみんなで此処へやってきて、歌を唄いながら
哲学の小路を何周も歩いたことも有ったのよ。
カップル達が次々に消えてしまって、
気が付いたら、残っていたのは、私たちの二人だけだった。
なんであの時も、口説いてくれなかったんだろう・・・・」
哲学の小路と言うのは、谷底に有る公園を見下ろして、
山の中腹を巡りながら散策することができる、よく整備された小路のことです。
特に茅葺(かやぶき)の小屋が有る周辺では、季節になると山吹の花などが群生をします。
そこの木立ち越しから見下ろす、花菖蒲畑(はなしょうぶ)の湿地は実に絶景です。
花が満開となると、恋人たちが好んで立ち止まる絶好のポイントに変わります。
俊彦がそこへ至る、急峻な坂道への進路をとりました。
急すぎる斜面のために、小路には等間隔に丸太が階段状に設置をされています。
谷側にだけ、転落防止用の手すりなども設けられています。
「ねぇ・・・」清子が、立ち止まると、早くも白い指先を伸ばしてきました。
途中まで登りかけていた俊彦が、苦笑いをしたまま戻ってきます。
「中高年になると、デートにも色気が欠けてくる。
腕を組むならまだしも、急すぎるから手を引いてくれとは、実に、情けない」
「お姫様抱っこでも、かまいませんよ。私は」
「重すぎるだろう。今のお前さんでは・・・・」
「失礼しちゃうわねぇ。
脂肪はたくさん増えましたが、体重はそれほどには増えていません。
うっふふふ・・・・
ほんとだ。これでは色気が足りません。
長年の恋心も冷凍庫のように、急速に冷めてしまいます。ねぇ、あなた」
急な坂道の中腹に、ちょっとした空間が造られています。
一息入れるのに、ちょうど適した広さです。
ここからは、木立ち越しに今登ってきたばかりの茅葺の屋根や、
細長く谷底に横たわる吾妻公園の全容を、そのまま眼下に見下ろすことが出来ます。
大きく深呼吸を入れた清子は、荒い息のままタオルで額の汗をぬぐい続けています。
しかしもう一方の手は、俊彦の右手をしっかりと握ったまま、いつまでたっても離そうとしません。
その手のひらも、こころもち汗ばんできたようです。
「私は15の時に、芸者になろうと決めました。
中学の修学旅行の時に、日光の東照宮へ行ったでしょ。
あの時に見た、芸妓さんたちの姿があまりにも衝撃的すぎたの。
『ああ・・・こういう生き方も有るんだ。着物姿も素敵!」そう思った瞬間、
矢も楯もたまらなくなって、もう、なにがなんでも芸者になると決意していたわ。
いま考えても、やっぱり変な話よねぇ。
15歳で見境もなく、綺麗なお化粧と、素敵な着物にあこがれただけで、
それだけで、自分の人生をあっという間に決めてしまうんだもの。
やっぱり・・・・頭が悪いんだ、私は」
「同級生は、全部で200人以上いたが、
中卒で就職を決めたのは、君を含めても、せいぜい30人くらいだったかな・・・・
経済的にも学力的にも、高校進学をするために、君には何一つ問題はなかったはずだ。
突然、芸者になると言いはじめて、止める暇もなく、卒業と同時に
君は湯西川へ行ってしまった。
あの時代のあの時、君の決意はかなり衝撃的な出来事のひとつだ。
7不思議の一つだと言って、同級生たちも長い間、大騒ぎをしたもんだ。
でもさぁ、本当のところはどうなんだ。
なにか芸者になる、別の特別な理由でもあったのかい?」
「あなたが中学時代に、私を口説いてくれなかったせいよ」
「いまさら、悪い冗談はよせ。」
俊彦も、ゆるやかに握られた指を離すことができません。
さらに上へ登っていくための道を、俊彦が上方を見上げながら確認をしています。
市内一帯を見下ろすことが出来るもうひとつの高台へ進むためです。
水道山公園と呼ばれているその山頂方向は、巨大な杉が林立をしている
この中腹の休憩スペースからでは、残念ながら見ることはできません。
さらに、つずらに何度か折り曲がりながら、目の目にある斜面を登りきらないと、
この巨大な杉の林からも、抜け出すことは出来ません。
(じゃあ、行くか)身体の向きを変えた俊彦が、山頂に向かって歩き出しまました。
その瞬間に、なにげなく離れかけた二人の指先を、清子が新しい力を入れて、
再び握り返してきました。
「ねぇ・・・・ひとつだけ、あなたに聞いてもいいかしら?
なんであなたは、一番最初の板前修業の場所を、湯西川の伴久ホテルに決めたの。
他に、有名なホテルでも、料理自慢の割烹旅館でも、あなたが希望さえすれば、
いくらでも学校で紹介をしてもらえたはずだわ。
なんで、栃木県の田舎の鄙びた隠れ宿なんかを、わざわざ選んだの。
なんで、よりによって私の居る湯西川を指名したわけ?」
「君が、そこにいたからさ。・・・・といえば満点かな。
何故だろう。俺が湯西川を、最初の修業の場所に選んだわけは。
よくは解らないが、やっぱり君がそこに居たせいなのかなぁ・・・・」
「なんだかなぁ・・・・
全部、上手く話を、はぐらかされているような気がしちゃう。
何を聞いても、全然、会話になっていないわよ、あんた。
本当のことを、そろそろ白状をしてくれないと、私たちは一生このままで、
平行線のレ―ルのままだわ」
「なんだ、それは?」
「いつまで経っても並行のままで、決して交わらないと言う意味です」
「なるほど・・・・意味深だぁ」
汗ばんできたお互いの手の中で、清子が指先に力を込めてきました。
俊彦もそれに応えて、清子の指を軽く握り返します。
(30)へつづく
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
・新作の連載小説は、こちら
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (62)ガスは谷底から湧いてくる
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(1)は、こちらからどうぞ
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