連載小説「六連星(むつらぼし)」第37話
「日和山公園の周辺で」
河口近くに迫った旧・北上川の流れは、日和山公園の稜線を
大きく回り込み蛇行をしてから、やがて海へ向かって流れ込んでいきます。
日和山は高さが56メートルあまりある丘陵地で、石巻市民には
古くから桜の名所として親しまれてきました。
すぐ近くには石巻専修大の広大なキャンパスが広がっています。
こちらでは震災発生の直後から多くのボランティアたちが、
此処へテントを張って泊まり込み、復興支援で、たくさんの汗を流しました。
その横に有るのが石巻市総合運動公園で、大規模な自衛隊の拠点として機能をしました。
3月11日のあの日。
海側のエリアに暮らしていた住民たちは、津波を避けるために、
この日和山の山頂に避難をしました。
おおくの人たちがこの山頂から、家々が押し流されていく
あの信じられない光景を、なす術もなく目の当たりに目撃をしています。
3.11の津波の衝撃を伝える映像として、繰り返し何度も流された映像のひとつで
まだ、私たちの記憶に鮮明に残されている地点の一つです。
かつて松尾芭蕉も訪れたこともあるという、
この日和山は、石巻市内を一望できる場所としても知られています。
眼下を流れる旧北上川の河口からは、広々と太平洋が広がり、天気が良い日には、
牡鹿半島の他、遠く松島や蔵王の山々までを見ることができます。
響と英治は、旧・北上川沿いを南に向かって歩き、
日和山の南側の斜面が、ちょうど途切れるあたりまでやってきました。
急に二人の前方で、視界がひらけました・・・・
遮るものが一切なくなってしまった前方には、大地に砂が入り混じり、
建物の基礎部分だけを残して、あとは海に至るまでただ雑草のみがはびこっている
見事に荒れ果てた野原だけがひろがっています。
一年前までは多くの住宅が建ち、多くのひとびとが住んでいた地が
今は、まったくその面影のかけらさえも残していません。
大津波以が通過した後、大地を覆い尽くして山積みとなったあの瓦礫は、いまは
すっかりと片付けられたものの、どこを見ても人の姿は見当たりません。
被災をした建物たちもはすでにすべてが解体をされて、コンクリートの基礎だけが
荒れるに任せて、荒涼とした大地に横たわっています。
日和山の南側は、どこまでも海に向かた低地がひろがっていました。
もう、ここから海までは、遮るものは何ひとつとしてありません。
あの日の大津波は直接ここを襲い、すべての建物と生活を根こそぎ破壊をしてしまいました。
信号機や標識の類は、根元からねじまがったまま倒壊をしています。
コンクリート製の電柱もぽっきりと折れ、鉄筋をむき出しにしたまま
もろくもそのままの形で大地に横たわっています。
巨大な石巻市民病院の建物が、大破をしたそのままの姿で残されていました
空き地には雑草が生え放題で、駐車場も荒れたままの姿です。
隣地の一部が大きく陥没していて、そこには錆びた赤茶色の水が
まるで溜まり池のように広がっていました。
「英治・・・・瓦礫が撤去されているだけで、
ここに見える景色は、まったく3.11のあの日のままじゃないの・・・・
哀しすぎる光景だわ私には。あまりにもリアルすぎて」
「あの山頂、日和山からの津波の映像は、テレビで何度も放映された。
あの日の濁流も、がれきたちも、今はすっかりと片付けられたが、
被災者たちは、仮設住宅でクギづけにされたままだし、いまだに身動きがとれない。
被災地はどこも手つかずで、こうして放置されたままさ」
響が、英治の右手にしっかりとすがりつきます。
ピタリと身体も押しつけて、思わず歩調も合わせて歩きはじめました。
前方の一角に、被災したクルマがうずたかく積み上げられています。
横転をしたままの救急車などもあり、多くが海から引き揚げられてきた車たちでした。
それぞれの車体には、引きあげた日時がきちんと書き込まれています。
良く見ると、震災当日から半年以上もたった日付が書きこまれた車体も有ります。
地味でつらい仕事を、誰かがこつこつとおこなってきたことの証(あかし)が、
しっかりとそれぞれの車体に刻み込まれているのです・・・・
あらためてそのことを知らされた気がして、思わず響が立ち止まりました。
屋根がもげている車や、窓ガラスが割れている車もあります。
黒焦げになっていたり、ぺしゃんこにつぶれている車が何台も置かれています。
いちばん端には、やはり被災したスバル360が一台だけ、ぽつんと脇に置かれていました。
遠くの工場の煙突から、
白い煙だか水蒸気だか良くわからないものが、猛然と吐きだされているのが見えます。
固く唇を噛んだままの響が、英治の背中へ顔を寄せながら、錆びた大地と
埃だけが振り積もっているかつての生活道路に、小さな足跡だけを残していきます。
寄り添いあった英治と響の二人が、その先で、車が頻繁に行き交う幹線道路へ出ました。
ホテルへ戻る道を目で探しながら、英治がそこから北へ向かって進路をとります。
ふたたび日和山のほうへ向かって戻るような格好となり、
ここからは、ホテルへの帰りの道がはじまります。
道路は応急的に盛り土して、そこにアスファルトを敷いただけという、
きわめて簡易な作り方をしています。
急場の道路は車両の通行を最優先したために、歩行者のことなどは、
一切考えられておらず、歩道などは、まったく整備がされていません。
埃を巻き上げて通過をしていく車両たちの邪魔にならないように、
わずかに残された、路肩の砂利の上を歩いていくしか歩行者には方法が有りません。
道の両側がいずこも低くなっていて、そのほとんどが水溜まりに変わっています。
海岸近くのこの土地は、沈降しているような雰囲気を如実に漂よわせています。
どうやらこの一帯は、ぎりぎりに辛うじて、海面と同じ高さを保っているような気配です。
響と英治が、日和山の南斜面の直下へ着きました。
二人の正面には、鉄筋コンクリートの四角い建物が残っていました。
小学校の校舎として、あの日まで使われていた建物です。
3階まである建物のガラスは全て破れていて、そのまま被害の甚大さを物語っています。
そればかりか、校舎の全体がすべて黒く煤けています。
津波の後から発生をした、がれきからの火災によってさらに被害にあった様子です。
「英治。墓地が見える・・・・学校の、すぐ裏手に」
響が指さす先に、校舎の東側に沿ってその墓地が見えました。
見渡す限りの墓地では、多くの墓石が倒壊をしています。
その一部だけが整理をされていて、いくつかの石塔が綺麗に並び始めています。
その墓地のなかほどでは、黄色いヘルメットに蛍光色のジャンパーを着たひと達が、
ひたすら黙々と作業をして居る姿が見えました。
復旧支援へ感謝する言葉が大きく書かれた看板が、道路に沿って立っています。
良く見ると、その向こう側には、お寺の本堂と思われる
ひしゃげた大きな屋根だけが残っていました。
3月11日の地震と津波によって、徹底的に日常が
破壊されたように見えるこの光景のなかにも、復興の気配は芽生え始めています。
朝の光が溢れて来るにつけて、あちこちに人の動く様子が増えてきました。
被災地に再び日常が戻りつつある様子が、にわかに色濃くなってきます・・・・
墓地の奧の少し高くなったところに、フェンスで囲われたテニスコートが見えてきました。
箒を手にして、ゆっくりと丁寧に整地作業をしている人影が見えます。
その先のも小路に犬をつれたおじさんが、小走りに散歩をしく様子が見えました。
大破した建物の隣では、床屋さんが営業を始めています。
赤青白のサインポールがくるくると回転をして、その窓ガラスには、
朝日を受けて、びっしりとついた露がキラキラと光り始めました。
「もう帰ろう、響。身体が冷え切る。」
駅の方角をめざしていた金髪の英治が、その手前にあるホテルへの道を指さしました。
駅に近づくにつれて住宅が建ちならび、人の姿も多くなってきます。
途中で通過をしたもうひとつの小学校では、子どもたちが校庭で駆けまわっていました。
さきほどの被災した場所からは、ほんの数百メートルしか離れていない地点です。
たまたま日和山の陰になっていたために、地震による被害は受けたものの、
津波は、ここまでは到達をしなかったようです。
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
・連載中の新作小説は、こちらです
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (70)たまとオコジョ
http://novelist.jp/63130_p1.html
(1)は、こちらからどうぞ
http://novelist.jp/61553_p1.html
「日和山公園の周辺で」
河口近くに迫った旧・北上川の流れは、日和山公園の稜線を
大きく回り込み蛇行をしてから、やがて海へ向かって流れ込んでいきます。
日和山は高さが56メートルあまりある丘陵地で、石巻市民には
古くから桜の名所として親しまれてきました。
すぐ近くには石巻専修大の広大なキャンパスが広がっています。
こちらでは震災発生の直後から多くのボランティアたちが、
此処へテントを張って泊まり込み、復興支援で、たくさんの汗を流しました。
その横に有るのが石巻市総合運動公園で、大規模な自衛隊の拠点として機能をしました。
3月11日のあの日。
海側のエリアに暮らしていた住民たちは、津波を避けるために、
この日和山の山頂に避難をしました。
おおくの人たちがこの山頂から、家々が押し流されていく
あの信じられない光景を、なす術もなく目の当たりに目撃をしています。
3.11の津波の衝撃を伝える映像として、繰り返し何度も流された映像のひとつで
まだ、私たちの記憶に鮮明に残されている地点の一つです。
かつて松尾芭蕉も訪れたこともあるという、
この日和山は、石巻市内を一望できる場所としても知られています。
眼下を流れる旧北上川の河口からは、広々と太平洋が広がり、天気が良い日には、
牡鹿半島の他、遠く松島や蔵王の山々までを見ることができます。
響と英治は、旧・北上川沿いを南に向かって歩き、
日和山の南側の斜面が、ちょうど途切れるあたりまでやってきました。
急に二人の前方で、視界がひらけました・・・・
遮るものが一切なくなってしまった前方には、大地に砂が入り混じり、
建物の基礎部分だけを残して、あとは海に至るまでただ雑草のみがはびこっている
見事に荒れ果てた野原だけがひろがっています。
一年前までは多くの住宅が建ち、多くのひとびとが住んでいた地が
今は、まったくその面影のかけらさえも残していません。
大津波以が通過した後、大地を覆い尽くして山積みとなったあの瓦礫は、いまは
すっかりと片付けられたものの、どこを見ても人の姿は見当たりません。
被災をした建物たちもはすでにすべてが解体をされて、コンクリートの基礎だけが
荒れるに任せて、荒涼とした大地に横たわっています。
日和山の南側は、どこまでも海に向かた低地がひろがっていました。
もう、ここから海までは、遮るものは何ひとつとしてありません。
あの日の大津波は直接ここを襲い、すべての建物と生活を根こそぎ破壊をしてしまいました。
信号機や標識の類は、根元からねじまがったまま倒壊をしています。
コンクリート製の電柱もぽっきりと折れ、鉄筋をむき出しにしたまま
もろくもそのままの形で大地に横たわっています。
巨大な石巻市民病院の建物が、大破をしたそのままの姿で残されていました
空き地には雑草が生え放題で、駐車場も荒れたままの姿です。
隣地の一部が大きく陥没していて、そこには錆びた赤茶色の水が
まるで溜まり池のように広がっていました。
「英治・・・・瓦礫が撤去されているだけで、
ここに見える景色は、まったく3.11のあの日のままじゃないの・・・・
哀しすぎる光景だわ私には。あまりにもリアルすぎて」
「あの山頂、日和山からの津波の映像は、テレビで何度も放映された。
あの日の濁流も、がれきたちも、今はすっかりと片付けられたが、
被災者たちは、仮設住宅でクギづけにされたままだし、いまだに身動きがとれない。
被災地はどこも手つかずで、こうして放置されたままさ」
響が、英治の右手にしっかりとすがりつきます。
ピタリと身体も押しつけて、思わず歩調も合わせて歩きはじめました。
前方の一角に、被災したクルマがうずたかく積み上げられています。
横転をしたままの救急車などもあり、多くが海から引き揚げられてきた車たちでした。
それぞれの車体には、引きあげた日時がきちんと書き込まれています。
良く見ると、震災当日から半年以上もたった日付が書きこまれた車体も有ります。
地味でつらい仕事を、誰かがこつこつとおこなってきたことの証(あかし)が、
しっかりとそれぞれの車体に刻み込まれているのです・・・・
あらためてそのことを知らされた気がして、思わず響が立ち止まりました。
屋根がもげている車や、窓ガラスが割れている車もあります。
黒焦げになっていたり、ぺしゃんこにつぶれている車が何台も置かれています。
いちばん端には、やはり被災したスバル360が一台だけ、ぽつんと脇に置かれていました。
遠くの工場の煙突から、
白い煙だか水蒸気だか良くわからないものが、猛然と吐きだされているのが見えます。
固く唇を噛んだままの響が、英治の背中へ顔を寄せながら、錆びた大地と
埃だけが振り積もっているかつての生活道路に、小さな足跡だけを残していきます。
寄り添いあった英治と響の二人が、その先で、車が頻繁に行き交う幹線道路へ出ました。
ホテルへ戻る道を目で探しながら、英治がそこから北へ向かって進路をとります。
ふたたび日和山のほうへ向かって戻るような格好となり、
ここからは、ホテルへの帰りの道がはじまります。
道路は応急的に盛り土して、そこにアスファルトを敷いただけという、
きわめて簡易な作り方をしています。
急場の道路は車両の通行を最優先したために、歩行者のことなどは、
一切考えられておらず、歩道などは、まったく整備がされていません。
埃を巻き上げて通過をしていく車両たちの邪魔にならないように、
わずかに残された、路肩の砂利の上を歩いていくしか歩行者には方法が有りません。
道の両側がいずこも低くなっていて、そのほとんどが水溜まりに変わっています。
海岸近くのこの土地は、沈降しているような雰囲気を如実に漂よわせています。
どうやらこの一帯は、ぎりぎりに辛うじて、海面と同じ高さを保っているような気配です。
響と英治が、日和山の南斜面の直下へ着きました。
二人の正面には、鉄筋コンクリートの四角い建物が残っていました。
小学校の校舎として、あの日まで使われていた建物です。
3階まである建物のガラスは全て破れていて、そのまま被害の甚大さを物語っています。
そればかりか、校舎の全体がすべて黒く煤けています。
津波の後から発生をした、がれきからの火災によってさらに被害にあった様子です。
「英治。墓地が見える・・・・学校の、すぐ裏手に」
響が指さす先に、校舎の東側に沿ってその墓地が見えました。
見渡す限りの墓地では、多くの墓石が倒壊をしています。
その一部だけが整理をされていて、いくつかの石塔が綺麗に並び始めています。
その墓地のなかほどでは、黄色いヘルメットに蛍光色のジャンパーを着たひと達が、
ひたすら黙々と作業をして居る姿が見えました。
復旧支援へ感謝する言葉が大きく書かれた看板が、道路に沿って立っています。
良く見ると、その向こう側には、お寺の本堂と思われる
ひしゃげた大きな屋根だけが残っていました。
3月11日の地震と津波によって、徹底的に日常が
破壊されたように見えるこの光景のなかにも、復興の気配は芽生え始めています。
朝の光が溢れて来るにつけて、あちこちに人の動く様子が増えてきました。
被災地に再び日常が戻りつつある様子が、にわかに色濃くなってきます・・・・
墓地の奧の少し高くなったところに、フェンスで囲われたテニスコートが見えてきました。
箒を手にして、ゆっくりと丁寧に整地作業をしている人影が見えます。
その先のも小路に犬をつれたおじさんが、小走りに散歩をしく様子が見えました。
大破した建物の隣では、床屋さんが営業を始めています。
赤青白のサインポールがくるくると回転をして、その窓ガラスには、
朝日を受けて、びっしりとついた露がキラキラと光り始めました。
「もう帰ろう、響。身体が冷え切る。」
駅の方角をめざしていた金髪の英治が、その手前にあるホテルへの道を指さしました。
駅に近づくにつれて住宅が建ちならび、人の姿も多くなってきます。
途中で通過をしたもうひとつの小学校では、子どもたちが校庭で駆けまわっていました。
さきほどの被災した場所からは、ほんの数百メートルしか離れていない地点です。
たまたま日和山の陰になっていたために、地震による被害は受けたものの、
津波は、ここまでは到達をしなかったようです。
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (70)たまとオコジョ
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