落合順平 作品集

現代小説の部屋。

「レイコの青春」(20)  レイコの覚書(6)通信制の養成学校

2012-07-26 10:07:42 | 現代小説
(続)アイラブ桐生・「レイコの青春」(20)
レイコの覚書(6)通信制の養成学校




 保母さんの資格を取得するためには、幾つかの方法があります。
(男女雇用均等法が実現した今日では、名称は『保育士』と呼ばれています)


児童福祉法施行令によると、

1、「厚生労働大臣の指定する保育士を養成する学校その他の施設を卒業した者」

2、「保育士試験に合格した者」となっています。



 レイコは仕事を持っていましたので、
養成学校へ通うのは、時間的にも場所的にも困難があります。
そこでまず最初に考えたのが、独学で保育士の国家試験に合格することでした。


 しかし、その道はそれほど簡単ではありません。
まず全て自分で参考書を揃え、学習の計画を立てなければなりません。
それでも保母の国家試験のハードルは非常に高いものがあり、
毎年一度で合格している人の合格率は、わずか10%前後です。
レイコは、保育士資格を確実に取得できる道として、
大学か短大が運営する通信教育が最適と考えました。
こうして保育士資格が取得できる大学の通信教育部へ入学することを決めました。




 通信教育も、大きく2つにわかれています。


「国家試験を受けなければならない通信講座」と、
「卒業と同時に資格取得できる厚生労働大臣指定の養成学校」の2つです。


 通信講座で資格を取るためには、国家試験を受けなければなりませんが、
養成学校は、すべての単位を取得することで、卒業時には保母の資格がもらえます。

 ちなみに保育士の国家試験での合格率は、約10%台と低いのですが、
一度合格した科目に関しては、3年間が有効期間となります。
3年以内に、保育士試験の全ての科目で合格すれば資格が取得できるという仕組みです。
これが、「通信講座」と「短大・大学の通信教育部による通信教育」
による大きな違いです。



 ただし、通学制の短大の場合なら、
ほぼ2年間で取得が可能な保育士資格と幼稚園教諭2種免許ですが、
通信教育部では、最短でも3年間がかかってしまいます。
しかし、それでも心配は無用です。
通信制の卒業期限は「6年」と定められています。



 学校から郵送されてきたテキストを学習し、
レポートを作成して合格をすると、次は科目終末試験と呼ばれるテストを受験します。


 大学や短大での通信教育の場合は、
テストは自分で申し込んで受験するという方式をとっています。
したがって、レポートが合格しても試験の申込みをうっかり忘れてしまうと
テストが受けられず、科目を履修することができなくなってしまいます。
 そうなると、単位を取得するのが長引いてしまい、
予定していた時期に、卒業することが出来なくなります。



 科目終末試験は、
全国の指定された地区の試験会場で行われます。
試験会場となるのは受講している学校や、福祉センターや
市民センターなどにある、大きな会議室などが使われています。


 試験の時間は一科目が、50分程度です。
大学によっては、一度に合計4科目受験することも可能です。
試験官は、ほとんどが学校の先生ですが、
卒業生OBがボランティアをしている会場などもあります。




 OBの中には、保育関係の仕事を持っている者や、
知り合いに園長先生や保育士、幼稚園教諭などがいる場合などもあります。
年配のOBでは、娘が保育士や幼稚園の先生をしているという者もいます。
このような出あいがきっかけで、保育の実習先が決まったり、
保育園を見学したり、就職先を見つけるなどの意外な展開が
待っている可能性などもあるようです。



しかし、予想通りに、最大の難関が
通信教育を始めたばかりのレイコの前に立ちふさがりました。
「ピアノ」です。
保育士資格を始め、幼稚園教諭免許、小学校教諭免許などの取得には
ピアノを弾けることが求められています。
保育士資格を取得できる大学や短大でも、ピアノの単位取得は必須です。
学校からは、ピアノ学習のための教科書、例えば「音楽Ⅰ」とか
「音楽Ⅱ」といったようなものが郵送されて届きます。



 音楽の理論については、テキストや参考図書を見るなどして、
与えられた設題でレポートを記述して、合格することで履修することができますが、
ピアノの実技となると、そう簡単ではありません。



 通信教育なので、基本的には家でピアノの練習をします。
通信制の学校が通える範囲にある場合は、その学校のピアノを借りて
練習に行くこともできます。



 しかし、肝心のピアノをレッスンしてくれる先生は、
自分で探さなければなりません。
既に子どもの時からピアノを習っていたり、趣味で弾いている場合はよいのですが、
大人になって全く最初からピアノを習う場合は、信頼できる先生が必要ですし、
それなりの時間も必要になってきます。



 ピアノ実技を履修するためには
与えられた課題曲を弾けるようになることを求める学校が多いようです。
テストはスクーリングの中で行われますので、
先生の前でテストの課題曲を弾いて合格ならば単位の履修となります。



 「そろそろ、お見えになる頃だと思いました。
 今日から特訓を始めますので、
 とりあえずは、園のオルガンで弾いてみてください。
 それ以降は、幸子のピアノが空いていますので、いつでもどうぞ。
 今日からは私が、あなた専属の『鬼コーチ』です。」



 にっこりと園長先生が、笑っています。





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「レイコの青春」(19)  レイコの覚書(5)SIDSの実際例について

2012-07-25 08:25:45 | 現代小説
(続)アイラブ桐生・「レイコの青春」(19)
レイコの覚書(5)SIDSの実際例について





 SIDSはほとんどの場合、赤ちゃんが睡眠中に起こります。


 特に、うつ伏せで寝かされていた赤ちゃんに
SIDSの発症頻度が高いことが、疫学調査で明らかにされつつあります。
うつぶせ寝と突然死発症のメカニズムの関係が、解明された訳ではありませんが、
欧米では、仰向け寝を推奨するキャンペーンによって
SIDSの発生率が減ったという報告もあり、何らかの関連があることは、
疑う余地がありません。




「娘の死をむだにしたくない。」



 千葉県・松戸市の小学校教員、森岡広茂さん(51)夫妻は
そう思って始めた裁判を、もう20年間にわたって闘い続けています。



 長女の真理子ちゃんが亡くなったのは、
生後9か月になった、1974年2月のことです。
妻の綾子さんは教員で、当時は仕事を続けるために、
市役所で紹介をされた無認可保育所へ、真理子ちゃんを預けていました。


 真理子ちゃんは昼寝の際に、布団にうつぶせに寝かされ
見つかった時は顔を真下に向け、乳児用の布団に顔を押しつけるようにしていました。
布団に敷いたバスタオルが、顔の周りでくしゃくしゃになっていたそうです。
司法解剖では、鼻や口がふさがれた窒息死として、鑑定がなされました。



 経営者は、業務上過失致死罪で略式起訴され、罰金刑を受けました。
経営者が、刑事責任を認めたことになります。
この保育所は、昼休みに保母が不在になるなど保育体制がずさんだったとして、
森岡さん夫妻は、1977年,保育所に補助を出していた市や経営者などを相手に
損害賠償を求める訴訟を起こしました。




 一審では、死因は窒息と認められ一部勝訴をします。
ところが、二審の東京高裁では「死因はSIDS(乳幼児突然死症候群)」として、
請求を退けたため、一転、逆転敗訴になってしまいました。


 一審判決では体を解剖し、窒息と判断した
医師の鑑定がよりどころになったのに対して、二審では
「9か月の子供は、うつぶせでも窒息しないように、危険は回避できる」
などとした、別の専門家の鑑定が重視されました。
審理は今でも、最高裁で続いています。


 元気だった赤ちゃんの命を奪う、
SIDS(乳幼児突然死症候群)とは,一体、どんな病気でしょうか。
厚生省研究班の定義では、
「それまでの健康状態や、既往歴からは全く予想できず、死亡時の状況や、
解剖によっても原因が分からない場合を指す。
聖書にも、SIDSと思われれる乳児の突然死の記載があり、
古くからあったことがうかがわれる。」
と、まとめています。


 欧米の先進諸国では現在のところ、乳幼児の死亡原因のトップを占めています。
最近の研究では、突然死した1歳児以下の子供288人の死因を調べたところ、
その54%が、SIDSだったという報告がのこっています。



 日本では、赤ちゃん2000人に1人の割合で起きると言われています。
生後2か月から5か月までがもっとも多く、1歳以降では稀とされています。
男児の方が、女児より7割ほど多いと言う報告もあります。
母親が、妊娠中に喫煙していた場合も増えるとされているようです。
「うつぶせ寝」と関連があるとするデータが多いようです。



オランダでは、1970年代にうつぶせ寝が奨励されたのと並行して
このSIDSが急増をしてしまいました。
このために、うつぶせ寝をやめるキャンペーンで、
SIDSは約40%減少したと、1990年に報告がなされています。



 ニュージーランドでは,うつぶせ寝にしない。
妊娠中や、子供のそばでは喫煙しない。
子供を厚着などで暖めすぎない。
母乳で育てる -- という内容のキャンペーンにより、
SIDSがほぼ5分の1に、イギリスでは、ほぼ半減したという結果もあります。



 イギリスの厚生省や、アメリカの小児科学会では、
うつぶせ寝をやめるよう勧告をしています。
日本でも、SIDSで亡くなった子供の約8割は、うつぶせ寝です。



あおむけ寝でも起きるため、
日本の厚生省の研究班は、慎重に検討しているようですが、
「うつぶせ寝は突然死の危険を高める、やめるべきだ」
と考える専門家は多いようです。




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「レイコの青春」(18)  レイコの覚書(4)乳児の突然死・SIDSについて

2012-07-24 10:08:54 | 現代小説
(続)アイラブ桐生・「レイコの青春」(18)
レイコの覚書(4)乳児の突然死・SIDSについて




1970年代の後半に入ると、保育園での保育時における死亡事故や、
重大な怪我などのいわゆる「保育事故」が多発をはじめます。
こうしたことから(残念ながら)多くの幼い命が失なわれました。


 ベビーホテルなどの劣悪な環境下とは一線を画して、
専門職としての保母さんたちが運営をする保育の現場でも、
こうした重大な事故の頻発は、解消されることなくその後も続きました。



 それらの背景のひとつに
長時間にわたる居残り保育や、休日保育などで、
疲弊しきっている保母さんたちの過酷な労働環境がありました。
同時にまた、報酬の低さを原因とする慢性的な人手不足もあげられます。
当時の女性たちの人気職業として、医療に従事する看護婦さんと、
保育園の保母さんは、常に上位を争っていました。
多くの女性たちが夢とおおいなる希望を持って、こうした分野へすすみましたが、
きわめて過酷な勤務環境の現実と、予想外ともいえる低収入が、
早期の離職を生み出しました。
(これはまた、今日の福祉の世界で奉仕的に仕事をしている、
おおくの低収入の人たちにも共通をしている、厳しい現実問題です)




 経済が低成長時代に陥った時代になると
政治による歪みが、教育や、福祉環境の斬り捨てを生み出しました。
それらのしわ寄せが、保育施設や設備の老朽化をまねいたうえに、
さらに人件費の凍結や削減などを進行させてしまいます。



 働く女性たちの社会進出でも、その多様化が進行しはじめます。
現代的な貧困化の進行を原因に、第二の共働き現象ともいえる、
パートやアルバイトの領域へ、多くの主婦たちが進出をするようになりました。
残業や休日出勤による保育の長時間化も、熱望されるようになります。
こうした流れは、保育園児や幼稚園児たちにとどまらず、
小学生を対象にした「学童保育」という、あたらしい施設も生み出しました。


 
 保育事故にかんする文献を読んでいたレイコが、
乳幼児の死亡事故の中から、特筆すべきあたらしい「定義」を見つけました。
それは「SIDS」と呼ばれ、欧米を中心に研究がされている
乳幼児に特有する病気の研究でした。

 それまで元気でミルクの飲みもよく、すくすく育っていた赤ちゃんが、
ある日突然死亡してしまう病気のことで、欧米では、
乳幼児突然死症候群(Sudden Infant Death Syndrome-SIDS)
と呼んでいる病気です。



 かつて、多くの赤ちゃんの命を奪った疾病の、感染や脱水症などは
医学の進歩や社会環境の改善によって、現在では大幅に減少をしています。
それに代わり、以前は関心を持たれなかったSIDSが死亡原因の上位を占めるようになり、
その解明への重要性がクローズアップされてきました。



 日本では、年間150人くらいの赤ちゃんが
SIDSで亡くなっており、乳児の死亡原因の第2位になっています。
欧米などでは死亡原因の第1位です。



 1歳未満の、特にかわいい盛りの4~6ケ月の赤ちゃんが、
この病気の最大の犠牲者です。(1歳を越えた子には稀です)
男女や、家庭の社会的・経済的水準などの違いは、関係がありません。
伝染する病気でもありません。


 近年になってから特に注目されるようになりましたが、
現代病というわけではなく、旧約聖書などにも記述されるほど
古くから知られている病気のひとつです。


 SIDSの原因をつきとめ、予防方法を確立するために、
多くの研究者が努力していますが、はっきりした原因はいまだつかめていません。
今のところ、防御反射の異常などがその原因と考えられています。





 乳幼児は、通常睡眠時に極短時間の無呼吸や呼吸リズムの不整があります。
通常ならば容易にこの状態から抜け出せますが、
中枢性防御反射の未成熟などを起因として、この状態から抜け出せななくなることが、
突然死に至らしめるという学説です。


 厚労省では、
「それまでの健康状態および、既往歴からその死亡が予測できず、
しかも死亡状況調査および解剖検査によっても、その原因が同定されない、
原則として1歳未満の児に突然の死をもたらした症候群。」
と定めています。


 日本では解剖を行うことが少ないため、本当は原因がわからず
SIDSだったケースが、窒息や急性心不全などと診断を下された場合もあるようです。
明確に言えることは、SIDSは事故ではなく、病気である、ということです。
虐待や育児上の不手際とは、はっきり区別しなければなりません。





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「レイコの青春」(17)  レイコの覚書(3)子供を産み育てるために

2012-07-23 06:12:53 | 現代小説
(続)アイラブ桐生・「レイコの青春」(17)
レイコの覚書(3)子供を産み育てるために





 保育園の歴史を語るうえで、避けて通れないものとして、
日常保育の中から生まれてくる、痛ましい事故や事件などの現実があります。
未然に防げたものも数多くありますが、残念ながら幼い命が失われてしまったいう、
悲しい現実があったこともまた事実です。
保母さんの勉強を始めたばかりの、この頃のレイコの覚書のなかに、
こんな引用文が、赤いアンダ―ラインとともに残されています。



 こちらは、『保育事故を繰り返さないために』の著作の冒頭に
【かけがえのない幼い命のためにすべきこと】として掲載されていたものです。
こちらも、全文をそのままに紹介をします。



 私自身かつて、
子どもを保育所に預けて働く母親でした。
娘が3歳になったとき、延長手続きをしていた失業保険の
期限が切れることをきっかけに、再就職活動を始めました。



 その頃は、人手不足で倒産も出るほどの
労働力売り手市場でしたが幼い子どもがいるということで、
給与などの条件をかなり落としても、就職先は
なかなか見つかりませんでした。


 いくつも面接しては落とされ、
ようやく正社員に採用が決まりました。
さっそく、保育所の申し込みに市役所に行き、窓口で渡された
認可保育所のリストを見ながら片っ端から電話をしましたが、どこも空きはありません。
ある認可保育所の関係者から教えられた認可外の保育所に電話をすると、
空きがあるということでした。



 そこは、マンションの一室にある保育所でした。
当時、まだ数が少なかった0歳児からの保育をやっていました。
お昼は手作りの食事が出るということで、
月7~8万円という金額はかなりの痛手でしたが、
子どもが幼いうちは自分の将来に投資するつもりでと、
お願いすることにしました。


 何回か慣らし保育をしましたが、親の心配をよそに、
娘は喜んで通ってくれました。
ほっと胸をなでおろしたのも束の間、いざ本格的に預けることになると、
行くのを嫌がるようになりました。
なだめたりすかしたりしながら、なんとか毎日、連れて行きました。



 その保育所はしつけがかなり厳しいところでした。
ひとりっ子で、それまでのびのび育っていたので、ギャップもあったと思います。
娘の顔からは人懐っこい笑顔が消えて、大人の顔色をうかがうようになりました。
病気も頻繁にするようになりました。
仕事を辞めることも何度か考えましたが、ここを乗り越えなければ、
この先もずっと働きに出ることはできないと思いました。


 また、就職先では小さい子どもがいる女性を雇うのは
初めてだと言われていました。
私が辞めたら、会社は二度と子どものいる母親を
採用しないだろうという責任も感じていました。



 そして何より、あの頃の私は無知でした。
相手は保育の専門家なのだから、任せておけば安心と信じていました。
本当はいくつか気になることがありました。
特別な行事のとき以外は、親はけっして中には入れてもらえませんでした。
送り迎えはいつも玄関のところで子どもと荷物の受け渡しをおこない、
それ以上は一歩も中に入れません。


 預け始めて数週間たった頃だったと思います。
道端で何かのことで娘をちょっと叱ったら、いきなりその場に座り込み、
両手をついて土下座をしながら必死になって、
「ごめんなさい、ごめんなさい」と連呼して謝ったのです。
そのときはただびっくりして、抱きしめました。

 私はその頃は単純に、
「おじいちゃんが好きなテレビの時代劇でも見て、
真剣に謝るときにはこうするものだと思い込んだのだろうか」
くらいにしか思っていませんでした。


 保育者のなかには、
いつも笑顔で優しい感じの若い女性もいましたが、
いつ行っても、にこりともしない保育者もいました。
「そんなことをすると、またぶつよ」と子どもをきつい声で叱っているのを
洩れ聞いたときには、不安を感じていました。


 その他、いろいろな疑問がありましたが、
保育の責任者と話をしても、
「いやなら、やめてくださってけっこうです」
と突き放すように言われ、それ以上は何も言えませんでした。




 娘は翌年の4月に市立の保育所に入るまでの約半年間、
その保育所に通い続けました。
新しい保育所に通いはじめると、
あれほど頻繁だった病気もぴたりとなくなりました。
表情もすっかり生き生きして、今日は保育所でこんなことがあった、
あんなことがあったと、毎日、うるさいくらい話すようになりました。
保育所が替わると、こんなにも子どもの様子が変わるものかとびっくりしました。


 その後、私が保育施設の問題点に気づくようになったのは、
10数年もたって、会社を辞めてからです。
いじめや虐待など子どもの問題にかかわるようになり、
専門職による虐待があることを知ってからです。



 今さらですが、何も知らず、
娘を深く傷つけてしまったのではないかと後悔しました。
しかし幸いなことに、娘はその後楽しく過ごした市立保育所のことは細かく覚えているのに、
最初に預けられた保育所のことをほとんど何も覚えていませんでした。



 娘の保育所で何があったのか、正直、今でもわかりません。
その後、「スマイルマム大和ルーム」や「小鳩幼児園」での虐待死事件、
保育施設内での乳幼児死亡事件を知って胸が痛みました。




「親が自分で子育てしないから」


「認可外保育所なんかに預けるから」など、
無責任な周囲の言葉に反発を感じました。


 親が安全な保育所を選べるほど、数は多くはないのです。
しかも公立保育所の多くは、日曜祭日や夜間は預かってくれませんし、
いつも満杯で空きがありません。
公立保育所に預けたくても条件があわないのです。
そして、保育施設は子どもの命を守ってくれるところだと信じて、
高いお金を払って保育の専門家に託しているのです。



 事件・事故が起きたとき責められるべきは、
不適切な保育で子どもを死なせてしまった施設側です。
子どもにお金をかけない国のあり方です。
 そして、もっとやりきれないのは、
子どもの死の教訓が再発防止に生かされることなく、
同種の事件・事故が今も多発しているということです。



 今回、この本を書く機会を与えていただいて、
あの頃の何も知らなかった自分に警鐘を鳴らすつもりで書きました。
大切な大切な子どもたちの命がこれ以上、奪われることがないように、
祈りを込めて書かせていただきました。


 まさか、自分たちの身にこんなことが起きるはずがないと思っている
お母さん、お父さん、そして保育者にこそ、
ぜひ読んでいただきたいと思います。



 安心して子どもを生み育てられる社会をめざして。

武田さち子・著







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「レイコの青春」(16) レイコの覚書(2)ベビーホテルとは

2012-07-22 09:59:16 | 現代小説
(続)アイラブ桐生・「レイコの青春」(16)
レイコの覚書(2)ベビーホテルとは



(大韓航空機事故の慰霊碑です)



 田口 八重子さんは、
1955年の8月10日に、東京都で生まれました。
22歳になった1978年の6月ごろ、飲食店の仕事に向かうために、
ベビーホテルへ2人の子供を預けたまま、行方不明になってしまいます。
しかし(この当時には)只の主婦の失踪事件として取り扱われました。


 1985年に起こった、大韓航空機爆破未遂事件の犯人、
金賢姫(キム・ヒョンヒ)元死刑囚に、日本語を教えた女性、李恩恵(リ・ウネ)の
似顔絵が、田口さんに酷似していることから再び世間が騒然となります。
会話内容などからも、田口さんの失踪当時の状況と良く似ていることから、
北朝鮮に拉致されたことが、ついに発覚をします。



この拉致事件とともに、
この当時に大きな注目を集めたのが
頻繁に取り上げられた「ベビーホテル」という存在です。




 ベビーホテルとは、無認可保育所の一つです。
ビルの一室などで子どもの一時預かりをしている、商業的な施設のことを指しています。
保護者とは個別に契約をして、夜間遅くまで預かったり、
24時間の保育を実施している所などもあります。


 しかしこうしたベビーホテルの急増が、
一方で、乳幼児たちの頻発な死傷事故を生みだしました。
1970年代から80年代にかけては、これが大きな社会問題にもなります。
夜間に働く保護者が利用しているケースなどが多く、
松山市で発生した認可外保育施設での、乳児死亡事故を一つの契機として、
ベビーホテル問題が、国会でもしばしば取り上げられるようになります。



1980(昭和55年)に行われた実態調査では、
全国には、500ヶ所のベビーホテルが存在し、その大半が劣悪な環境のもとに、
保育が行われていたことが明らかになりました。



 こうしたことから1981(昭和56)年に、児童福祉法の一部が改正されました。
従来から指導や監督の権限がおよばなかった無認可保育施設へも、
行政による指導監督権が、行使できるように改正がされました。
また「無認可保育施設に対する当面の指導基準」があらためて定められました。
それらの効果の甲斐もあって、以前のような劣悪な保育施設は
ほとんどなくなったと言われています。


 ベビーホテルという呼び名は、
これらの一連の出来事が社会問題となったころにつけられた名前で、
今日では、そのように名乗っているところはほとんどありません。
この頃に、乳幼児施設やベビーホテル等で相次いで深刻な事故や事件が続いたために、
日本弁護士会では事態を懸念して、以下のような声明を発表しました。





(以下、原文をそのまま掲載します)


 
最近無認可保育所、ベビーホテルが急激に増加し、
これらの施設に預けられた乳幼児の痛ましい死亡事故が
続発しているのは憂慮に耐えない。


このような乳幼児の死亡事故多発の原因は、
営利を目的とした無資格保育者が、劣悪な施設に乳幼児を預け、
日の当らない店舗の2階、ビルの一室等に多数の乳幼児を詰めこみ、
保育室には常に保育者が在室するという原則を守らず、
乳幼児がうつ伏せになっていても放置し、
病気になっても十分な看護をせず、
甚だしいときは、乳幼児が死亡していても気付かないなど
その責任を果たさないことによるものである。


また、このような劣悪な施設では、
事故につながらない場合でも、自閉症など心身に障害が現われる例も多くみられ、
乳幼児の心身の健全な成長発達を期待することはできない。
これはまさに乳幼児の生存権(成長発達権)に対する侵害である。



かかる問題の多い営利的な乳幼児産業の発生を許したのは、
社会が複雑化し、婦人労働が多様化して、産休明け保育、
長時間及び夜間保育等の保育需要が高まっているにもかかわらず
国及び地方公共団体が、家庭保育中心の思想から脱しきれず、
公的保育施設を十分整備しないままに、無認可保育施設、ベビーホテルを黙認し、
保育需要に十分な対応をしなかったことによるものであり、
その責任はきわめて重大である。


乳幼児の保育行政について責任のある国及び地方公共団体は、
このような悲劇が発生した原因が貧しい保育行政にあることに思いを致し、
労働条件の向上にとりくむとともに、改善を要する施設に対しては、
暫定措置として、新たに保育需要の実情にそう基準を設け、期間を限り、
都道府県知事に対する届出を義務づけて十分な調査・監督をするとともに、
更に抜本的には公私立の認可保育所、乳児院を増設し、
保育時間を延長し、夜間保育体制を整備して乳幼児を収容するなど、
恒久的総合的対策を講ずるべきである。



当連合会は、これまで人権擁護委員会内の社会保障問題調査研究委員会において、
無認可保育所ベビーホテルに関する法的諸問題について調査研究をしてきたが、
乳幼児に対するかかる人権侵害をなくすために
一層の努力を続けていく所存である。


1981年(昭和56年)5月1日

日本弁護士連合会
会長 谷川八郎




 これもまた、日本の保育の歴史に残る事件の一つです。
日本は先進国の中では、子供の成長をめぐる社会的基盤整備が、
きわめて遅れた国のひとつです。
教育や福祉に関しての無情な予算の削減や切り捨ては、枚挙にいとまがありません。
終戦後にスタートした日本の保育園の歴史は、
法の整備や補助や援助の遅れから、公立と私立での大きな格差を生み出し、
さらに無認可保育園においては、そのほとんどが赤字経営に近いという
厳しい実態を生み出しました。


 しかし、そうした一方で、
子供を抱え働く母親たちや、すこやかな我が子の成長を願うおおくの母親たちが
さまざまな困難を乗り越えながら、逞しく行動をしていたのも
またこの時代の、きわめて大きな特徴でした。





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