落合順平 作品集

現代小説の部屋。

連載小説「六連星(むつらぼし)」第43話  

2013-04-19 12:50:34 | 現代小説
連載小説「六連星(むつらぼし)」第43話  
「300キロ余りの防潮堤」




 コンビニで冷えた缶コーヒーを買いこんできた響が、
道路を隔てた前方に、真っ青な大海原があることにはじめて気がつきました。
『う~ん』と腰に手を当てると、気持ちよく、思い切り背伸びをします。
「そんなに背伸びをしたった、お前さんの身長では、しょせんアメリカは見えないぜ」
背後から英治が笑いかけます。


 「ねぇ英治。海岸のところどころに
 黒いピラミッドのような堆積物が見えるけど、あれは一体何かしら」


 「大津波の後に、この一帯の海岸を埋め尽くしていたがれきを
 それぞれに集積をしたものです。
 焼却処分がすすまないために、今もああして野ざらしのままです」



 お手洗いから戻ってきた浩子さんがそう答えてから、響の隣に並びます。
「あなたは、本当に何にでも興味をもつ子ですねぇ。まさに好奇心旺盛なタイプそのものです』
と眩しそうに響を見つめながら、さらに言葉を続けます。


 「岩手、宮城、福島の3県につくられている海岸線に沿った堤防は、
 その延長が合計で、300キロを優に越えるそうです。
 そのうちにの6割にあたる190キロの堤防が、
 東日本大震災の津波のために全壊、もしくは半壊をしてしまいました。
 このあたりでも大きな被害が出ましたが、津波がもっとも直撃をした仙台湾の沿岸や
 三陸海岸での損傷は、特に酷いものが有ったとと聞いています」


 「その津波で浸水をした面積の合計は、400平方キロを越えたそうだ。
 東北沿岸部の平地は、すべて襲われたという計算になる。
 解りやすくいえば、東京にある山手線の内側の面積の6・4倍に当たり、
 神奈川県の横浜市全域の広さに匹敵するそうだぜ」



 缶コーヒーをいち早く呑み終えた英治も、二人の会話に加わってきました。
響と浩子さんの両肩の間に、ちゃっかりと割り込むような形でひょいと顔をのぞかせました。
(近すぎるでしょう・・・・英治ったら)と、響が顔をしかめています・・・・

 「美しいことで知られている三陸のリアス式海岸もふくめると、
 東日本大震災の被害海岸域は、1000キロを軽く超えるそうだ。
 今回の津波は、入り組んだ海岸の地形が、かえってその威力を増大させたとも言われている。
 破壊された家々は、大量のがれきとなって海へ流れ、それらの多くが
 波打ち際に集められて、ほとんどの海岸線を埋め尽くした。
 そのうちの一部は、遠くアメリカの西海岸や、はるばるとインド洋の彼方にまで
 島のようになって流れていった、と言う話も有る」


 「あらまぁ、金髪さんは博識ですねぇ。すこしは見直しました」


 「いえいえ。ただの受け売りです。
 伯父さんを探すために、あちこちをパソコンで検索しているうちに
 たまたま見つけたという、そんな情報ばかりです」


 「そうそう。その伯父さんの居る、
 ひびきの仮設住宅まではあと少しの距離になりました。
 では、残ったお話などをすすめながら、再び目的地へ急ぎましょう。
 もうすこし、後ろで響さんをお借りしますので、今度は聞き耳などはたてないで、
 ひたすら運転に専念をしてくださいな。ねぇ、金髪くん」


 「了解しました、浩子さん。
 道半ばということですが、まだこの先も一本道のままですか?」

 
 「金髪君には、華麗なドライビング・テクニックなどを
 見せてもらいたいところですが、残念ながらこの海岸沿いを走るこの道は、
 目的地まではほとんど直線で、一本道がどこまでも続いております。
 まっすぐさえ進んでいただければ、それだけで充分です。
 さてと、それではお話を元に戻しましょう。
 ええと・・・・お嬢ちゃんとは、どこまでおしゃべりしたかしら?」


 「避難所では負のスパイラルが始まった、と言う部分まで
 さきほど、お伺いをしました」


 「そうそう。大勢が暮らす避難所では、
 早急な衛生対策が、緊急に必要になったというお話でした。
 被災から一週間ほどしてくると、避難所の実態の把握なども急務になってきました。
 衛生状態や生活環境、感染症などの有無を調べるために、
 全国から派遣されてきた医療チームと、地元の医療チームがひとつになって、
 『石巻圏合同救護チーム』というものを発足させました。
 医師と看護師さん5~6人を1組にして、20個ちかい班をつくり、
 手分けをしながら、3月17日から3日間をかけて、
 約300ほどあった全ての避難所の実態調査をしました」


 「石巻の避難所だけでも、300ヵ所ですか!
 その他にも自主避難をしている人たちも、かなりいたはずですから、
 実際には、もっと広範囲にたくさんの被災者たちがいたことになりますね・・・・
 それを把握するだけでも、実にたいへんな作業です」


 「市役所や行政支所も被災をしてしまったために、
 機能は麻痺をしたままで、情報も寸断されてしまいました。
 そのために、避難民たちの全体の把握がいつまでたってもまとまりません。
 避難所での一番の問題は、食料や物資の決定的な不足でした。
 中には、避難者に1日1個のおにぎりしか出せなかったという避難所もありました。
 衛生管理も行き届かずに、感染症がまん延する可能性も高まってきました。
 『給水車の水は、もったいなくて手洗いに使えない』とか、
 『消毒用のアルコールは、すぐになくなってしまい必要な時に使えない』
 と言う声が、私たちのところへもたくさん寄せられました」

 「道路が寸断をされてしまったために、
 孤立してしまった避難所も、沢山有ったとも聞きました。
 全国から救援の物資は届いているのに、避難所に届ける手段が無くて
 苦戦したというお話でしたが・・・」


 「その通りです。
 そこへ避難をしているのは見えているのに、そこに辿りつくための道路がありません。
 徐々にがれきを撤去しながら、道を伸ばしていくだけで精いっぱいでした。
 最初のうちの避難所生活は、まさに着の身、着のままの
 劣悪そのものの状態と言えました。
 ほとんどの避難所では、プールの水で手を洗ったり、
 着替えがなくて、泥だらけのままの着衣で寝たりしている状態でした。
 多くの避難所では消毒薬がなく、またたとえ感染症の患者が出たとしても狭すぎて、
 隔離するためのスペースさえ設けることができない有様でした。
 このままでは、手遅れ状態が進むばかりです。
 肝心の行政や政府からの支援も、いつまでまで待っても
 いっこうに被災地には届かないのですから。
 動き出さない行政の支援を、いちまでも待ってはいられない状態となり、
 避難所へ必要な物資を行き届かせ、生活環境を改善することが
 私たちのチームの、大きな当面の仕事になりました」


 浩子さんの脳裏には、震災直後から必死にあちこちを駆け回りながら
被災者や患者さんたちと向かい合ってきた、あの日からの忘れられない光景が
まざまざと甦ってきたような気配があります・・・・


 「・・・・チームの働き掛けで、
 簡易水道や間仕切りなどが設置された避難所もありました。
 渡波公民館には、マスクや消毒薬などが届くようになり、病院に搬送される避難者は
 ようやくいなくなってきました・・・・」



 と、その後の様子などをさらに思いだそうとしています。
 本震から27日目となった4月6日、
石巻赤十字病院に搬送される急患の数は、初めて100人を下回ります。
本震から60日目後となった、5月9日になって、ようやく
通常診療も再開されるようになりました。


 しかし、これらの地道な医療の活動は今もなお引き継がれています。
今でも有志の医療班は、石巻市や東松島市の避難所や住宅など約100カ所を日々回り、
今も変わらず被災者たちの健康管理に当たっているのです。




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連載小説「六連星(むつらぼし)」第42話 

2013-04-18 05:54:41 | 現代小説
連載小説「六連星(むつらぼし)」第42話 
「まるで野戦病院のように」




 「病院の外。
 玄関の付近には、絶え間なく常に患者さん達が運ばれてきました。
 また津波で失った薬をもらいに来る人たちも、たくさんいました。
 行方不明になった親族たちの安否確認に来る人たちなども、次々とやってきました。
 私たちがトリアージの最中にも『どうやって帰ればいいのか』
 『薬をもらうのにいつまで待たせるんだ』などと次々聞かれ、
 それらの応対などにも追われました。
 途絶えることのない人の波が、地震の発生以来、何日間も続きました・・・・
 そうなると、当然のように哀しい事態も発生します。
 私が今でも忘れられない出来ごとは、既に亡くなってしまったお孫さんを、
 毛布にくるんで抱きながら、走って病院に駆けつけきたお年寄りの姿を見た時です。
 『これは、ほんとうに現実の姿なのだろうか・・・』と、
 その時だけは心底、そう思いました。
 あの時のことだけは、今でもしっかりと私の目に焼き付いています。
 私はおそらく、あのお年寄りの姿を、一生忘れることができないと思います」


 浩子さんの瞳が、その時の光景を思い出して、見るまに曇ってきます。
響は、重ねられている浩子さんの指の上へ、自分のもう片方の手を想いも乗せて重ねます。
浩子さんの口元に少しだけ、先ほどまでの笑みが、はにかみながら戻ってきます。


 「病院の外の様子も大変でしたが、病院内も騒然としていました。
 通常時は待合室になっている1階ロビーでは、診療室が間にあわないために、
 中レベル程度の患者さんたちの処置が行われていました。
 それはまるで映画でよく見た、戦場の救護所みたいな有様そのものです」

 「震災発生の日よりも、日を追うごとに怪我をした人や
 要救助者たちが増えたようですが、それはいったいどんな理由ですか?」


 「ほとんどの患者さんが、津波による被災者たちです。
 要救助者たちが救助を求めて居ても、水が引かないうちは近寄れないし、
 瓦礫が散乱をしているために、道路も通れません。
 受け入れる側の医療機関をはじめ、救助する側の地元の救急隊や
 消防までも被災をしてしまっています。
 あの時、海に面したいた石巻の市街地のほとんどが、ほぼ壊滅状態になっていたのです。
 高台に避難できた人たちも見守るのだけが精一杯で、とても救助まで手が回りません。
 外部からの応援部隊が入る前までは、石巻の被災した市街地部分では、
 まったく、手のつかない状態が続いていました」



 「そうですよね・・・・
 たしかに、あの凄まじい津波の映像には息をのみました。
 あっというまに海面が盛り上がってきて、車が木の葉のように押し流され、
 家やビルが呑みこまれて崩壊する様子を、私は何度もテレビで目撃をしました。
 そういえば多くの犠牲者は、その津波によるものですね」



 「震災から3日後の14日になると、
 被災した患者さんたちの数が、一気にピークに達しました。
 病院内のロビーでは、担架やストレッチャーが忙しく行き来して、
 その日一日で最大となる700人近くが、石巻赤十字病院へ搬送をされてきました。
 病院内は患者さんたちでごった返し、スタッフたちも汗だくで走り回りました。
 2階の廊下も、病院内に避難している人が横になるなどして
 足の踏み場もないほどに混雑をしていました。
 ロビーに運ばれてきた患者さん達も、けがや低体温症などで自力では歩けません。
 病院で用意をした80台の災害用ベッドでは間に会わず、
 ついには、入院患者用のマットや、外来診察で使うベッドなどへ
 患者さんを寝かせることになりました。
 とにかく忙しすぎて・・・・とてもあの時には、
 何かを考えるゆとりはなんかは、全くありませんでした」




 「野戦病院のようだったというその意味が、よくわかります・・・・」



 「トリア―ジから治療班の応援のために走り回り、
 さらには津波にのまれた人の着替えや、その応急処置の介助などにも追われました。
 収容されてから、急に高熱を出すお年寄りなどがたくさん出ました。
 付き添う家族もなく、身元も分からないまま、
 院内で息を引き取ってしまったという人も、少なくありません。
 何とかしてあげたかった・・・・
 でも、私たちには、何もできませんでした。
 辛かったし、虚しかった。そしてとても悔しい思いをしました。
 私が記憶しているだけでも、地震後のわずか1週間あまりで
 石巻赤十字病院で治療を受けた患者さんは、合計で4000人を越えました。
 そのうちに・・・・実に残念なことですが、手当ての甲斐もなく
 79人が病院で亡くなってしまいました」


 響が身体を横に運び、浩子さんに寄り添うような形で座り直します。
「あなたは本当に、優しいお嬢さんです・・・・」愛嬌のあふれていた浩子さんの目じりに
またうっすりと、新しい涙がにじんできました。


 「被災地医療の現場は、それほどまでに凄まじく、例えようがないほど深刻でした。
 でもそれ以外にも、私たちは、もうひとつの大きな障害とも戦いました。
 石巻を襲ったあの大津波は、人が暮らし生きるために必要な全ての物を、
 それこそ、根こそぎで奪い取っていきました。
 電気や水、ガスなどのライフラインの破壊は、私たちの想像をはるかに絶していました。
 なにひとつとして被災地には、生活に必要なものが残っていないのです・・・・
 私たちは、ほんの一瞬の間にして、全て失ってしまいました」



 「それも・・・・実は、拝見ました。
 私は、ほんとうに不謹慎者です。
 雪が降る、見るからに寒そうな避難所の光景を見ながら、
 3月の半ばだと言うのに、まだ東北は冬なんだ・・・などと、
 ただただ、ぼんやりとしながら、他人事のようにテレビの画面を眺めていたのです。
 そうですよね。
 家と生きる場と失いながらも、やっとの思いで助かった人々たちが、
 水も電気もない中で、真冬と向き合っていたと言うのに、
 私は、ビールを飲みながら、呑気に炬燵でテレビを見ていました・・・・
 あまりにも無関心すぎて、他人事のように見ていた私が、
 今となると、顔から火が出るほどに恥ずかしい想いがします」

 
 「恥じることなどは決して有りません。
 あなたは一年後の被災地の実際の様子を、その目で見るために、
 こうしてその足で確認に来てくれました。
 そのうえ私の話にも、あなたはこうして、優しく耳を傾けてくれています。
 こうしてすべてのお話しをするのも、実は私も震災以来、
 初めてのことなのです。
 私こそ、どこかで胸のつかえが取れるような、そんな気がします・・・・
 それほどに、3・11直後の石巻は、実に悲惨な状況そのものでした。
 でも、被災地としての本当の、本来の苦しみは、被災後にあらためてやってきました。
 私たちの石巻赤十字病院で受け入れた急患は、本震から1週間がたったも
 一日平均で、300人以上がやってきました。
 震災前が1日平均60人くらいでしたから、実に5倍以上にあたる人数です。
 同時にこの頃から、正体不明のあたらしい病気が発生しました。
 その原因は避難所における、あまりにも非衛生的な環境と、
 食料や物資の日常的な不足でした。
 約200人が避難した、石巻市の渡波公民館では
 本震から1週間以上もたってから、高熱を出すという避難者が相次ぎました。
 水もなければ電気もガスもない、寄り集まり集団での避難生活の場です。
 沢水を沸かして飲み、周りでくんだ井戸水を手洗い用などに使っていました。
 もちろん、マスクや消毒薬などといった類は、一切ありません。
 避難者が体調を崩すたびに、200メートルほど離れた消防署まで職員が走っていって
 救急車を呼び、私たちの赤十字病院まで搬送をしました。
 食料や飲み水の確保に必死で、十分な衛生管理をする余裕がなかったことの結果です。
 搬送された患者の多くが、肺炎や胃腸炎などの感染症や、
 油断の出来ない、脱水症状などにかかっていました。
 避難した人たちの生活環境が悪すぎたために、被災地では、
 いつまでたっても、こうした患者の数が減りません。
 こうして石巻では、あたらしい負のスパイラルがはじまりました・・・・」


 重い沈黙が後部座席の二人を支配し始めた頃、
突然、運転席から英治の、乾いた声が聞こえてきます。


 「おい、お二人さん。コンビニが見えてきたぜ。ちょっと寄って休憩をしょうぜ」



 「何言ってんの英治ったら。こんなときに」

 「勘弁しろよ、響。
 なんだか俺まで、目の前がぼやけてきた・・・頼むから、一休みしょうや」



 

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連載小説「六連星(むつらぼし)」第41話 

2013-04-17 09:26:20 | 現代小説
連載小説「六連星(むつらぼし)」第41話 
「あの日の石巻は、」



 「大規模な工業団地として、
 丘陵地を利用して開発されたものが、奥松島ひびき工業団地です。
 その敷地の一部を使って被災した人たちのための仮設住宅が、急きょ建てられました。
 そこにいま入居されている方が、金髪君が探している
 伯父さんだといいですね」


 この時点になって響はまだ、行き会ったままで
自分たちが自己紹介をしていないことに、初めて気がつきました。
響が苦笑しながら、あらためての自己紹介をはじめます。
金髪の英治も、石巻赤十字病院から届いたメールの経過なども説明も加えながら、
ここまでやってきた理由のあらましを、しどろもどろで話します。


 「あらまぁ・・・・訳ありのカップルさんでしたか。
 仲がとてもよろしく見えましたので、お若いご夫婦かと思いこんでおりました。
 ずいぶんと律儀で、なおかつ健康的なご関係のようですね、・・・・うっふふ。
 お嬢さんと同じ名前を持つ、ひびき工業団地は、ここ仙台からは30キロと少しです。
 では、甘いものなどを頂いたら、その伯父さんのいる仮設住宅まで
 3人でまいりましょう。
 ただし、私は運転はすこぶるつきで下手です。
 それでもよければ、これから私の車で、まいりましょう」


 「えっ。連れて行って頂けるのですか、そこまで!」


 思わず金髪の英治が立ちあがります。
浩子さんがそんな英治のあわてぶりを見て、にこやかに笑います。



 「当然です、それくらいのことなら。
 あの3・11の大震災で、私たちは全国のみなさんから生きる勇気と
 たくさんの元気をいただきました。
 あの惨状の中からこうして今、元気でいられるのも、
 日本全国から集まった、みなさんからの温かいご支援のおかげです。
 そのことを考えたら、このくらいの用件ならお安いご用です。
 ほんのささやかなお礼返しです。
 それにこの、笑顔の可愛いお譲さんとも、もう少しだけ、
 お話が、したいと思いますから」


 (あらら、やっぱりお話し好きで、人の良いおばちゃん、そのものだ・・・・)
響きもまた、嬉しそうに眼をほそめています。
運転が苦手だと言う浩子さんに変わって、金髪の英治が運転席に座ることになりました。


 「高速でも行けますが、急ぐ旅でもありません。
 行き先は田舎の一本道ですので、ひたすらまっすぐに走ってください。
 小一時間くらいのドライブになると思います・・・・
 私は後ろでお嬢ちゃんと、久々のおしゃべりに励みますから、うふふふ」


 助手席へ荷物をまとめて置いた浩子さんが、
嬉しそうな顔をしながら、元気よく後部座席のドアを開けます。


 「ねぇ、お兄ちゃん。
 そのあたりでコンビニさんが有ったら、車を止めてくださいな。
 やっぱりお茶菓子などが無いと、お話のほうもまた盛り上がりませんので・・・・。
 ではでは、お兄ちゃん。安全運転などでよろしくどうぞ」


 と、後部座席から、ポンポンと英治の肩を叩きます。
浩子さんの愛車は、いま流行の経済車で、モダンなハイブリッド・カ―です。
エンジンはこれで動いているのかと思うほど、すこぶる静かに回ります。
モーターが優しく回り始めた後、車は風を切りながら滑るように走り始めます。
小気味よいほどの加速ぶりもみせて、あっというまに制限速度へ達しても、車内に、
エンジン音はまったく聞こえず、相変らず風を切る走行音だけが響いてきます。


 「先ほど、3・11直後の病院はまるで、野戦病院のようだったと、
 おっしゃっていましたが・・・」


 「津波の直後から、大混乱は始まりました。
 石巻では、海に面していた市街地のほとんどが、水につかってしまいました。
 ほとんどの医療機関また同時に、壊滅な被害を受けました。
 すこしだけ奥地に有った私たちの日赤病院だけが、かろうじて被災をまぬがれました。
 その時の医療活動についての詳細などは、後日の、『石巻赤十字病院の100日間』
 という本の中で、まとめて紹介されています。
 東日本大震災で献身的に活動したお医者さんや看護師さんたち、
 病院職員たちの苦闘の記録として、文章として残されることになりました」


 「浩子さんも、そのおひとりとして活躍された訳ですね。
 申しわけありません。私はまだ残念ながら、その本を読んでいません。
 被災地の実態をあまり理解をしていない、不心得者の一人です」



 「あなたは、とても正直でチャーミングな方です。
 普通なら、そんなことは口を濁してとぼけてしまうのに、正直すぎます。
 あなたは、直球勝負が専門のようですね。
 別に気にすることなどは、ありません。
 貴重な記録のひとつだとは思いますが、重く辛い記録であることもまた事実です。
 生きることへのおおくの証言が、体験談と共に語られていますが、
 同時にまた、それだけおおくの死を見つめてきたという記録でもあるのです。
 災害時の記録と言うのは、常に、生と死の境目を冷酷に同時に見つめます。
 一瞬の行動が生死を分けて、置かれた環境と運が、またその生死を分離します。
 あの日の津波はまさに、その象徴でした・・・・」


 「浩子さんは、あの津波以降、何を見つめてきたのですか」

 
 「あの日・・・・
 『市街地はほとんどが水に漬かった。救急車は流されて、今は2台しか使えない』
 という、消防の一報から私たちの3・11が始まりました。
 その日の夜になってから、石巻赤十字病院へけが人を搬送してくる
 地元の救急隊からは、次々と悲惨な報告ばかりが入ってくるようになりました。
 私はそれらを聞いた瞬間に、
 『今、石巻で救出された人を搬送できる病院はここしかない。
 きっと、かなりの人が運ばれてくる」と、ようやく事態を直感しました。
 私の悪い予感は、ずばりと的中をしました。
 自衛隊などの救出が本格的に始まった、翌日の12日のお昼ごろからは、
 ヘリコプターや、特殊車両が数分おきに市内外の被災者を
 次々と、私たちの病院へ運び込んできました。
 搬送されてきた人の多くは、ずぶぬれでふるえ、まったく話もできない状態です。
 恐怖のせいからか、ほとんどの人がぼうぜんとしていました。
 ねぇ、あなた・・・・
 本当に聞きたいの?こんな私の話を 」


 「是非。 」


 強い意志を込めた響の瞳が、まっすぐ、浩子さんを見つめます。
膝の上で握りしめている響の白い指の上へ、浩子さんの温かい手が降りてきました。


 「まず私たちが最初に取り組んだのは、病院の正面玄関の外側に、
 治療の優先度を判断するのトリアージのスペースを作る事でした。
 またそれと平行をして、軽傷者たちを治療するための大型テントなども設けました。
 そうした準備を整えた後、私は、他の医師や看護師たちの10人とともに、
 トリアージ作業に当たりました」


 「トリア―ジと言う言葉は、災害時などでよく耳にしますが、
 実際にはどういう意味をもつものですか。すみません、質問が素人すぎて・・・・」


 浩子さんがまた、にこりと笑います。
お尻を少しずらして上半身をひねり、斜め正面から響と向いあう姿勢をとりました。
響の指の上に置かれた浩子さんの温かい手から、少しだけ力が降りてきました。


 「大災害などが発生をした時には、
 一番有効的な医療活動をおこなう事が、まず求められます。
 事前に怪我人たちを振り分けていく作業のことを、トリア―ジと呼びます。
 災害時とはいえ、医療資源は限られています。
 医療スタッフや医薬品にも、限度があります。
 現存する限られた医療資源の中で、まず助かる可能性のある傷病者を救命して、
 社会復帰へ結びつけるという行為に トリアージの意義があります。
 トリアージとは、負傷者を重症度、緊急度などによって分類をして、
 治療や搬送などの優先順位を決めることです。
 実はとても悲しいことですが・・・・
 助からないと思える人の治療は、後回しにされてしまいます。
 限られた条件の中でより多くの人々を救うために、トリア―ジにおいては
 時には、重い決断を下す勇気も必要になるのです」

 
 にこにこと、いつも明るく輝いていた浩子さんの瞳が、
なぜかこの一瞬だけに限って、深い悲しみの色を浮かべました。
響もドキリとしながらも、そのわずかな哀しみ色の一瞬を瞬間をしっかりと見届けています。






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連載小説「六連星(むつらぼし)」第40話 

2013-04-16 09:21:09 | 現代小説
連載小説「六連星(むつらぼし)」第40話 
「東北本線、松島駅」



 
 東北本線の松島駅は、海からはやや離れた場所に設置されています。
日本三景のひとつでもある松島海岸や有名な五大堂、マリンピア松島水族館などの
観光地区へは、仙石線の松島海岸駅の方が遥かに近く、かつ便利なために、
仙台駅では仙石線を利用するように、案内をしています。 


 「あら、予想外なほどお洒落で、真新しい駅舎だわ・・・・」


 響が駅舎を見上げて、驚きの声を上げています。
一日の利用客が、千人ちょっとの実績からは考えられないほど、
新築されたばかりの東北本線・松島駅は、和風で実にモダンな造りをしています。
入口付近は総ガラス張りで、広々とした開放的なデザインを誇り、
待合室も広く、室内には充分すぎるほどの明るさが満ち溢れています。



 「以前の松島駅は築後65年と、老朽化をしたために、
 つい最近、鉄骨平屋のモダンな和風駅舎として完成をしたばかりです。
 立て替えと同時に、それまではとても不便で、
 50センチ以上もあったホームとの段差も、ようやく解消をされました。
 スロープなども整備されて、全体にバリアフリー化されましたので、
 お年寄りたちにも、とても使いやすく、かつ便利になりました」

 
 待合室に他の人影は無く、待っていたのは元看護師さんの一人だけです。
荻原浩子ですと自己紹介をしたその人は、こちらが質問をする前から、
眼を細め、使いやすくなった松島駅の自慢話を、とうとうとはじめてしまいました。


 「あら、ごめんなさい。
 私ったら、いつでも、こうしておしゃべりをし過ぎるのよ。
 せっかく遠い群馬から知人を探しにやってきたというのに、いきなり
 場違いといえる、こんな田舎の駅を自慢をされても、
 ただただ面喰らうばかりですねぇ・・・あらまぁ、おほほほ」


 「いいえ。きわめて素敵だと思います。
 さすがに観光地の松島らしく、洒落ていて、とても美しい玄関口だと思います。
 バリアフリーが行き届いていると言うのも、今風で、
 とっても素晴らしい配慮だと思います]


 「あら、こちらのお嬢さんとは、なにやらお話が合いそうです。
 折角ですから、少し市内の方へ歩いて、甘いものなどをいただきながら、
 お探しの方の情報や、その他もろもろのお話などもしましょうねぇ~。
 そこを歩いて、すぐですから」

 『もろもろのお話もしましょうねぇ~』、という部分に、
響がいち早く、この女性に対する親しみを感じてしまいます。
(どんな女性が現れるのかと思っていたら、おしゃべりが大好きで、
おまけに甘いものも大好きで、堅いイメージの看護師さんと言うよりは、
何処にでも居るような、近所の人の良いおばちゃんだ・・・・)


 「先ほど、松島の海も拝見しましたが、、
 道路や橋の上などにもまだ、被害の傷跡などが残っていました。
 痛ましい景色に、思わずちょっと、胸の痛む思いがしました」


 「あれから一年が経ちましたが、
 3・11のたくさんの出来ごとは、自然や町の景色ばかりか、
 人の心の中にまで、修復しきれない痛みと、辛さをたくさん残しました。
 私も震災の当日から、石巻赤十字病院であの惨状とたくさんつき合ってきました・・・・
 まるで野戦病院のようなってしまった、あの医療の現場を、
 半年余りにわたって、私は毎日見続けてきました」


 「荻原さんはもしかしたら、そうした心労か何かが原因で、
 今は、看護師さんを休養中の身体なのですか?」

 
 「いえいえ・・・・そんなに体裁の良い話では有りません、お嬢さん。
 でも、荻原さんと呼ばれるのは、少々苦手です。
 遠慮しないで、浩子と読んでくださいな。
 休職に至ったのは、あくまでも、自分の不摂生が主な原因です。
 半年ほど、目一杯の仕事をしていたら、日ごろからの運動不足と体力の不足が原因で
 やっぱりてきめんに、身体を壊してしまいました。
 お酒と煙草が大好きで、おまけにカラオケ三昧という、
 きわめて、普通の人から見たら不健康そのものという趣味などを持っています。
 一人身で暮らしていますので、お仕事以外の時は、
 カラオケに入り浸っては、好きなだけお酒を呑み、煙草をふかすという
 暮らしに、長年にわたって明け暮れてまいりました。
 そのまま不健康な暮らしを続けて私は、
 気ままに一人身の一生を終える予定でいたのに、
 それが突然の、夢にも思っていなかった、あの大震災の発生でしょう。
 半年間は忙しさに追われて、もう夢中でお仕事をしましたが、
 お恥ずかしいことに長年の不摂生がたたり、体調をすっかりと崩してしまいました。
 やはり不養生というものはいけません。
 いまは無念の気持ちのまま、こうしてグダグダと休職中です。
 やはり普段から身体というものは、大切にしておかなければいけません。
 いざとなったその時では、もうまったく間に会いませんからね。あっはっは」



 東北本線・松島駅から市内へ向かって7~8分も歩くと
やがて周囲の様子が変わりはじめます。
市の中心部へ向かうという雰囲気が、町並の様子からも濃厚に漂ってきました。
商店街らしい密集が近づいてくるにつれて、民家の間にある店舗の数も増えてきます。
その中のひとつで、「甘味処」と書かれたドアを、まるで自分の家のように
「そうぞ」と言いながら、荻原浩子が茶目っけたっぷりに、丸いお尻で押し開けました。
民家を思わせるような落ち着いた室内には、可愛いテーブル席が3つほど並んでいます。


 「お友達がやっているお店ですが、今は私のアジトです!
 ダイエットをする必要があるのですが、やはり美味しいものには勝てません。
 あなたはまだお若いから、気にすることはないようです。
 そちらの金髪さんは、甘いものは大丈夫かしら?」


 「下戸(げこ)ですが、甘いものも実は、得意でありません。
 でも折角のすすめですので、頂きたいと思います」


 緊張気味の金髪の英治が、目を白黒とさせながら、ようやくのことで答えています。
浩子さんは目を細めて笑いながら、まだ立ったままでいる二人に椅子をすすめます。
二人が着席をして、居ずまいを整えたのをしっかりと見届けてから、『さて、』と
前置きをしてから、ようやく、今日の本題を切りだしました。


 「お尋ねの方かどうかは、確信はありません。
 でも、原爆病の可能性があるということでは、一人だけ心当たりが有ります。
 震災の直後は、どこの医療機関でもてんてこまいでした。
 どこもかしこも、被災した人たちであふれていましたし、
 状況の把握を出来ないままに、次々にけが人が運ばれてきました。
 書類の整理もままならず、記録もろくに取れないまま、
 まずは患者さんを治療することが、ただただの最優先でした。
 地域医療のもうひとつの大きな仕事は、あちこちに点在をしている避難所と
 在宅のまま避難している人たちへの、巡回医療の業務です。
 仙石線の乗ってこられたのなら、すでに気がついたと思いますが、
 被害の大きかった野蒜(のびる)駅地区の周辺では、
 高台に沿って、急きょいくつかの避難所が作られました。
 そのひとつの避難所で、そうした男の人とお会いした覚えがあります」


 浩子さんが、テーブルの上で、ゆっくりと指を組み直しています。
ふうっと短い息をはきだしたあと、天井をじっと見つめているその眼は、慎重に
次に言うべき言葉を探していました
金髪の英治が、ごくりと生唾をのみこみます。


 「被災から一カ月ほどが経ってくると、
 避難所や被災者たちの病気や症状などが、微妙に変わりはじめてきます。
 ストレスや不衛生な状態などからくる伝染病、精神的な不安からくるさまざまな
 体調の不良などが、日を追うごとに目立ってきます。
 その中でも、明らかに異変を抱えていたものの、
 まったく、その原因がつかめないという患者さんが一人いました。
 症状をみて、原爆症の可能性が有ると見破ったのは、
 広島から応援に来てくれた、一人のボランティアのお医者さんです。
 原発で長く働くと、知らないうちに被ばくを重ねるそうです。
 それがまったくの低濃度でも、長く体内での被ばく状態が続くと、それが原因で
 さまざまな健康被害が発生をするそうです。
 いろいろと聞いていく中でその人は、原発を転々としながら
 生活をしたということを話してくれ始めました。
 ただ、被ばくをしたと言う話を自ら公にしてしまうと、
 医療を受ける際には、いろいろと不利になります。
 きわめて複雑な問題がいろいろとからんでくるために、みなさんは
 一様に口を閉ざしてしまい、なかなか事実を話してくれないのが現状だそうです。
 それでもその人は私たちにたいして、最後には。ついに心を開いてくれました。
 3・11の直後まで、福島の第一原発で働いていたそうです」


 「そうだと思います。
 茂伯父さんが最後に働いていた原発が、たぶん福島です。
 震災の前までは、何度も福島からの送金が届いていました・・・・」


 「原発で働いている労働者さんたちには、被ばく量の厳しい制限があるそうです。
 しかしその患者さんは、その後に何度も名前を変えながら、
 福島第一原発内で、大量のがれき撤去作業に参加をしたというお話です。
 広島から来た医師の話では、あの時点での
 原発内のがれき撤去の作業こそが、もっとも危険な作業の一つだったようです。
 炉心溶解によって飛び散った放射能は、がれきに付着して大量に
 原発の敷地内にも振り積もりました。
 どこにどれだけの放射能が潜んでいるかも解らないままに、
 その後の復旧作業を進めるために最優先で、連日にわたって敷地内を埋め尽くしている
 がれき撤去の作業が繰り返されたそうです。
 原子炉の建屋以外で、きわめて危険値の高濃度の放射線が確認された場所が
 後になってから、敷地内のあちこちから次々と発見をされました。
 おそらく、そこで作業を続行されていた人たちは、
 きわめて危険と思われる、相当量を被爆したと考えられます」


 「それでも生きてはいるんだ、そのひとは。
 たぶん茂伯父さんだろう、そのひとが。で、その人は今どこに・・・・」


 「高台の避難所から、内陸部へ5キロほど行ったところに、
 ひびき工業団地があり、そこへ大規模な仮設住宅が建てられました。
 幸い、その患者さんもそこへの入居が出来たようです。
 今朝、そのご本人と確認がとれました」


 「生きてる! 生きているんだ。・・・・茂伯父さんは! 」




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連載小説「六連星(むつらぼし)」第39話 

2013-04-15 09:59:40 | 現代小説
連載小説「六連星(むつらぼし)」第39話 
「響の胸に騒ぐもの」




 響が起こされたのは、それから30分ほどが経ってからです。
目を開けるとはるか頭上に遠慮がちの、金髪の英治の顔がありました。
(そんなに無理に遠ざからなくてもいいものを・・・・まったく、英治ったら・・・)
苦笑しながら響が身体を起こします。


 「連絡がきた。東北本線の松島駅で、元同僚のその看護師さんと会えるそうだ」
金髪の英治の声が、響の頭上ではずんでいます。

 
 時計をのぞき込んで、響きが驚きの声をあげます。
(あら、いやだぁ。まだ、午前8時半をすぎたばかりだ・・・・どうなってんだろう今日は。)
中途半端な時間で起こされたために、ぼんやりとした頭のままで着替をえはじめた響が、
今朝からの、一連の自分の行動を思い出しています。


 夜明けから市街地へ出て、荒涼とした北上川の畔まで、まず歩きました。
日和山の山裾を迂回して、荒涼とした津波の傷跡をしっかりと目に焼き付けてから、
方向を変えてホテルまで戻ってきた朝の散策は、もっと長い時間がかかっていたとばかり
思い込んでいましたが、実際にはほんの30~40分の道のりでした。
朝食を済ませ、部屋で英治のパソコンをのぞき、ベッドにもぐりこんだのも
良く考えてみれば、7時半をすぎたばかりの出来事です。



 清算を済ませてホテルを出ると、
表の歩道では、駅へと向かうたくさんの通勤の人たちが歩いていました。
その中には、ぽつりぽつりと、地元らしい高校生たちの姿も混じっています。
響と英治も、それらの人の流れに乗ったまま、仙石線に乗るために石巻駅をめざします。

 きわめて美しい三陸の海岸線を走っていたこの仙石線は、
震災によって著しい被害を受け、昨年の6月までは、全区間のうちの約半分が、
まったくの壊滅状態になってしまいました。
こうした中で最初に復活したのが、石巻と矢本の間です。
今年3月末までにはその先の矢本から、陸前小野間までが復旧をするという見込みのもと、
そのための復旧工事が、連日忙しく続いています。
しかし、いまだに電気設備は壊れたままで、代替えとしてのディーゼルカーが
石巻と矢本駅の間を往復しています。


 矢本行きの列車には通学中の高校生と、通勤と思われる人たちに混じって、
あきらかに、これから復旧工事に携わるらしいらしい作業員たちの姿もありました。
矢本駅から先は不通のために、待機をしている代行バスに乗り換えます。
代行のバスは、仙石線のレールと並走をしている国道を、一路、
仙台と松島方面をめざて走りはじめます。
鳴瀬川と吉田川にかかる2つの橋を渡ると、バスは見晴らしのよい川に沿った
土手上の道へ出ていきます。



 「初めて此処へ来たときは、
 津波で押し流された自動車とがれきが、ここの田圃の一面を
 文字通り隙間なく、びっしりと埋め尽くしている凄い光景を見た。
 すさまじい光景だと、思わず足が震えた記憶が残っている、
 そんな場所のひとつだ」



 英治が指さす彼方には、どこまでいっても
ただ、だだっぴろく広がっていくだけの一面の田んぼが有ります。
一面を覆い尽くしたと言うがれきや自動車も、今はすべて跡形もなく綺麗に
ものの見事に、撤去をされています。


(ということは、かつてはここは、東北の一大穀倉地帯だったはずだ。
塩水をたっぷりとかぶった土地は、果たして生きかえることが出来るのだろうか。
ましてや此処には、あの福島からの深刻な放射能の影響も有るはずだ。
本当にこの土地で復活できるのだろうか、人も、農業も・・・・・)


 遮るものが何も無くなった風景の中で、何台もの重機が黙々と、ひたすらに
田んぼの修復作業を行っている様子が、車窓から見て取れます。
響の目線の先に有るものは、復興を目指しているはずの田んぼの様子です。
この田んぼの風景の中には、まだ希望と呼べるものがかすかにながら残っていました。
しかし、まもなくその希望を根底から打ち砕くような、絶望とも飛べる景色が
バスの前方にゆっくりと近づいてきます。



 見渡す限りの平たんな穀倉地帯が、ついにそれまでの様相から一変をします。
野蒜(のびる)駅へさしかかったところで、それらが次々とバスの前方に現れました。
壊れた家屋や、商店が、被災したままで、そっくりそのまま残っています。
駅前には「仙石線を早急に復旧させよう」と書かれた、大きなのぼり旗が立っています。


 この付近を走る仙石線は、とりわけ被害が大きかったため、
復旧には、きわめて長い時間がかかります。
破壊された従来の線路を慨にあきらめ、3年以上の年月かけ、線路や駅を今よりも内陸部へ
500メートルほど移転をすると言う復興の計画が決まりました。
放棄する事が決まり被災をしたすべての建物たちは、まったく修復されることもなく
すでに住む人を失い、荒れるに任せての放置が続いています。



(本当の意味で、被害を受けた被災地が復旧を果たすと言うことは、
 極めて気の遠くなるほどの、長いたくさんの時間を、どこまでも必要とするんだわ。
 またさらにその上を行く、粘り強い労力と、果てしない努力も必要とするんだ・・・・)


 津波で受けた傷跡をそのままに、赤く錆びつき、
朽ち始めている家屋たちを見つめながら、響が、つよく唇をかみしめています。
握りしめたこぶしが、少しずつ震えてきました。
しかし涙で滲んで、かすんでいく景色を、響にはどうすることもできません。
車窓を通過していく景色たちに、響には、かける言葉すらありません・・・・


(これが実は、今の被災地の嘘をつかない本当の姿なんだ。
 一年が経とうと言うのに、何一つ助かっていないと証言をしている景色と、
 事実がたった今、こうして私の目の前を通過していく。
 私はこれを見るためにやってきたんだ・・・・
 これを心に焼き付けて、逞しく立ち上がる人たちを応援するために
 たぶん、英治と共に、此処までやってきたんだ。
 でも、そのためには、いったい何をすればいいのだろう、
 私には、いったい何が、出来るのだろう・・・・)




 日本三景のひとつ「松島」に近い仙石線の高城町駅の付近で、
二人は代行バスから降りました。
二人が降りた場所からは、点在をしていく景勝地・松島の島々が見えます。
傷跡からの修復を終えた観光地が、やがて来るはずの観光客たちを待ちうけて
洋上で、ようやく、かつての輝きを放ち始めていました。
しかし良く見れば、自分の立った足元や橋の周辺の道路には、いくつもの亀裂や
陥没した道路の箇所が、当時のままに、あちこちに残っています。
歩行者の注意を促すためなのか、亀裂に沿って白い線も引かれています。
「完全復旧」とはまだ言いがたい、津波によってもたらされた傷の跡が
こうして、ひっそりとここにも克明に残されています。



 「松島と言えば、東北屈指の観光地よねぇ。
 大きな傷跡そのものは見えないけれど、やっぱり人の数が少ないと言うのは寂しいな。
 本格的な復興は、まだまだみたいな雰囲気の残っているし・・・・」


 「原発の放射能騒ぎが、間違いなく此処にも影響している。
 実際、俺も初めて足を踏み入れた時には、目には見えない放射能の恐怖に
 正直、恐いと思ったし、心底ビビった。
 支援はしたいが、放射能は怖いと言う本音は誰にでも有ると思う。
 風評被害の影響は、ここでもきわめて深刻だ。
 さて・・・・ここから東北本線の松島駅はすぐそこだ。
 元同僚と言うその看護師さんは、40歳代半ばで、
 ちょっとだけふくよかな、色白の別嬪さんだとメールに書いてある。
 なるほどね・・・・
 ほら。ご丁寧に、本人の顔の画像まで添付してくれたぜ」


 英治がノートパソコンを開いて、その画像を見せました。
被災地に造られたどこかの避難先のひとつみたいな場所で、雑然とした背景の中、
メールを送ってくれた本人と、元同僚というその二人が仲良く並んで
可愛い笑顔を見せていました。


 (この素敵な笑顔が、きっと、
 たくさんの被災者たちに、心の元気をあげたんだろうなぁ・・・・
 まさに、笑顔のナイチンゲール、そのものだ!
 大変な状況の中でも、女性は、常に笑顔を忘れないことが、
 やっぱり一番、大切なんだ)

 優しそうなその元同僚のこぼれるような笑顔を、しっかりと眼に焼きつけながら、
響も、そっと自分の心の中で誓っています。


 (でも、一体これはなんだろう・・・・被災地を歩き始めてから、
 私の心の中では、何かが熱く燃え始めてきた。 
 これは一体なんだろう?
 英治と二人で駅に向かって歩いているこの光景も、いつかどこかで見た覚えが有る。
 夢で見たんだろうか。
 朧(おぼろ)だけど、こんなシーンを何度も見た記憶がある。
 予兆なんだろうか。それともただの錯覚かしら。
 でも、ここまで来るということが、ずっと前から決まっていたような気がする。
 何がいったい騒いでいるんだろう。私の胸の中でザワザワと。
 この高鳴りとこの胸騒ぎの正体は、いったいなんだろう・・・・)



 響が松島駅へ続く橋の上から、もう一度、松島湾を振り返ります。


 (ここから見た光景だったのかしら・・・・
 橋が有って、海が有って、その場所から私は橋を渡って、一人の女性に会いに行く。
 あの暗示みたいな映像の意味は、やっぱり夢の予兆だったのかしら。
 この橋を渡って私は、駅前で待っている、その初めての女性に会いに行く。
 そこで私は、私にとって、転機となるような衝撃的な話を聞く・・・・
 そんな、夢みたいな映像を、私は何度も見たような気がする。
 そして、私は今、実際のその場所へ行こうとしている。
 なんなんだろう・・・なんだろう。
 いったい、なにが、今の私を待っているのだろう)


 立ち尽くしている響の耳へ、英治の大きな声が届いてきました。


 「お~い、まだそこで寝ぼながら、昼間から夢を見ている、そこの女の子!。
 置いて行くぜ。いい加減にしないと。
 それともなにか、もうホームシックにでもかかったか。
 まぁ今さら・・・・そんな、可愛い歳でも無いと思うがね!」



 (あの野郎。あとで必ずひっぱたいてやる。
 人が大事なことを思い出しているというのに、まったく空気が読めない、
 秋田生まれの、山ザルめ。)


 響が橋の上を、脱兎のように駆けだしていきます。




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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (72) たまの、逆転サヨナラホームラン
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