連載小説「六連星(むつらぼし)」第43話
「300キロ余りの防潮堤」

コンビニで冷えた缶コーヒーを買いこんできた響が、
道路を隔てた前方に、真っ青な大海原があることにはじめて気がつきました。
『う~ん』と腰に手を当てると、気持ちよく、思い切り背伸びをします。
「そんなに背伸びをしたった、お前さんの身長では、しょせんアメリカは見えないぜ」
背後から英治が笑いかけます。
「ねぇ英治。海岸のところどころに
黒いピラミッドのような堆積物が見えるけど、あれは一体何かしら」
「大津波の後に、この一帯の海岸を埋め尽くしていたがれきを
それぞれに集積をしたものです。
焼却処分がすすまないために、今もああして野ざらしのままです」
お手洗いから戻ってきた浩子さんがそう答えてから、響の隣に並びます。
「あなたは、本当に何にでも興味をもつ子ですねぇ。まさに好奇心旺盛なタイプそのものです』
と眩しそうに響を見つめながら、さらに言葉を続けます。
「岩手、宮城、福島の3県につくられている海岸線に沿った堤防は、
その延長が合計で、300キロを優に越えるそうです。
そのうちにの6割にあたる190キロの堤防が、
東日本大震災の津波のために全壊、もしくは半壊をしてしまいました。
このあたりでも大きな被害が出ましたが、津波がもっとも直撃をした仙台湾の沿岸や
三陸海岸での損傷は、特に酷いものが有ったとと聞いています」
「その津波で浸水をした面積の合計は、400平方キロを越えたそうだ。
東北沿岸部の平地は、すべて襲われたという計算になる。
解りやすくいえば、東京にある山手線の内側の面積の6・4倍に当たり、
神奈川県の横浜市全域の広さに匹敵するそうだぜ」
缶コーヒーをいち早く呑み終えた英治も、二人の会話に加わってきました。
響と浩子さんの両肩の間に、ちゃっかりと割り込むような形でひょいと顔をのぞかせました。
(近すぎるでしょう・・・・英治ったら)と、響が顔をしかめています・・・・
「美しいことで知られている三陸のリアス式海岸もふくめると、
東日本大震災の被害海岸域は、1000キロを軽く超えるそうだ。
今回の津波は、入り組んだ海岸の地形が、かえってその威力を増大させたとも言われている。
破壊された家々は、大量のがれきとなって海へ流れ、それらの多くが
波打ち際に集められて、ほとんどの海岸線を埋め尽くした。
そのうちの一部は、遠くアメリカの西海岸や、はるばるとインド洋の彼方にまで
島のようになって流れていった、と言う話も有る」
「あらまぁ、金髪さんは博識ですねぇ。すこしは見直しました」
「いえいえ。ただの受け売りです。
伯父さんを探すために、あちこちをパソコンで検索しているうちに
たまたま見つけたという、そんな情報ばかりです」
「そうそう。その伯父さんの居る、
ひびきの仮設住宅まではあと少しの距離になりました。
では、残ったお話などをすすめながら、再び目的地へ急ぎましょう。
もうすこし、後ろで響さんをお借りしますので、今度は聞き耳などはたてないで、
ひたすら運転に専念をしてくださいな。ねぇ、金髪くん」
「了解しました、浩子さん。
道半ばということですが、まだこの先も一本道のままですか?」
「金髪君には、華麗なドライビング・テクニックなどを
見せてもらいたいところですが、残念ながらこの海岸沿いを走るこの道は、
目的地まではほとんど直線で、一本道がどこまでも続いております。
まっすぐさえ進んでいただければ、それだけで充分です。
さてと、それではお話を元に戻しましょう。
ええと・・・・お嬢ちゃんとは、どこまでおしゃべりしたかしら?」
「避難所では負のスパイラルが始まった、と言う部分まで
さきほど、お伺いをしました」
「そうそう。大勢が暮らす避難所では、
早急な衛生対策が、緊急に必要になったというお話でした。
被災から一週間ほどしてくると、避難所の実態の把握なども急務になってきました。
衛生状態や生活環境、感染症などの有無を調べるために、
全国から派遣されてきた医療チームと、地元の医療チームがひとつになって、
『石巻圏合同救護チーム』というものを発足させました。
医師と看護師さん5~6人を1組にして、20個ちかい班をつくり、
手分けをしながら、3月17日から3日間をかけて、
約300ほどあった全ての避難所の実態調査をしました」
「石巻の避難所だけでも、300ヵ所ですか!
その他にも自主避難をしている人たちも、かなりいたはずですから、
実際には、もっと広範囲にたくさんの被災者たちがいたことになりますね・・・・
それを把握するだけでも、実にたいへんな作業です」
「市役所や行政支所も被災をしてしまったために、
機能は麻痺をしたままで、情報も寸断されてしまいました。
そのために、避難民たちの全体の把握がいつまでたってもまとまりません。
避難所での一番の問題は、食料や物資の決定的な不足でした。
中には、避難者に1日1個のおにぎりしか出せなかったという避難所もありました。
衛生管理も行き届かずに、感染症がまん延する可能性も高まってきました。
『給水車の水は、もったいなくて手洗いに使えない』とか、
『消毒用のアルコールは、すぐになくなってしまい必要な時に使えない』
と言う声が、私たちのところへもたくさん寄せられました」
「道路が寸断をされてしまったために、
孤立してしまった避難所も、沢山有ったとも聞きました。
全国から救援の物資は届いているのに、避難所に届ける手段が無くて
苦戦したというお話でしたが・・・」
「その通りです。
そこへ避難をしているのは見えているのに、そこに辿りつくための道路がありません。
徐々にがれきを撤去しながら、道を伸ばしていくだけで精いっぱいでした。
最初のうちの避難所生活は、まさに着の身、着のままの
劣悪そのものの状態と言えました。
ほとんどの避難所では、プールの水で手を洗ったり、
着替えがなくて、泥だらけのままの着衣で寝たりしている状態でした。
多くの避難所では消毒薬がなく、またたとえ感染症の患者が出たとしても狭すぎて、
隔離するためのスペースさえ設けることができない有様でした。
このままでは、手遅れ状態が進むばかりです。
肝心の行政や政府からの支援も、いつまでまで待っても
いっこうに被災地には届かないのですから。
動き出さない行政の支援を、いちまでも待ってはいられない状態となり、
避難所へ必要な物資を行き届かせ、生活環境を改善することが
私たちのチームの、大きな当面の仕事になりました」
浩子さんの脳裏には、震災直後から必死にあちこちを駆け回りながら
被災者や患者さんたちと向かい合ってきた、あの日からの忘れられない光景が
まざまざと甦ってきたような気配があります・・・・
「・・・・チームの働き掛けで、
簡易水道や間仕切りなどが設置された避難所もありました。
渡波公民館には、マスクや消毒薬などが届くようになり、病院に搬送される避難者は
ようやくいなくなってきました・・・・」
と、その後の様子などをさらに思いだそうとしています。
本震から27日目となった4月6日、
石巻赤十字病院に搬送される急患の数は、初めて100人を下回ります。
本震から60日目後となった、5月9日になって、ようやく
通常診療も再開されるようになりました。
しかし、これらの地道な医療の活動は今もなお引き継がれています。
今でも有志の医療班は、石巻市や東松島市の避難所や住宅など約100カ所を日々回り、
今も変わらず被災者たちの健康管理に当たっているのです。

・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
「300キロ余りの防潮堤」

コンビニで冷えた缶コーヒーを買いこんできた響が、
道路を隔てた前方に、真っ青な大海原があることにはじめて気がつきました。
『う~ん』と腰に手を当てると、気持ちよく、思い切り背伸びをします。
「そんなに背伸びをしたった、お前さんの身長では、しょせんアメリカは見えないぜ」
背後から英治が笑いかけます。
「ねぇ英治。海岸のところどころに
黒いピラミッドのような堆積物が見えるけど、あれは一体何かしら」
「大津波の後に、この一帯の海岸を埋め尽くしていたがれきを
それぞれに集積をしたものです。
焼却処分がすすまないために、今もああして野ざらしのままです」
お手洗いから戻ってきた浩子さんがそう答えてから、響の隣に並びます。
「あなたは、本当に何にでも興味をもつ子ですねぇ。まさに好奇心旺盛なタイプそのものです』
と眩しそうに響を見つめながら、さらに言葉を続けます。
「岩手、宮城、福島の3県につくられている海岸線に沿った堤防は、
その延長が合計で、300キロを優に越えるそうです。
そのうちにの6割にあたる190キロの堤防が、
東日本大震災の津波のために全壊、もしくは半壊をしてしまいました。
このあたりでも大きな被害が出ましたが、津波がもっとも直撃をした仙台湾の沿岸や
三陸海岸での損傷は、特に酷いものが有ったとと聞いています」
「その津波で浸水をした面積の合計は、400平方キロを越えたそうだ。
東北沿岸部の平地は、すべて襲われたという計算になる。
解りやすくいえば、東京にある山手線の内側の面積の6・4倍に当たり、
神奈川県の横浜市全域の広さに匹敵するそうだぜ」
缶コーヒーをいち早く呑み終えた英治も、二人の会話に加わってきました。
響と浩子さんの両肩の間に、ちゃっかりと割り込むような形でひょいと顔をのぞかせました。
(近すぎるでしょう・・・・英治ったら)と、響が顔をしかめています・・・・
「美しいことで知られている三陸のリアス式海岸もふくめると、
東日本大震災の被害海岸域は、1000キロを軽く超えるそうだ。
今回の津波は、入り組んだ海岸の地形が、かえってその威力を増大させたとも言われている。
破壊された家々は、大量のがれきとなって海へ流れ、それらの多くが
波打ち際に集められて、ほとんどの海岸線を埋め尽くした。
そのうちの一部は、遠くアメリカの西海岸や、はるばるとインド洋の彼方にまで
島のようになって流れていった、と言う話も有る」
「あらまぁ、金髪さんは博識ですねぇ。すこしは見直しました」
「いえいえ。ただの受け売りです。
伯父さんを探すために、あちこちをパソコンで検索しているうちに
たまたま見つけたという、そんな情報ばかりです」
「そうそう。その伯父さんの居る、
ひびきの仮設住宅まではあと少しの距離になりました。
では、残ったお話などをすすめながら、再び目的地へ急ぎましょう。
もうすこし、後ろで響さんをお借りしますので、今度は聞き耳などはたてないで、
ひたすら運転に専念をしてくださいな。ねぇ、金髪くん」
「了解しました、浩子さん。
道半ばということですが、まだこの先も一本道のままですか?」
「金髪君には、華麗なドライビング・テクニックなどを
見せてもらいたいところですが、残念ながらこの海岸沿いを走るこの道は、
目的地まではほとんど直線で、一本道がどこまでも続いております。
まっすぐさえ進んでいただければ、それだけで充分です。
さてと、それではお話を元に戻しましょう。
ええと・・・・お嬢ちゃんとは、どこまでおしゃべりしたかしら?」
「避難所では負のスパイラルが始まった、と言う部分まで
さきほど、お伺いをしました」
「そうそう。大勢が暮らす避難所では、
早急な衛生対策が、緊急に必要になったというお話でした。
被災から一週間ほどしてくると、避難所の実態の把握なども急務になってきました。
衛生状態や生活環境、感染症などの有無を調べるために、
全国から派遣されてきた医療チームと、地元の医療チームがひとつになって、
『石巻圏合同救護チーム』というものを発足させました。
医師と看護師さん5~6人を1組にして、20個ちかい班をつくり、
手分けをしながら、3月17日から3日間をかけて、
約300ほどあった全ての避難所の実態調査をしました」
「石巻の避難所だけでも、300ヵ所ですか!
その他にも自主避難をしている人たちも、かなりいたはずですから、
実際には、もっと広範囲にたくさんの被災者たちがいたことになりますね・・・・
それを把握するだけでも、実にたいへんな作業です」
「市役所や行政支所も被災をしてしまったために、
機能は麻痺をしたままで、情報も寸断されてしまいました。
そのために、避難民たちの全体の把握がいつまでたってもまとまりません。
避難所での一番の問題は、食料や物資の決定的な不足でした。
中には、避難者に1日1個のおにぎりしか出せなかったという避難所もありました。
衛生管理も行き届かずに、感染症がまん延する可能性も高まってきました。
『給水車の水は、もったいなくて手洗いに使えない』とか、
『消毒用のアルコールは、すぐになくなってしまい必要な時に使えない』
と言う声が、私たちのところへもたくさん寄せられました」
「道路が寸断をされてしまったために、
孤立してしまった避難所も、沢山有ったとも聞きました。
全国から救援の物資は届いているのに、避難所に届ける手段が無くて
苦戦したというお話でしたが・・・」
「その通りです。
そこへ避難をしているのは見えているのに、そこに辿りつくための道路がありません。
徐々にがれきを撤去しながら、道を伸ばしていくだけで精いっぱいでした。
最初のうちの避難所生活は、まさに着の身、着のままの
劣悪そのものの状態と言えました。
ほとんどの避難所では、プールの水で手を洗ったり、
着替えがなくて、泥だらけのままの着衣で寝たりしている状態でした。
多くの避難所では消毒薬がなく、またたとえ感染症の患者が出たとしても狭すぎて、
隔離するためのスペースさえ設けることができない有様でした。
このままでは、手遅れ状態が進むばかりです。
肝心の行政や政府からの支援も、いつまでまで待っても
いっこうに被災地には届かないのですから。
動き出さない行政の支援を、いちまでも待ってはいられない状態となり、
避難所へ必要な物資を行き届かせ、生活環境を改善することが
私たちのチームの、大きな当面の仕事になりました」
浩子さんの脳裏には、震災直後から必死にあちこちを駆け回りながら
被災者や患者さんたちと向かい合ってきた、あの日からの忘れられない光景が
まざまざと甦ってきたような気配があります・・・・
「・・・・チームの働き掛けで、
簡易水道や間仕切りなどが設置された避難所もありました。
渡波公民館には、マスクや消毒薬などが届くようになり、病院に搬送される避難者は
ようやくいなくなってきました・・・・」
と、その後の様子などをさらに思いだそうとしています。
本震から27日目となった4月6日、
石巻赤十字病院に搬送される急患の数は、初めて100人を下回ります。
本震から60日目後となった、5月9日になって、ようやく
通常診療も再開されるようになりました。
しかし、これらの地道な医療の活動は今もなお引き継がれています。
今でも有志の医療班は、石巻市や東松島市の避難所や住宅など約100カ所を日々回り、
今も変わらず被災者たちの健康管理に当たっているのです。

・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/