東京電力集金人 (59)知らされなかった、放射能漏れ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/8e/c199124411911bb079e18976d14117c6.jpg)
「一夜明けた請戸地区の状態は、ひどいものでした。
道路にまで押し流された漁船。津波火災でくすぶっている街並み。一面に散乱している瓦礫。
ひっくり返った大量の自動車。建物の屋根に乗り上げている小舟。
見慣れたいつもの港の様子が、たった一夜で激変しています。
あまりにもひどい港の様子に声も出ませんでした」
「そうよねぇ。テレビで被災地の惨状が映し出される度に、胸が痛んだもの。
あなたは、あの震災の真っただ中に居たのね。道理で心が痛むはずよねぇ・・・・
3.11が近づいて津波の映像が流されるたびに、私だって、あの日のことを思い出してしまうもの」
「ガソリンは満タンにしてあったので、かろうじて夜の寒さをしのげました。
でも、つけっぱなしにしたラジオからは、信じられない情報ばかりが飛び込んできます。
『陸前高田市は壊滅・・・』『仙台市若林区で、二、三百体の犠牲者・・・』
耳をおおいたくなるようなニュースばかりが、私の耳に飛び込んで来ます。
雪がちらついて、余震が何度もやって来て、眠れないままの夜がようやく明けました。
とにかく家へ戻ろうと、陥没した路面を避けながら車で家に向かいました。
浪江町は揺れの直後から、全面的な停電と断水に襲われています。
交差点で交通整理に当たっているお巡りさんが、白い防護服を着込んでいることに
なんだか違和感を覚えました。
福島原発がメルトダウンしたことは、まだ誰にも知らされていないのですから」
「え?。翌日の段階からもう、警察官たちは防護服を着ていたのですか?」
「はい。はっきりと警察官の防護服姿を見ています。
震災の翌日、12日から、一部住民の避難が始まりました。
国が福島第一原発から10キロ圏内に、避難指示を出したためです。
原発から北西に25キロほど離れている浪江町の、津島地区へ避難することが決まりました。
役場の機能も、29キロあまり離れた津島支所へ移されました。
私も家族とともに3月12日から4日間にわたり、津島で避難生活を送りました。
山間の津島地区へ向かう道路は、終日、避難するひとたちの車で渋滞を繰り返します。
この時も私たちは、福島第一原発が放射能漏れを起こしていることをまったく知りません。
固定電話は一切使用できず、無線もありません。
利用可能な通信手段といえば、時折つながる携帯電話だけでしたから」
「14日に福島第一原発の3号機が水素爆発をおこすまで、国と東電は、
ひたすら放射能情報を隠ぺいし続けた事実が有るものね。
米軍は震災の直後から、福島からの撤退を始めていたそうです。
原発の100キロ圏内には絶対に近づくなと指示を出し、福島はもう駄目だと、
事故直後からはっきりと宣言をしています。
おおくの外国人たちが、帰国をはじめたのもちょうどこの頃からのことです。
福島県民だけでなく日本中の人たちが、放射能漏れの事実を知らされずに居たのです。
事実をひたかくしにした国と東電の迷走ぶりは、目に余ります。
事実が明らかにされるたびに激しく腹が立ったことを、昨日のように覚えています」
「支援に入った警察官や自衛隊の皆さんは、放射能漏れの事実を知っていたと思います。
津島小や、津島中の体育館の中で、防護服を着ていると町民たちが不安になるから
脱いでくれと、町の幹部が警察官に頼んでいるのを見たことが有ります。
わたしたちは、まったくの無防備のままの普段着です。
すぐ帰れるだろうということで着のみ着のままで避難し、町の職員たちも
普段の仕事着のままで、おおくの対応に追われています。
地域の消防団員たちも法被姿のまま、押し寄せてくる人たちの交通整理に当たっています。
放射性物質や放射線に対して、わたしたちはまったく無防備といえる状態でした」
町役場庁舎には、非常時にそなえて放射線量測定器が1台だけ用意されていた。
慌ただしさが続く中、この機械を津島へ持ち出すことはなかった。
「住民のおおくが不安に感じている。脱いでもらえないだろうか」、そう警察官に
詰め寄ったのは、浪江町の議長、吉田数博氏(65)だ。
避難した住民があふれている津島地区で、活動中の警察官たちに強く申し入れた。
警察官たちだけがこの時、防護服を身に着けていた。
普段着のまま避難してきた町民や町職員の身なりとの違いは、誰が見ても一目瞭然だ。
吉田氏は、そののちに二本松市で開かれた国会の原発事故調査委員会(国会事故調)の中で
防護服姿で活動する警察官に多くの町民が抱いたという違和感について説明し、
町民が放射性物質の情報から隔絶されていたという現実を、強く訴えている。
町が津島支所に運んだ防護服は、県から配られていた原子力防災用の常備品の1つだ。
口や鼻を覆うマスクなども一緒に配備されている。
県は県関係者の使用分として約1000着の他に、東京電力福島第1、福島第二の各原発から
10キロ圏にある広野、楢葉、富岡、大熊、双葉、浪江の6町に、各150着の防護服を
を配っている。
双葉地方広域市町村圏消防本部には約300着。県警本部に約150着。
双葉署には、約600着が有事に備えて配られている。
これらは毎年の原子力防災訓練で、参加者たちが身に着ける。
使い捨てで足りなくなった分を毎年、県はその都度、補充をしている。
浪江町の役場職員が防護服を初めて着たのは、全町民による町外への避難が
本格的に始まった、3月15日の午後からのことだ。
「町の中心部に、まだ町民が残っている可能性がある」。
そんな情報が入り、町の職員は自衛隊員たちとともに津島支所を出発することになった。
だが、町の職員たちは支所に到着した自衛隊員たちのいでたちに驚いた。
「ずいぶん大げさな格好だな」。
自衛隊員たちは防護服に加え、顔全体を覆う全面マスクまでしっかりと着用している。
手にはそれぞれ、放射線量の測定器まで持っていたからだ。
「そんなに恐ろしい状況なのか・・・」。
町職員たちは実感が湧かないまま、自衛隊員に促されて防護服をまとった。
セットになっているゴーグルと、鼻と口を覆うマスクも着用した。
ただ自衛隊員と同じようなタイプの全面マスクだけは、まだこのときには
支所に用意されていなかった。
(60)へつづく
落合順平 全作品は、こちらでどうぞ
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「一夜明けた請戸地区の状態は、ひどいものでした。
道路にまで押し流された漁船。津波火災でくすぶっている街並み。一面に散乱している瓦礫。
ひっくり返った大量の自動車。建物の屋根に乗り上げている小舟。
見慣れたいつもの港の様子が、たった一夜で激変しています。
あまりにもひどい港の様子に声も出ませんでした」
「そうよねぇ。テレビで被災地の惨状が映し出される度に、胸が痛んだもの。
あなたは、あの震災の真っただ中に居たのね。道理で心が痛むはずよねぇ・・・・
3.11が近づいて津波の映像が流されるたびに、私だって、あの日のことを思い出してしまうもの」
「ガソリンは満タンにしてあったので、かろうじて夜の寒さをしのげました。
でも、つけっぱなしにしたラジオからは、信じられない情報ばかりが飛び込んできます。
『陸前高田市は壊滅・・・』『仙台市若林区で、二、三百体の犠牲者・・・』
耳をおおいたくなるようなニュースばかりが、私の耳に飛び込んで来ます。
雪がちらついて、余震が何度もやって来て、眠れないままの夜がようやく明けました。
とにかく家へ戻ろうと、陥没した路面を避けながら車で家に向かいました。
浪江町は揺れの直後から、全面的な停電と断水に襲われています。
交差点で交通整理に当たっているお巡りさんが、白い防護服を着込んでいることに
なんだか違和感を覚えました。
福島原発がメルトダウンしたことは、まだ誰にも知らされていないのですから」
「え?。翌日の段階からもう、警察官たちは防護服を着ていたのですか?」
「はい。はっきりと警察官の防護服姿を見ています。
震災の翌日、12日から、一部住民の避難が始まりました。
国が福島第一原発から10キロ圏内に、避難指示を出したためです。
原発から北西に25キロほど離れている浪江町の、津島地区へ避難することが決まりました。
役場の機能も、29キロあまり離れた津島支所へ移されました。
私も家族とともに3月12日から4日間にわたり、津島で避難生活を送りました。
山間の津島地区へ向かう道路は、終日、避難するひとたちの車で渋滞を繰り返します。
この時も私たちは、福島第一原発が放射能漏れを起こしていることをまったく知りません。
固定電話は一切使用できず、無線もありません。
利用可能な通信手段といえば、時折つながる携帯電話だけでしたから」
「14日に福島第一原発の3号機が水素爆発をおこすまで、国と東電は、
ひたすら放射能情報を隠ぺいし続けた事実が有るものね。
米軍は震災の直後から、福島からの撤退を始めていたそうです。
原発の100キロ圏内には絶対に近づくなと指示を出し、福島はもう駄目だと、
事故直後からはっきりと宣言をしています。
おおくの外国人たちが、帰国をはじめたのもちょうどこの頃からのことです。
福島県民だけでなく日本中の人たちが、放射能漏れの事実を知らされずに居たのです。
事実をひたかくしにした国と東電の迷走ぶりは、目に余ります。
事実が明らかにされるたびに激しく腹が立ったことを、昨日のように覚えています」
「支援に入った警察官や自衛隊の皆さんは、放射能漏れの事実を知っていたと思います。
津島小や、津島中の体育館の中で、防護服を着ていると町民たちが不安になるから
脱いでくれと、町の幹部が警察官に頼んでいるのを見たことが有ります。
わたしたちは、まったくの無防備のままの普段着です。
すぐ帰れるだろうということで着のみ着のままで避難し、町の職員たちも
普段の仕事着のままで、おおくの対応に追われています。
地域の消防団員たちも法被姿のまま、押し寄せてくる人たちの交通整理に当たっています。
放射性物質や放射線に対して、わたしたちはまったく無防備といえる状態でした」
町役場庁舎には、非常時にそなえて放射線量測定器が1台だけ用意されていた。
慌ただしさが続く中、この機械を津島へ持ち出すことはなかった。
「住民のおおくが不安に感じている。脱いでもらえないだろうか」、そう警察官に
詰め寄ったのは、浪江町の議長、吉田数博氏(65)だ。
避難した住民があふれている津島地区で、活動中の警察官たちに強く申し入れた。
警察官たちだけがこの時、防護服を身に着けていた。
普段着のまま避難してきた町民や町職員の身なりとの違いは、誰が見ても一目瞭然だ。
吉田氏は、そののちに二本松市で開かれた国会の原発事故調査委員会(国会事故調)の中で
防護服姿で活動する警察官に多くの町民が抱いたという違和感について説明し、
町民が放射性物質の情報から隔絶されていたという現実を、強く訴えている。
町が津島支所に運んだ防護服は、県から配られていた原子力防災用の常備品の1つだ。
口や鼻を覆うマスクなども一緒に配備されている。
県は県関係者の使用分として約1000着の他に、東京電力福島第1、福島第二の各原発から
10キロ圏にある広野、楢葉、富岡、大熊、双葉、浪江の6町に、各150着の防護服を
を配っている。
双葉地方広域市町村圏消防本部には約300着。県警本部に約150着。
双葉署には、約600着が有事に備えて配られている。
これらは毎年の原子力防災訓練で、参加者たちが身に着ける。
使い捨てで足りなくなった分を毎年、県はその都度、補充をしている。
浪江町の役場職員が防護服を初めて着たのは、全町民による町外への避難が
本格的に始まった、3月15日の午後からのことだ。
「町の中心部に、まだ町民が残っている可能性がある」。
そんな情報が入り、町の職員は自衛隊員たちとともに津島支所を出発することになった。
だが、町の職員たちは支所に到着した自衛隊員たちのいでたちに驚いた。
「ずいぶん大げさな格好だな」。
自衛隊員たちは防護服に加え、顔全体を覆う全面マスクまでしっかりと着用している。
手にはそれぞれ、放射線量の測定器まで持っていたからだ。
「そんなに恐ろしい状況なのか・・・」。
町職員たちは実感が湧かないまま、自衛隊員に促されて防護服をまとった。
セットになっているゴーグルと、鼻と口を覆うマスクも着用した。
ただ自衛隊員と同じようなタイプの全面マスクだけは、まだこのときには
支所に用意されていなかった。
(60)へつづく
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