大阪の市立高校での体罰事件の反響は大きく広がっています。
運動部であるということを置いて、教育としてどうかということを自分の体験から考えてみました。
私自身、小学校、中学校、高校と、教師による体罰を数多く目撃しましたし、その被害にも遭いました。
小学校の時に、信頼する先生が、クラスの生徒の悪ふざけをとがめてビンタを張ったことがありました。
それは、クラスの多くの子どもに下された罰で、「自分が間違ったことをしたと思う人は前に出てきなさい」と自ら考えること、過ちを認める勇気を持つことを促す指導のように感じられました。
自分が被った体罰で最も酷かったものは、中学生の時に、雨でぬかるんだ中庭に内ズックのまま侵入し、校舎に戻ったところで、教師にいきなり髪をひっぱられ、激しいビンタを張られたというものです。
確かに、いたずらで、間違った行動をおこなったのですが、私に反省を求めるでもなく、突然暴行された衝撃は今でも忘れられません。
正直言って、その教師が亡くなるまで、その体罰を思い出す度に「復讐」という言葉が頭に浮かんだものでした。
柔道の授業で、教師に絞め落とされた(絞め技で失神させられた)こともありました。
寝技の乱取りの時に、腕に覚えのある私がかなりの時間に渡ってその教師を制し、周りの生徒がはやし立てる状況が続いた後のことであり、それは、まさに教師の力の誇示であり、「報復」と言うべきものでした。
小学校での体験のように、信頼する教師から、「軽い」体罰を受けたことはもっとあり、その時は、「有難い指導」というように受け止めていました。
一方、同級生・先輩・後輩が体罰を受けている場面には、数え切れない程出くわしましたが、そのすべてについて、やりきれない気持ちになり、或いは、非常に不愉快になり、多くの場合、教師に対して反感を覚えました。
それから、先輩による後輩へのいじめの体験・目撃も少なくありませんが、その場合に、教師に対して、解決してくれるという期待を持つことはできませんでした。
体罰にも、いじめにも、共通する問題があるということを感じていたからだと思います。
信頼する教師の体罰も含めて今思えば、体罰で無くとも指導は可能であったろうし、「良い体罰」と「悪い体罰」の厳密な区別は不可能だということ、そして何よりも、一方的な肉体的力の行使である体罰は、「他者に服従する」という思考・行動様式を植えつけ、それを受けた人は自分より立場が下の者に同じことをおこなう場合が少なくないということです。
30数年間、国民の生活と権利を守る運動をやってきて確信することは、自分の権利の侵害に寛容な人(侵害の受忍を強要される人も含めて)は、多くの場合、他人の権利侵害に厳しい態度を取ることも困難になるということ、そうした人権侵害の「教育」は、平和で民主的な社会の構築を困難にしてしまうだろうということです。
これからの子どもたちの心を体罰で傷つけないために、自分としてできる最大限の努力をおこないます。
最後に、尊敬する尾木直樹さんのコメント(1月11日付、赤旗新聞)
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