関とおるの鶴岡・山形県政通信

安心して住み続けられる山形県をめざして、住民の暮らし、県政の動き、そして私の考えと活動をお知らせします。

宮城喜久子さん亡くなる~ひめゆり学徒と若者の出会いを~

2015年01月08日 | 平和と民主主義・外交

 ひめゆり学徒隊の生存者として戦争体験を語り継ぎ、ひめゆり平和祈念資料館建設に尽力された宮城喜久子さんが昨年末に亡くなったことが報じられました。
 ひめゆり学徒隊の名前はほとんどの方が耳にしたことがあると思いますが、沖縄の地上戦に動員された2つの学校の女子生徒240名のことであり、約3ヶ月間に136名が命を落とした悲劇です。

 2005年の田川地区平和集会「戦争のない平和な21世紀を」に宮城さんをお招きして講演して頂いたことを鮮明に思い出しました。

 お話しは、当時16,17才、戦時下とは言え、青春を共に送っていた学友が目の前で次々と亡くなっていくというものであり、戦争がいかに悲惨なものであるのかを、平和がいかに尊いものであるかを誰の胸にも届くように伝えるものでした。
 私は、様々な戦争体験を文章・写真だけでなく、多くの戦争体験者の方々からも聞いてきましたが、宮城さんのお話しの後、何日も、何週間も、お話しが頭から離れないような強烈な衝撃を受けました。辛いとさえ思いました。

 宮城さんは、著書「ひめゆりの少女」の中に次のようなことを書いています。
 沖縄返還という歴史の転換点の中で強力な説得を受けて決心するまでの27年間、戦場にも、学友の慰霊碑をも訪ねる気にならず、証言活動を始めてからも、「亡き学友の足跡をたどる中で、その死の様子があまりにもむごくて、知らない方がよかったと悔やむことも、しばしばでした」


 しかしそれを乗り越えて、
 「戦争の事実を正しく伝え、その教訓をいまに生かすことがいかに大切かを痛感しながら、自分たちの体験を語ってきました。小さな力でも戦争への歯止めとなるならばと、切なる願いを込めて証言活動をつづけてきました」
 ということなのです。

 「あとがき」の最後に、
 「半世紀前、青春を謳歌することもなく戦場に倒れた、ひめゆりを含む若い学徒たちが、平和へのたゆみない努力の中で、現代の若い人たちと出会えることを、心から願っております」と記しています。

 私は9年前のその日、「ひめゆりの少女」に、宮城さんのサインを私の3人の子どもに宛てて書いて頂きました。


 今、訃報を目にして、すべての子どもたちとその保護者の皆さんに、ひめゆり学徒たちを紹介していきたいという思いを強くしました。

 そして、70年の時を経て、「米軍基地ノー」を総意として固めた沖縄の皆さんと深く連帯した運動を進めることが求められている、そのことを宮城さんは、強く言い残して逝ったと思えてなりませんでした。

宮城さんの証言の感想動画 https://www.youtube.com/watch?v=fZclnyHu4qI
訃報を伝える地元紙  http://michisan1.ti-da.net/e7121979.html

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