@「参謀」。歴史の背景において良い司令官のもとには参謀としての智慧者が必ずいる。歴史書等には多くのそして優秀な「参謀」が見え隠れしているが、その影の立役者資料はほとんど抹消されている。それは「勝者」もしくは「成功者」に隠れ、消されているからである。会津藩士山本覚馬(同志社創立者、40歳で失明、脊髄を傷め要介添え)もそんな先見性を持った才能ある志士だったことがこの書だけでも十分理解できる。さて、その「参謀」たる資質について1、敵も味方の強み弱みもあらゆることを十分理解していること 2、敵の動きを察知して次に何をすれば良いのか洞察力と判断力があること 3、指導者の行動を読み取り、状況判断を予測、有様を的確に伝え、指導者が素早く判断、指示指導できる様に提言出来ること 4、その後ことを予測し、次なる判断・決断できるものを用意していること 時代と共に多少表現のニュアンスが違うかもしれないが現代でも通じる参謀の資質は重要であると思う。 また、参謀は出すぎると失敗することもあり要注意が必要だ。参謀は指導者、リーダーを支え、自分自身も成長しなければ良い結果には恵まれない。 まずは指導者、リーダーの癖など資質を理解しておくことから。
『山本覚馬』安藤優一郎
- 知らざれざる幕末維新の先覚者会津藩士「山本覚馬」
- 1828年に若松城下、砲術指南役山本権八の長男として生まれる
- 23歳松代藩佐久間象山に入門、35歳松平容保と京都守護職に随行
- 37歳目を患う、40歳王政復古、視力を失う、薩摩藩に囚われる
- 40歳建白書「菅見」を薩摩藩に提出、戊辰戦争終結、斗南藩となる
- 41歳完全に失明、脊髄も傷める
- 42歳勧業御用係として京都府に登用
- 47歳アメリカ帰りの新島襄と同志社の準備をする
- 51歳京都府会議委員に当選、初代議長となる
- 57歳京都商工会議所会頭に就任
- 60歳新島襄死去、同志社臨時総長に就任
- 64歳死去、同志社墓地に埋葬
- 「禁門の変」
- 京都の3分の2が灰燼に帰した
- 上京829町のうち176町が類焼
- 家数2万4千5百7104軒のうち5千4百52軒焼失
- 「鶴ヶ城落城」
- 会津藩は陸奥國下北半島に国替え、斗南藩3万石となった
- 「薩摩藩での幽閉」
- 覚馬以外に会津藩士、桑名藩士、旗本、新撰組が収容された
- 幽閉期間は1年間で不自由もなく暮らした
- 「菅見」建白書
- 政体・議事院・学校・変制・国体・建国術・製鉄法・貨幣・衣食・女学・平均法・醸酒法・条約・軍官国律・港律・救民・髪制・変仏制法・商律・時法・暦法・官医の」22項目、特に貿易で日本は立国すべきだと主張した
- 「諸外国が日本を侵略しようとしている時に、国内でお互いに争っている場合ではない」と主張したが拒否された
- 福井藩横井小楠の『国是三論』
- 木綿・生糸・麻・茶の産物販売・輸出で3百万両築いた
- 「勧業基立金」
- 政府からの殖産興業基金10万両で京都復興させた
- 薬剤・石鹸・氷砂糖・ラムネ・リモナーデ・陶磁器・ガラス・ビール・漂白剤、さらに印刷、誠さん、写真技術、西陣織等の輸出
- 「牛乳」
- 京都から牛乳を飲むことを普及させた
- 明治天皇が健康だったのは栄養価が高い牛乳
- 「同志社英学校」
- 1875年生徒数は8名、教師は新島とデイビスの2名
- その後熊本からの生徒が増えた
- 「覚馬」
- 国家単位で物事を考える思考法を3年で習得、政治や国家の行く末を強い関心を抱く幕末維新の志士であった。多くの人脈を築き、明治維新後に近代化の旗手として活躍する基盤となった。