@「勝者の歴史」は大昔から言われたことで、今あるほとんどの歴史書は徳川幕府を倒し明治政府を築いた長州と薩摩下級武士の「成功物語」からというこの書籍。司馬遼太郎等の歴史小説も含めあたかも現場にいたかのような真実味ある様相で描かれている小説、最近の大河テレビにも、また教科書にも真実が隠され間違った歴史を学んでいる事を後悔していないだろうか。歴史書には勝者の偽りも多いのは解っていながら鵜呑みにできない事実を知ると恐ろしくなる。それがこの明治維新後の世界と歴史を作ってきた。ここでは吉田松陰の陰謀が長州藩の下級武士に影響を与え、かつ水戸藩の水戸学たるものがそれを煽り、多くの人々を戦争に巻き込み殺戮を繰り返してきた歴史である。薩摩・長州のクーデターが偽勅により「官軍」に成り代わり惨さを語る「戊辰戦争」、さらに満州含め関東軍の征伐が起こったのは、この陰謀が発端となっている。今まで学校で学んだ歴史、すでに逆説が真実となっている場合もある、は今後どのようなスタンスで次世代の子供達に教えて行けば良いのだろうか。今後新たな真実を語る埋もれた資料が発見され、公開される事を期待したいが、歴史の記憶を大胆に切り替えなければならないかも知れない。
『明治維新という過ち』原田伊織
- 「日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」とは
- 現在の歴史書は「長州・薩摩書いた歴史」である
- 司馬遼太郎の「坂本竜馬」、歴史上の本人の名前「龍馬」ではない
- 小説の「竜馬」として描いたものが日本の歴史となっている
- グラバー商会の営業マンから世に広まった理由(作り話)
- 明治16年から高知新聞の連載小説で有名になる
- 日露戦争で海軍は勝つと土佐出身宮内大臣の作り話
- 昭和37年からの産経新聞に連載された司馬遼太郎の著
- 北海道開拓、カムチャッカからオホーツク占拠を計画
- 琉球を日本領とし、朝鮮を属国、満州、台湾、フィリピンを領有するという侵略妄想を描いていた
- 勝海舟は幕臣であったが薩長に売った張本人である
- 蛤御門の変は天皇に殺意を持った長州テロの攻撃
- 尊皇佐幕派の孝明天皇は岩倉具視らにより毒殺される
- 「廃仏毀釈」とは明治維新であり=伝統文化の崩壊=仏教弾圧
- 水戸学と融合した神道を国教とした
- 興福寺、内山永久寺(現奈良ホテル・奈良公園)が破壊
- 興福寺はその後岡倉天心により復興した
- 「薩長のテロリスト」とは
- 桂小五郎(木戸孝允)、西郷隆盛、大久保利通ら
- 「尊皇」は大義名分であり幕末動乱期を利用した討幕計画
- 明治天皇(幼い朝廷)を利用、偽勅を作った(討幕の密勅)
- 上級公家を排除し「王政復古の大号令」を独断で発した
- 西郷の「短刀1本あれば片がつく」は閣議を脅迫、慶喜を辞任
- 西郷のテロ集団「赤報隊」は江戸で挑発を狙った闇討ちを決行
- 放火・略奪・強姦・凶殺を繰り返した
- 「偽官軍」として下諏訪・桑名で主力隊は惨殺された
- 赤報隊は岩倉具視らに利用され同士に抹殺された
- 島津軍は多くを民を捕縛、南方へ売りさばいていた「戦争奴隷」
- 長州テロ横行を阻止するために会津藩が「京都守護職」になる
- 「勤皇志士」といわれた長州テロ集団は「天誅」という名で多数殺戮
- 桂小五郎(29歳)、吉田松陰、高杉晋作(23歳)、久坂玄瑞(22歳)、井上多聞、寺島忠三郎、吉田稔麿(21歳)、木島又兵衛、赤根武人、仲村九郎、杉山松助、その他討幕を狙い偽勅を出した岩倉と下級公家たちは殺戮・暗殺を繰り返した
- 彦根藩長野主膳と家族の暗殺
- 京都町奉行与力、配下の暗殺
- 京都の商人への略奪、放火、無差別殺人
- 公家と家臣の暗殺
- 学者の暗殺
- (高杉晋作の奇兵隊は暴れ者、ならず者の集まりだった)
- 長州過激派は国許でも目付役の長井雅楽を切腹させた「航海遠略策」
- 新撰組は「池田屋事件」で御所を守った
- 9名死亡、4名捕縛
- その2ヶ月後に「禁裏の御門」が発生、長州藩の御所攻撃開始
- 「尊皇」の名の下に長州藩過激派は御門で無差別殺人を行った
- 「吉田松陰」は長州軍閥の元凶にして日本軍閥の祖山懸有朋の脚色によって出来上がった偽ヒーロー
- 松下村塾は叔父の玉木文之進が創設したもの
- 前原一誠による「萩の乱」は弟子の責任から玉木は自害
- 木戸、高杉も門下生ではなく「尊皇攘夷」での同志
- 松陰松陰の暗殺計画には大老の井伊直弼、間部老中、さらにロシアのプーチャーチン、米国のペリー等も入っていた
- 井伊は松陰の処刑について一旦長州藩に問い合わせた
- 長州藩では松陰の行動を「暴発」、「斬首やぬ無し」と判断
- 侵略を肯定する膨張主義を貫き、戦争に傾いていった
- 「司馬遼太郎」史観の罪
- 幕末・明治・大正、軍部関東軍の暴走は「魔法の森」
- 吉田松陰、勝海舟、西郷隆盛への真実とは違う多くの小説脚色
- 「明治維新」という言葉は昭和になってからの極右勢力の言葉
- 「水戸光圀」の検地で1間6尺3寸を6尺と勝手に変更
- 水戸藩の領土が28万石から36万9千石になる(見栄から)
- 頻繁に「試し斬り」を行い、「女狂い」女遊びも激しかった
- 水戸藩は非常に貧しい藩だったが、光圀から浪費が目立った
- 9代斉昭では9人の側室、子供は37人もいた
- 水戸藩の特徴は誇大妄想、自己陶酔、論理性の欠如であった
- 「鎖国体制」
- 江戸幕府成立後、1609年5百石以上の船保有、製造を禁止
- 最初の軍艦は水戸藩の「旭日丸」が使い物にならなかった
- 「阿部正弘」が残したもの
- 「蕃書調所」世界情勢を収拾する役所
- 「昌平坂学問所」キャリア組・スペシャリストを養成した
- 「戊辰戦争・二本松少年隊と白虎隊」
- 全藩玉砕したのは二本松藩だけで、338名の死亡
- 二本松少年隊62名が参加(12歳から17歳の若者)
- 少年隊は勇敢に戦い死者16名、負傷者6名
- 会津の武士道とは「常に死を前提としたところから始まる」
- 少年隊は1両3分という軍資金をもらうが
- その金は討ち死にした時の埋葬料、回向料として身に着けた
- 世良修蔵なる成り上がりの醜態は極めて極道的であり、最後には仙台藩士によって斬首される(酒、女、支払い、礼儀等の)
- 白虎隊は350名からなり実際6名が飯盛山で自刀した
- 白虎隊の290名は籠城し勇敢に戦った
- 籠城し戦死した遺体等は残酷にも「罪人塚」に埋められた
- 生き残ったのは兵士等3千弱、婦人子供2千名
- 大砲50門、小銃3845丁、槍1320、薙刀81、小銃の弾が25万発残されていた
- 「会津に処女なし」の如く女性は酷い惨劇と惨状となった
- 1868年鶴ヶ城降伏、新政府により尸が1年以上も放棄され、埋葬しようとした庄屋が投獄された
- 「長州の悪ガキコンビ」とは井上馨と伊東博文である
- 山縣有朋が歴史を脚色しているが両名による殺戮も多く残る
- 「戦闘武器の違い」
- ゲーベル銃80〜100mが主流の奥州藩
- スナイドル銃・シャープス銃600〜800m、薩摩・長州
- 使用数は約18万丁もあったという
- 前装軽砲500〜800mが主流の二本松藩
- 後装施条重砲2500〜3000m、薩摩・長州
- 中実弾もしくは榴弾が主流の奥州藩
- 榴散弾(着弾すると破裂する弾)の薩長・長州
- 「三春藩の裏切りと秋田藩の裏崩れ」
- 三春藩は死傷者なく朝廷側につき、秋田藩の降伏で奥州藩乱れ
- 三春藩の裏切りは会津藩の恨みとして近代にも残り伝えられる
- 「斗南藩」1年限りの藩
- 生き残った会津の人々は新天地「下北半島」に流罪となる
- 1万4千名余、その内瀕死、重病者が2400名ほど
- 生活は「オシメ」という昆布やワカメで生き抜いた
- 「西南の役」
- 激闘が繰り返さられ16日間で30数万発の弾丸の激戦だった
- 「田原坂」の激戦は旅順の攻防戦より激しかったと乃木大将
- 結局は西郷の士族不満を表に出した戦いであった
- 明治維新とは薩摩・長州が中心とり「復古」「攘夷」を旗印に徳川幕府・会津・桑名等と戦い、世が開けたとたんに180度転換し、西洋崇拝、廃藩置県、西南の役を迎えた。その後の歴史は、長州藩下級武士が中心となり歴史を作ることとなった。