@このインパール作戦は極めて無謀だった。 それは軍司令は机上の地図から軍令を出すが、前線の現状が掴めないまま強硬に発していた事。また、糧秣補給の困難と武装装備に不足していることは当初から指摘されておりながら最終的には誰も責任を取らず目的を果たせないまま多大な犠牲を払って撤退した事。軍事行動とは一旦発令されると容赦無く机上論理で進行し、停止できなくなる。それは「軍令」(命令に背くことはできない=多勢に無勢)があるから。それと、これは日本独特の「無責任体制」(団体行動に対する)に起因するともある。現代、現政治の年金体制も然り、誰も責任を持たず、机上の数値を単に国民に伝えただけ・・など税金と年金、今後誰が責任を持って政策実行してもらえるのか。意志のある政治家はボランティアでも良いと思うが・・一人当たり所得を含め年間数億円の税金を使えるが、何もしない政治家は必要ない。 机上だけならそれだけで10%の消費税は無くても大丈夫だろう!!(無責任的な発言かもしれないが、また大手企業の税収調査を徹底的に行えば消費税は5%に戻すことも可能だ=「ソフトバンクの法人税は無い」の記事には唖然とした)
『遥かなインパール』伊藤桂一
- 太平洋戦争末期、劣勢の戦局を挽回するべくビルマから東インド・インパールへの侵攻作戦が強行された。多くの人命の損失を招き、日本陸軍史上有数の悲惨な戦いとなったインパール作戦を枠組みに、主力部隊・祭兵団歩兵第60連隊の行動に焦点を絞って、その軌跡を忠実に辿る。風化してゆく戦争の現実と、激戦地に置かれた兵士たちの人間的真実を描き留めた入魂の戦場小説
- 「インパール作戦とは」
- 1944年3月15日に発起、撤退完了までほぼ半年を要した。ビルマ北西部のジビュ山系の西麓を縫うチンドウイン河を渡河して、アラカン山脈(幅2百メートル〜250キロ、標高2千〜3千メートル)を超えてインド領に入り、要衝インパールを占領して戦局を挽回したいとする林集団(第15軍)司令官牟田口中将の構想だった。兵団9個大隊(通常は1万人規模)だが実際はその5分の1の兵で出兵。
- 小銃弾240発、背嚢に160発、それに鶴橋、ショベル総計重量60キロで1日20キロを進む、砲はともかく、重機関銃も2銃しか携行していない部隊、食料は10日分のみ。糧秣のコメは竹の表皮を薄く削り1合を入れ草で蓋をしてそのまま竹の葉の焚き火に入れて炊飯する。岩塩はタオルに包み、菜は粉味噌や粉醤油を水で溶く。
- 敵は英軍人ではなく実際は高賃金と糧秣で雇ったグルカやパンジャンプの山岳民族やインド兵が前線で英軍はその後方にいた。
- 「背景事情」
- 英軍が北部ビルマに侵入、自由インド政府の士気高揚を測るための日本軍部の願いがあったが、牟田口中将の大東亜戦争に成功を納めたいという願望だった。(牟田口中将は日中戦争の発端となった盧溝橋での隊長であり、支那事変など対戦の勃発の遠因を作った)
- 敗戦を目前に行った起死回生の誰もが反対した無謀な作戦であった。それは遠征が限られた兵器と糧秣(実際は現地調達のみ)だけで後方支援・補給は全くなかった。
- 「戦況」
- 時期は雨季で空からの援護も全くない地上戦のみで、昼は敵の陸空からの銃撃戦で身動きが取れず蛸壺にこもり闇の夜襲を基本としていた。敵との戦力比(弾薬、銃器)は1対20、よって指揮官・隊長等は如何にすれば部下を殺されず、弾、糧秣の消耗に耐え、戦えるかを考え前進、戦闘した。実際本多挺身隊は実に6千キロを踏破、弾薬糧秣の不備のまま作戦に参加しており、兵器も日露戦争当時のものを使っていた。6月以降には弾薬も尽き一部の大隊は全滅もあり無謀な作戦を敷いた軍部に対して前線の兵士は不満が上がった。(軍は武器の代わりに馬30等を提供したが山岳では使いもにならなかった)だが軍律を守るため奮闘するがある新たな指揮官は戦闘の経験がなく部下の戦況報告も聞かず、己の成果だけを報告していた。松村部隊は侵攻時2400名いたが戦没者1550名となる。軍司令の今岡参謀は「負けるのはわかっているじゃないか。しかし命令だからやるより他ない」と言った。
- 「結果」
- 砲弾、弾丸、食するものもなく飢餓状態となり万策尽きて撤退する。数千人の兵士は無謀な戦闘で多くが亡くなったが、糧秣が無く餓え等の病気で亡くなった兵も多かった。
- 「食・身なり」
- 火は煙が出ない竹の葉を利用、集落からので軍票との交換でコメなどを得たが、ご馳走はカエル、カメレオン、タニシ、バナナ、野いちご、ミョウガの花、ニンニクなどだった。下痢やアメーバー赤痢、マラリア、栄養失調症患者が増え、糧秣がなくなり塩でさえ舐めない日が21日間続いたとある。インパールへの血道は「白骨街道」と呼ばれ、多くの兵士が体力の限界から道端で倒れ死亡している。また、数知れないシラミが這い回り、服はボロボロ、半身裸、靴は蔦で縛り、裸足の兵も続出、顔色は青ざめ、目には力なく、頰は痩せこけ、頭髪、ヒゲは伸び放題で乞食の有様だった。中には小銃も剣もなく朦朧と歩いている兵もいた。そんな中で軍令部から貧困部隊に対して食料欠乏で軍司令に補給命令を出していたとある。
- 「野戦病院」
- 患者が多く、薬物も衛生材料も無くなり、重症者はそのまま寝かせ死を待つしかなかった。糧秣はお粥(白く濁ったお湯だけ)が唯一であった。