「家族葬」という言葉ができる前から、世間では葬儀に多少の疑問を抱いてたはずです。
バブル全盛期には、故人に関与するすべての団体や地域が葬儀に参列しました。
会葬者、200人~500人の葬儀が普通でしたし、それが葬式だと思っていましたよね。
親しくなくても「顔は出さなくては」「隣が行くならうちも行かなくては」という感覚でした。
葬式の受付は会社や町内対応がほとんどで、大人数がお手伝いに駆り出されましたね。
葬儀費用も300万円以上がざらでした。費用は高額でしたが大抵は香典で賄える時代です
葬儀費用以上の香典が集まり、遺族負担は多くなかったはずです。
それこそ、読経時間帯では会葬が終わらず、料理や返礼品の不足がないか、その対応に葬儀社は注力し遺族対応はそれほど重視されなかったはずです。
また遺族側も会葬者や関係各位に「失礼がないように」することが葬儀の成功と思っていた節があります。
景気が落ちこんで社員の葬儀に人を出す会社も少なくなり、ご近所も縁のない人の会葬にはいかなくなりましたが、葬儀スタイルは依然と変わらぬまま行われてきました。
2010年に「葬儀はいらない」という衝撃的な本が出版され、消費者は今までの葬式に批判の声を上げ始めます。
「費用が高すぎる」
「義理の会葬はいらない」
葬儀を請け負っていた私も「決まり切った形式や費用体系のままの葬儀は遺族の求める葬儀ではない」と感じていたのですから
消費者側がそう考えるのはごく自然な成り行きですね。
こうなるとマスコミの葬儀批判が高まり、葬儀の不明瞭な価格設定やお布施問題などが追及され、葬儀社も小規模な葬儀を考え始め「家族葬」なる言葉が世に出てきました。
しかし「葬儀費用が高い」「顔も知らない会葬者は不用」などの形式ばかりが注目され
故人との別れ方や、遺族の悲嘆などの死にかかわる大切なことは何も語られないままで「葬儀の小規模化」が取りざたされ、とても残念な方向転換だったと私は感じています。
バブル全盛期には、故人に関与するすべての団体や地域が葬儀に参列しました。
会葬者、200人~500人の葬儀が普通でしたし、それが葬式だと思っていましたよね。
親しくなくても「顔は出さなくては」「隣が行くならうちも行かなくては」という感覚でした。
葬式の受付は会社や町内対応がほとんどで、大人数がお手伝いに駆り出されましたね。
葬儀費用も300万円以上がざらでした。費用は高額でしたが大抵は香典で賄える時代です
葬儀費用以上の香典が集まり、遺族負担は多くなかったはずです。
それこそ、読経時間帯では会葬が終わらず、料理や返礼品の不足がないか、その対応に葬儀社は注力し遺族対応はそれほど重視されなかったはずです。
また遺族側も会葬者や関係各位に「失礼がないように」することが葬儀の成功と思っていた節があります。
景気が落ちこんで社員の葬儀に人を出す会社も少なくなり、ご近所も縁のない人の会葬にはいかなくなりましたが、葬儀スタイルは依然と変わらぬまま行われてきました。
2010年に「葬儀はいらない」という衝撃的な本が出版され、消費者は今までの葬式に批判の声を上げ始めます。
「費用が高すぎる」
「義理の会葬はいらない」
葬儀を請け負っていた私も「決まり切った形式や費用体系のままの葬儀は遺族の求める葬儀ではない」と感じていたのですから
消費者側がそう考えるのはごく自然な成り行きですね。
こうなるとマスコミの葬儀批判が高まり、葬儀の不明瞭な価格設定やお布施問題などが追及され、葬儀社も小規模な葬儀を考え始め「家族葬」なる言葉が世に出てきました。
しかし「葬儀費用が高い」「顔も知らない会葬者は不用」などの形式ばかりが注目され
故人との別れ方や、遺族の悲嘆などの死にかかわる大切なことは何も語られないままで「葬儀の小規模化」が取りざたされ、とても残念な方向転換だったと私は感じています。