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ニッポンのゆる~い日常

脱亜論

2029-02-17 23:21:41 | 福沢諭吉〔脱亜論〕
脱亜論(全文)


http://www.jca.apc.org/kyoukasyo_saiban/datua2.html


1885年3月16日、福沢諭吉が「時事新報」紙上に掲載した社説を「脱亜論」と呼んでいる。



 世界交通の道、便にして、西洋文明の風、東に漸し、至る處、草も気も此風に靡かざるはなし。蓋し西洋の人物、古今に大に異なるに非ずと雖ども、其擧動の古に遅鈍にして今に活發なるは、唯交通の利器を利用して勢に乗ずるが故のみ。故に方今当用に國するものゝ為に謀るに、此文明の東漸の勢に激して之を防ぎ了る可きの覺悟あれば則ち可なりと雖ども、苟も世界中の現状を視察して事實に不可ならんを知らん者は、世と推し移りて共に文明の海に浮沈し、共に文明の波を掲げて共に文明の苦樂を與にするの外ある可らざるなり。

文明は猶麻疹の流行の如し。目下東京の麻疹は西國長崎の地方より東漸して、春暖と共に次第に蔓延する者の如し。此時に當り此流行病の害を惡て此れを防がんとするも、果して其手段ある可きや。我輩斷じて其術なきを證す。有害一遍の流行病にても尚且其勢には激す可らず。況や利害相伴ふて常に利益多き文明に於てをや。當に之を防がざるのみならず、力めて其蔓延を助け、國民をして早く其氣風に浴せしむるは智者の事なる可し。

西洋近時の文明が我日本に入りたるは嘉永の開國を發端として、國民漸く其採る可きを知り、漸次に活發の氣風を催ふしたれども、進歩の道に横はるに古風老大の政府なるものありて、之を如何ともす可らず。政府を保存せん歟、文明は決して入る可らず。如何となれば近時の文明は日本の舊套と兩立す可らずして、舊套を脱すれば同時に政府も亦廢滅す可ければなり。然ば則ち文明を防て其侵入を止めん歟、日本國は獨立す可らず。如何となれば世界文明の喧嘩繁劇は東洋孤島の獨睡を許さゞればなり。

是に於てか我日本の士人は國を重しとし政府を輕しとするの大義に基き、又幸に帝室の神聖尊嚴に依頼して、斷じて舊政府を倒して新政府を立て、國中朝野の別なく一切萬事西洋近時の文明を採り、獨り日本の舊套を脱したるのみならず、亞細亞全洲の中に在て新に一機軸を出し、主義とする所は唯脱亞の二字にあるのみなり。


 我日本の國土は亞細亞の東邊に在りと雖ども、其國民の精神は既に亞細亞の固陋を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰に不幸なるは近隣に國あり、一を支那と云い、一を朝鮮と云ふ。此二國の人民も古來亞細亞流の政教風俗に養はるゝこと、我日本國に異ならずと雖ども、其人種の由來を殊にするか、但しは同様の政教風俗中に居ながらも遺傳教育の旨に同じからざる所のものある歟、日支韓三國三國相對し、支と韓と相似るの状は支韓の日に於けるよりも近くして、此二國の者共は一身に就き又一國に關してして改進の道を知らず。

交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非ざれども耳目の聞見は以て心を動かすに足らずして、其古風舊慣に變々するの情は百千年の古に異ならず、此文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云ひ、學校の教旨は仁義禮智と稱し、一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として、其實際に於ては眞理原則の知見なきのみか、道徳さえ地を拂ふて殘刻不廉恥を極め、尚傲然として自省の念なき者の如し。

我輩を以て此二國を視れば今の文明東漸の風潮に際し、迚も其獨立を維持するの道ある可らず。幸にして其の國中に志士の出現して、先づ國事開進の手始めとして、大に其政府を改革すること我維新の如き大擧を企て、先づ政治を改めて共に人心を一新するが如き活動あらば格別なれども、若しも然らざるに於ては、今より數年を出でずして亡國と爲り、其國土は世界文明諸國の分割に歸す可きこと一點の疑あることなし。

如何となれば麻疹に等しき文明開化の流行に遭ひながら、支韓兩國は其傳染の天然に背き、無理に之を避けんとして一室内に閉居し、空氣の流通を絶て窒塞するものなればなり。輔車唇歯とは隣國相助くるの喩なれども、今の支那朝鮮は我日本のために一毫の援助と爲らざるのみならず、西洋文明人の眼を以てすれば、三國の地利相接するが爲に、時に或は之を同一視し、支韓を評するの價を以て我日本に命ずるの意味なきに非ず。

例へば支那朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃む可きものあらざれば、西洋の人は日本も亦無法律の國かと疑ひ、支那朝鮮の士人が惑溺深くして科學の何ものたるを知らざれば、西洋の學者は日本も亦陰陽五行の國かと思ひ、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠も之がために掩はれ、朝鮮國に人を刑するの惨酷なるあれば、日本人も亦共に無情なるかと推量せらるゝが如き、是等の事例を計れば、枚擧に遑あらず。

之を喩へば比隣軒を竝べたる一村一町内の者共が、愚にして無法にして然も殘忍無情なるときは、稀に其町村内の一家人が正當の人事に注意するも、他の醜に掩はれて湮没するものに異ならず。其影響の事實に現はれて、間接に我外交上の故障を成すことは實に少々ならず、我日本國の一大不幸と云ふ可し。

左れば、今日の謀を爲すに、我國は隣國の開明を待て共に亞細亞を興すの猶豫ある可らず、寧ろその伍を脱して西洋の文明國と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣國なるが故にとて特別の會釋に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に從て處分す可きのみ。

惡友を親しむ者は共に惡友を免かる可らず。我は心に於て亞細亞東方の惡友を謝絶するものなり。


 『時事新報』1885(明治18)年3月16日


       







isa訳 脱亜論

http://www.chukai.ne.jp/~masago/isa_datuaron.html


 現在、西洋人の地球規模での行動の迅速さには目を見張るものがあるが、ただこれは科学技術革命の結果である蒸気機関を利用しているにすぎず、人間精神において何か急激な進歩が起こったわけではない。したがって、西洋列強の東洋侵略に対してこれを防ごうと思えば、まずは精神的な覚悟を固めるだけで充分である。西洋人も同じ人間なのだ。とはいえ西洋に起こった科学技術革命という現実を忘れてはならない。国家の独立のためには、科学技術革命の波に進んで身を投じ、その利益だけでなく不利益までも受け入れる他はない。これは近代文明社会で生き残るための必須条件である。


 近代文明とはインフルエンザのようなものである。インフルエンザを水際で防げるだろうか。私は防げないと断言する。百害あって一利も無いインフルエンザでも、一度生じてしまえば防げないのである。それが、利益と不利益を相伴うものの、常に利益の方が多い近代文明を、どのようにして水際で防げるというのだろう。近代文明の流入を防ごうとするのではなく、むしろその流行感染を促しつつ国民に免疫を与えるのは知識人の義務でさえある。


 西洋の科学技術革命について日本人が知ったのはペリーの黒船以来であって、これによって、国民も、次第に、近代文明を受け入れるべきだという認識を持つようになった。ところが、その進歩の前に横たわっていたのが徳川幕府である。徳川幕府がある限り、近代文明を受け入れることは出来なかった。近代文明か、それとも幕府を中心とした旧体制の維持か。この二者択一が迫られた。もしここで旧体制を選んでいたら、日本の独立は危うかっただろう。なぜなら、科学技術を利用しつつ互いに激しく競いながら世界に飛び出した西洋人たちは、東洋の島国が旧体制のなかにひとり眠っていることを許すほどの余裕を持ち合わせてはいなかったからである。


 ここに、日本の有志たちは、徳川幕府よりも国家の独立を重んじることを大義として、皇室の権威に依拠することで旧体制を倒し、新政府をうちたてた。かくして日本は、国家・国民規模で、西洋に生じた科学技術と近代文明を受け入れることを決めたのだった。これは全てのアジア諸国に先駆けており、つまり近代文明の受容とは、日本にとって脱アジアという意味でもあったのである。


 日本は、国土はアジアにありながら、国民精神においては西洋の近代文明を受け入れた。ところが日本の不幸として立ち現れたのは近隣諸国である。そのひとつはシナであり、もうひとつは朝鮮である。この二国の人々も日本人と同じく漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているのだが、もともと人種的に異なっているのか、それとも教育に差があるのか、シナ・朝鮮二国と日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。情報がこれほど速く行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、それでも過去に拘り続けるシナ・朝鮮の精神は千年前と違わない。この近代文明のパワーゲームの時代に、教育といえば儒教を言い、しかもそれは表面だけの知識であって、現実面では科学的真理を軽んじる態度ばかりか、道徳的な退廃をももたらしており、たとえば国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。


 私の見るところ、このままではシナ・朝鮮が独立を維持することは不可能である。もしこの二国に改革の志士が現れて明治維新のような政治改革を達成しつつ上からの近代化を推し進めることが出来れば話は別だが、そうでなければ亡国と国土の分割・分断が待っていることに一点の疑いもない。なぜならインフルエンザのような近代文明の波に洗われながら、それを避けようと一室に閉じこもって空気の流れを絶っていれば、結局は窒息してしまう他はないからである。


『春秋左氏伝』の「輔車唇歯」とは隣国同志が助け合うことを言うが、現在のシナ・朝鮮は日本にとって何の助けにもならないばかりか、この三国が地理的に近い故に欧米人から同一視されかねない危険性をも持っている。すなわちシナ・朝鮮が独裁体制であれば日本もそうかと疑われ、向こうが儒教の国であればこちらも陰陽五行の国かと疑われ、国際法や国際的マナーなど踏みにじって恥じぬ国であればそれを咎める日本も同じ穴の狢かと邪推され、朝鮮で政治犯への弾圧が行われていれば日本もまたそのような国かと疑われ、等々、例を挙げていけばきりがない。これを例えれば、一つの村の村人全員が無法で残忍でトチ狂っておれば、たとえ一人がまともでそれを咎めていたとしても、村の外からはどっちもどっちに見えると言うことだ。実際、アジア外交を評する場面ではこのような見方も散見され、日本にとって一大不幸だと言わざるを得ない。


 もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。「東アジア共同体」の一員としてその繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。日本は、むしろ大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まなければならない。ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならないのだ。この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。

(明治18年3月16日)










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「約束は無効と覚悟せよ」 福沢諭吉が見抜いた韓国の本質

2018-04-16 15:35:44 | 福沢諭吉〔脱亜論〕
「約束は無効と覚悟せよ」 福沢諭吉が見抜いた韓国の本質


https://news.nifty.com/article/domestic/society/12180-657811/


 韓国の不実はいまに始まったことではない。明治の傑出した知識人、福澤諭吉は当時すでにそのことを看破していた。「脱亜論」で彼はなぜ朝鮮を見限ったのか。いまこそその背景にある思想に学ぶべきだ。文芸評論家の富岡幸一郎氏が解説する。

                      * * *


《左れば斯る国人に対して如何なる約束を結ぶも、背信違約は彼等の持前にして毫も意に介することなし。既に従来の国交際上にも屡ば実験したる所なれば、朝鮮人を相手の約束ならば最初より無効のものと覚悟して、事実上に自ら実を収むるの外なきのみ》(『時事新報』明治三十年十月七日)

 これは福澤諭吉の言葉であるが、まさに現在の日韓関係の本質を言い当てているではないか。ただし福澤は決して「嫌韓」論者なのではなかった。後で引く有名な「脱亜論」もそうである。彼は西洋列強のアジアへの帝国主義的な侵略にたいして、明治維新によって近代化の道を拓いた日本こそが、中国や朝鮮にたいして力を貸して共に連帯して抗すべきであると考えていた。

 また亜細亜という言葉から中国(清朝)と朝鮮を同じく捉えていたのではなく、むしろ朝鮮をアジア同胞として清韓の宗属関係から脱却させ日本のように文明化させることの必要性を説き尽力したのである。李氏朝鮮の旧体制(血族や門閥による支配)のままでは早晩、清国やロシアの植民地となり、それはそのまま日本の国難になるからだ。

 李朝末期のこの腐敗した絶望的な国を変革しようとした開化派を福澤は積極的に支援し、そのリーダーであった金玉均らの青年を個人的にも受け入れ指導教育を惜しまなかった。また朝鮮に慶應義塾の門下生を派遣する行動を起こし、清朝の体制に取りこまれるのをよしとする朝鮮王朝の「事大主義」の変革をうながした。


 清仏戦争が勃発し、清国軍が京城から退却したのを機に開化派がクーデターを企てるが(甲申事件・明治十七年)、それが失敗に帰したことから、朝鮮における清国の影響力は決定的となった。福澤のなかにあった日本による朝鮮の文明化の期待も潰えた。

 日本に十年余り亡命した金玉均も明治二十七年上海で朝鮮の刺客に暗殺され、その遺体は無残に切断され国中に晒された。福澤に「脱亜論」を書かしめたのも、朝鮮の開明派、独立派の人々への必死の支援がことごとくその固陋な中国従属の封建体制によって無に帰したことによるものだ。

《我日本の国土はアジアの東辺に在りと雖ども、その国民の精神は既にアジアの固陋を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰に不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云い、一を朝鮮と云う。》(「脱亜論」明治十八年三月十六日)。

 この近隣にある「二国」は、《その古風旧慣に恋々するの情は百千年の古に異ならず……教育の事を論ずれば儒教主義と云い、学校の教旨は仁義礼智と称し、一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として……道徳さえ地を払うて残刻不廉恥を極め、尚傲然として自省の念なき者の如し》




 ◆挑戦への絶望と苛立ち

 
 福澤の文章の烈しさは、そのまま朝鮮の開化を祈念していた彼の思いの裏返しの憤怒であった。しかし福澤は「文明化」自体に絶対的な価値を置いていたのではない。「脱亜論」の冒頭でも「文明は猶麻疹の流行の如し」といい、「有害一偏の流行病にても尚且その勢いには激すべからず」として文明化は利害相伴うものであることも語っている。

 むろん福澤はアジアのなかで唯一文明化に成功した日本を正しい選択であったとしている。大切なのは西洋文明の波がかくも急速に高く押し寄せているときに、旧態依然の「外見の虚飾」を捨てない朝鮮の政体と人民への絶望と苛立ちをはっきりと表明してみせた言論人としての姿勢である。

《左れば今日の謀を為すに我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予あるべからず、寧ろその伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那、朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分すべきのみ。悪友を親しむ者は共に悪名を免かるべからず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。》


 当時も今も国際社会のなかで外交を「謝絶」することはできない。問題は「心に於て」、すなわち日本はユーラシア・中華帝国の膨張の現実を前にして、この世界史に参与すべく如何なる「思想」を自ら打ち建てるかである。



 韓国に関していえば日韓基本条約(一九六五年)で国交正常化をなし、日本から韓国への膨大な資金提供もあり「漢江の奇跡」と呼ばれた経済復興を成し遂げたにもかかわらず、日本のおかげというその現実を認めたくないがために慰安婦問題や戦時徴用工などの「歴史問題」を繰り出し続けてやまない。その国家としての態度に日本は毅然とした「処分」を示さねばならない。韓国がやっているのは、福澤のいうまさに「外見の虚飾のみを事として」の「背信違約」の狼藉三昧である。


 かかる「悪友」への処し方を、われわれは今こそ明治国家の多極的な外交戦略と、その背後にあった福澤諭吉のような近代日本の思想的先達によくよく学ぶべきであろう。



【PROFILE】富岡幸一郎●1957年東京生まれ。中央大学文学部フランス文学科卒業。在学中に執筆した「意識の暗室―埴谷雄高と三島由紀夫」で「群像」新人賞評論優秀作を受賞、文芸評論活動に入る。関東学院大学国際文化学部比較文化学科教授、鎌倉文学館館長。近著に『虚妄の「戦後」』(論創社)がある。

※SAPIO2018年3・4月号










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「軍艦島は地獄島…」韓国映画・絵本が強制徴用の少年炭鉱員を捏造 憤る元島民たち「嘘を暴く」

2017-02-08 09:45:19 | 福沢諭吉〔脱亜論〕
【歴史戦】


「軍艦島は地獄島…」韓国映画・絵本が強制徴用の少年炭鉱員を捏造 憤る元島民たち「嘘を暴く」


http://www.sankei.com/politics/news/170208/plt1702080004-n1.html


「1945年、日帝占領期、われわれはそこを地獄島と呼んだ」

 こんな宣伝文句がつけられた韓国映画のポスターが1月下旬に公開された。映画の題名は『軍艦島』(監督・柳昇完)。「強制徴用」された朝鮮人たちが「生命を賭して脱出を試みる」という映画だ。

 あわせて公表された映画の予告編では、海底炭鉱で腰すら伸ばせないような場所で体を縮ませたまま採掘作業をする朝鮮人少年たち、ガス爆発の危険にさらされながら作業する人たちの姿が映り、そして「ここの出来事を記憶する朝鮮人たちは一人たりとも残してはいけない」という日本語のせりふが流れる。今夏公開予定という。




◇慰安婦の次は…


 映画だけではない。昨年韓国では児童用絵本『軍艦島-恥ずかしい世界文化遺産』(尹ムニョン作、ウリ教育)も刊行された。

 「戦争を引き起こし狂気の沙汰であった日本は、朝鮮半島から幼い少年たちまで強制的に日本に連行したのです。(中略)目的地も告げられずセドリ(主人公の少年の名前)が連れて行かれた場所は、まさに地獄の島『軍艦島』でした」

 映画同様、ここでも「地獄島」という言葉が使われている。絵本では「幼い少年たちが地下1000メートルにまで降りて、日本が戦争の資源として使う石炭を掘らなければならなかったのです」と記している。


 少年たちが鉄格子の檻に収容されている様子も描かれている。


 「少年たちはまさに死の恐怖の中で日々を耐えなければなりませんでした」

 鉄格子の檻の外壁にはハングルで「お母さん、会いたいよー」「おなかがすいたよ ふるさとに帰りたいよー」と書かれている。


 首都大学東京名誉教授、鄭大均はシンクタンク「日本戦略研究フォーラム」の時事論考で「戦時期の日本の炭鉱にあどけない『朝鮮人少年坑夫』など存在しなかったことは関係者なら誰でも知っている」と批判した。


 鄭は絵本になぜ朝鮮人少年が登場するかを次のように分析する。

 「絵本が出た2016年に関係している。朝鮮人慰安婦が『少女像』として脚光を浴びていた時代であり『朝鮮人少年坑夫』はその『少年版』なのだろう」


 戦後、長らく忘れられた存在だった「軍艦島」として知られる端島(はしま)に世界の注目が集まったのは、端島炭坑(長崎市)など「明治日本の産業革命遺産」が15年7月に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産として登録されることが決まったからだ。

 韓国は官民を挙げて阻止に動いた。映画や絵本はその運動の一環だ。こうした「事実と違うことには反論しなければならない」と立ち上がったのが元島民たちだった。




◇「事実と違う」


 1月7日朝。長崎港から約19キロの沖合にある端島に8人の元島民が上陸した。一時雨との予報も出ていたが、空は晴れ上がり、波もほとんどなく、“里帰り”を歓迎しているかのようだった。

 「死ぬ気で来たよ」


 宮崎県在住の元坑内員で朝鮮半島出身者や中国人とも働いた松本栄(88)は冗談を言いながら、娘たちに脇を抱えられながらゆっくり下船すると、眼前に広がる風景に目を細めた。


 軍艦島は面積約6万3000平方メートル。南北に約480メートル、東西に約160メートル、周囲約1200メートルという東京ドームの約1.3個分ほどの大きさの島だ。最初の竪坑建設に着手した1869(明治2)年から、1974(昭和49)年に閉山するまで多くの人が生活した。

 最盛期の人口は約5300人。小さい島の限られた空間を埋めるように日本初の鉄筋コンクリート造りの高層アパートが建設された。当時の東京の人口密度の9倍だったという。




◇有刺鉄線はなかった


 閉山から43年。建物の多くは朽ち、崩壊していた。松本は「この辺には何があったかな」と、時折つぶやきながらゆっくりと島内を歩いた。


 松本が他の元島民らとともに立ち止まった場所があった。かつて中国人労働者が生活していた建物があったという場所の前だ。今は空き地になっている。


 「中国人は100人ぐらいしかいなかった」「ここに200人の中国人が入る家屋があったというが、そんなに多くの人は入らないよ」「1部屋に入るのはせいぜい10人ぐらいだった」

 中国人労働者を閉じ込めるために有刺鉄線が敷かれていたという話もあるが、松本は「有刺鉄線はなかった」と話す。


 朝鮮半島出身者の子供は日本人の子供と同じように学校に通い、机を並べて勉強した。アパート内には朝鮮半島から来た家族も多く入居していたという。


 そのうち、元島民の一人が島の上にある真っ白な灯台を指さした。

 「戦前、端島は不夜城のように明るかったから灯台なんて必要なかった」

 だが、韓国で出版された児童用絵本『軍艦島-恥ずかしい世界文化遺産』には、灯台から3本の光を発している絵が描かれている。「絵本は明らかに事実と違う」と元島民たちは口々に反論した。





◇録画で記憶を残す


 端島を訪問した元島民たちは長崎市内のホテルでほかの元島民らと合流し会合を開いた。出席者からは故郷である端島が国内外にゆがめて伝えられていることへの憤りの声が相次いだ。


 「端島について書かれた本を読むと端島が(ナチス・ドイツによる)アウシュビッツ収容所と同一だと書いてあり、頭にきた。本に書いてある嘘を暴いて、これが真実であると国内外に言わなければいけない」

 「朝鮮人労働者が虐待されたという話ばかり。欺瞞と虚偽と誇張に塗り込まれた記事が横行していることに憤りを感じる」


 「日本は事実を明確にして反論しなければいけない。慰安婦問題もそうだが、日本は事なかれ主義できたが、もう少し毅然と事実を明らかにして言うべきことは言うという姿勢で臨んでいきたい」

 「韓国では端島を『監獄島』『地獄島』と言っているそうだが、われわれはそんなところに住んだ覚えはない。日本で重い罪を犯して無期懲役を受けた者が軍艦島に来ていると書かれているが、私たちは違う」


 真実を伝えるには、端島で生まれ育った自分たちが口を開くしかない。こうした思いに突き動かされた元島民たちは「真実の歴史を追求する端島島民の会」を1月23日に設立した。

 当時のことを記憶する元島民たちの証言を動画で記録するなどして、後世に「正しい端島の歴史」を伝える考えだ。

 炭鉱労働者たちの証言記録を集めている内閣官房参与の加藤康子は会合で「皆さんの一次証言や一次資料が何よりも一番重要な真実を語る。それをそのままの形で残していきたい」と述べ、元島民や家族に協力を求めた。

=敬称略

(有元隆志、田北真樹子)




                          ◇
 



【用語解説】朝鮮人徴用

 端島など「明治日本の産業革命遺産」のユネスコ世界文化遺産登録をめぐり、韓国側は「強制労働」という言葉を盛り込もうとした。だが、徴用は国民徴用令に基づいており、当時の国際法上違法ではなかった。そもそも請求権問題は、1965年の日韓請求権協定で最終的に完全に解決済みである。ただ、日本側は韓国に配慮し「朝鮮半島などから多くの人が意思に反して連れてこられ、厳しい環境で労働を強いられた」と表明した。









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尖閣水域への「中国公船等」の侵入が急上昇 「危機」報じない朝日は中国の挑発を見過ごすのか

2016-09-07 18:27:05 | 福沢諭吉〔脱亜論〕
9月7日付    産経新聞【正論】より


尖閣水域への「中国公船等」の侵入が急上昇 「危機」報じない朝日は中国の挑発を見過ごすのか

防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛氏


http://www.sankei.com/column/news/160907/clm1609070005-n1.html


 尖閣諸島をめぐる情勢が緊迫している。5日の日中首脳会談でも安倍晋三首相が中国公船の領海侵入に自制を求めたが、習近平国家主席の強硬姿勢は変わらなかった。

 中国公船が初めて尖閣諸島を取り巻くわが国の領海に侵入したのは2008年12月だ。ときの政権は自民党の麻生太郎内閣。長期政権をほしいままにした自民党は疲れ切っていた。しかし今日の脅威のレベルは違う。近年の事情を公文書を中心に眺めてみれば、その差が明らかになるであろう。




 ≪融合する中国の「軍」と「警」≫


 今年8月に刊行された『防衛白書』は、中国の「わが国周辺海域における活動の状況」を詳述している。概略を紹介すると、まず「中国海軍艦艇」の活動状況が記述され、「中国公船」の動きが紹介されている。両者の違いを簡単に述べれば、前者は砲などで武装をしているのに対し、後者は非武装であるという点にあるだろう。

 ところが読み進むと、15年12月26日以降には「機関砲とみられる武器を搭載した公船がわが国領海に繰り返し侵入する」事態が生まれ、一般に尖閣諸島近海に派遣される中国公船には3000トン級以上の大型化傾向がみられる旨が指摘されている。かくて「中国公船によるわが国の領海侵入を企図した運用態勢の強化は着実に進んでいる」ものと観測されている。つまり、尖閣周辺海域に出没する中国艦船については「軍」か「公」かの区別をつけること自体、意味のないことになる。


 また、12年10月以降になると、「中国海軍東海艦隊」と「中国海警局」との間に退役艦艇の引き渡しや共同訓練の実施傾向が進みつつあることも指摘されている。このことは、東シナ海をにらんで中国当局が「軍」と「警」の部分融合を図りつつあると解釈できるものと思われる。

 けれども『防衛白書』が指摘しているのは「わが国周辺海域」に見られる中国側活動状況だけでなく、「わが国周辺空域」におけるそれでもある。もっとも「空域」には「軍」と「警」の区別がないので、わが国は自衛隊、中国は空軍が対応することになる。





 ≪急上昇を示す「公船」の侵入≫


 尖閣諸島とその周辺上空について中国国防部は、わが国の自衛隊機が中国機に対して危険な行動をとった旨を発表している。それに対して『防衛白書』では「自衛隊機は国際法及び自衛隊法に基づいて対領空侵犯措置を実施しており、中国軍機に対して挑発的な行為をとったという事実は一切ない」と反論している。ただ、中国との間で見解が一致しない尖閣諸島問題で第一義的に重要なのは、同海域を管轄する海上保安庁の見解でなければなるまい。同庁は尖閣諸島周辺の領海及び接続水域をめぐる情勢をどう見ているのか。


 同庁のホームページで「尖閣諸島周辺海域における中国公船等の動向と我が国の対処」と題されたサイトを見ると、驚くべき折れ線グラフが出てくる。尖閣周辺の領海内および接続水域内に入った中国「公船等」の隻数がそこに表示されている。官庁文書で「等」がつく場合に要警戒なのは常識である。あらかじめ注釈しておくと、そこでの数値には「船」だけではなく「艦」も含まれている。

 12年8月を境目に折れ線は文字通り急上昇する。だからであろう。12年9月からは、尖閣諸島接続水域と領海に入った「中国公船等」の隻数の詳細な記録を一覧表にして発表している。そこから分かるのは、尖閣諸島を取り巻く領海および接続水域への中国公船「等」の立ち入りが、今日に至るまで高水準で一進一退を続けているという事実である。





 ≪挑発をなぜ全て報じないのか≫


 さらに今年6月8日から9日未明にかけて、新たな事態が生まれていた。ロシアの駆逐艦など3隻と中国「軍艦」1隻が相前後して尖閣接続水域を航行したのである。こうなると「軍」ではない海上保安庁では歯が立たないが、別に気になる事項があるため、その問題は横に置く。



 わが国の報道機関は尖閣海域での中国の「公船等」の動きをどう報じているだろうか。問題は尖閣周辺のわが国「領海」と「接続水域」との区別が日常の報道においてどうつけられているかである。念のために言うと、海上保安庁は「中国公船等」のそれらへの立ち入りをその都度、発表している。ほとんどの全国紙はベタ記事であってもそれを紙面化している。



 ところがそうではない新聞もある。朝日は主として政府関係者の発言を間接的に引用する場合を除いては、「中国公船等」の尖閣周辺水域への立ち入りを報じない。これはおかしい。尖閣周辺水域への立ち入りとは、いわばわが国の門前をウロウロするようなもので、その背後には必ず然(しか)るべき秘められた意図がある。それは領海侵入のための中国側の予行演習なのかもしれない。


 朝日の報道姿勢は私には特異に映る。中国の挑発行為を見過ごすのは何か思惑でもあるからなのか。不思議な新聞である。防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛(させ まさもり)









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