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ニッポンのゆる~い日常

樺太を露領と認めたのはいつか  

2009-02-17 09:18:12 | 正論より
2月17日付  産経新聞より


樺太を露領と認めたのはいつか  東京大学名誉教授・小堀桂一郎氏
 

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090217/plc0902170324002-n1.htm


≪首相の決意もむなしく≫

 米国に史上初の異色の大統領が登場し、その政治がいよいよ開始されたことから、報道界や論壇の耳目はそちらに集中し、我が国内の重要な問題に向かふべき注意が疎(おろそ)かになつてゐる嫌ひがある。

 2月7日の北方領土の日に開催された北方領土返還要求全国大会に麻生首相が出席し、領土問題の最終解決に向けての決意表明をされたのは結構だつたが、その姿勢を支持乃至(ないし)批判する様な論壇の関心が特に紙上に見受けられたわけでもない事に、或(あ)る淋(さび)しさを覚える。

 建国記念の日の祝賀式典について、政府が此事に寄せる公的な祝意が数年来次第に稀薄(きはく)になつてゆく現状に対しては当日の本紙「主張」が憂慮を表明してゐるし、筆者も昨年のその日付の本欄で「国民的団結」と「主権の尊厳」といふ契機を焦点としてこの祝日の意義を再考し、それを実践的な行動に反映させる事を訴へた。この二つの契機を殊に本年北方領土問題を考へるための踏台として再認識することを再度訴へたい。

 麻生首相はメドべージェフ大統領の招待に応じて、領土問題についての会談のためサハリン(樺太)を訪問するといふ。その積極的姿勢は一応評価に値するが、然(しか)しそれには、本紙2月7日付の主張が述べてゐる如(ごと)く〈日本は戦後、サハリンを放棄はしたが、その帰属がロシアにあるとは認めていない。首相訪問はそれを自ら認めることになる〉との危惧(きぐ)の声が生ずるのも当然である。

 ところで、筆者の本日の意見はそこに関はつてくるのだが、本紙の翌8日付第2面の記事にも見えてゐるこの危惧の念と警告は、もはや手遅れといふべきではないか。

 ≪「実効支配」で片づける≫

 何故ならば、平成13年1月の事、日本時代の豊原市、現在サハリン州の州都になつてゐるユジノサハリンスクに、日本政府は総領事館を設置してゐる。領事館を開設したといふことは、日本政府がその地をロシア領であると認めての上であると解されるのだから、日本外務省は麻生氏の訪問に俟(ま)つまでもなく、サハリンがロシア領である事を既に認めてしまつてゐるのである。〈その帰属がロシアにあるとは認めていない〉といふ本紙の主張は、他ならぬ我が外務省によつて夙(つと)に否定されてゐる事になる。

 最近或る知人から工藤信彦著『わが内なる樺太』といふ論著の存在を教へられた。工藤氏は樺太生れで戦前から戦後にかけての樺太といふ島の歴史と運命を極めて着実に考察してきた人の様であるが、平成13年のサハリンでの総領事館開設(駐在事務所の昇格)事件の不条理を「樺太連盟」の機関紙で直ちに広く訴へたのに、それは政界からも学界・言論界からも何の反響も得られなかつたらしい。氏が外務省国内広報課に見解を質(ただ)したところ、返つてきた答の中に〈サハリンにおけるロシアの実効支配が長く、現在では外国人の出入りが認められ〉云々(うんぬん)との説明があつた由である。

 ≪主権感覚の無残な欠如≫

 この説明に少々注釈をつけるとすれば、この〈実効支配〉の一語こそは所謂(いわゆる)「既成事実への屈服」といふ日本の外務省に特徴的な心的機制の修辞であり、しかもそれは客観的にその実在を認めざるを得ない確たる事実についてとは限らず、相手が政治的意図を以て造り出してゐる虚構を、それと戦ふだけの努力を厭(いと)ふが故に偽善的に公正を装つて認めてゐるといふ場合が多い。竹島の不法占拠に毅然(きぜん)たる対応ができないのも、実効支配といふ擬装に怯気(おじけ)づいて、屈服といふよりは横着を決め込んでゐるだけである。

 「従軍慰安婦」問題といふ露骨な虚構による恫喝(どうかつ)に脆(もろ)くも屈服して謝罪談話を出し、国家国民全体の名誉を敵に売渡して自己一身の安泰を図つた政治家の醜行も同じ横着に発する。因(ちな)みに当時のイワノフ露国外相と水面下の取引をしてサハリン領事館の開設を企んだのは「従軍慰安婦」問題で国民の顔に泥を塗る罪を犯した男と同一人物である。

 金持ち喧嘩(けんか)せずといふ俗諺がある。紛争の負担を避けるためには謂れなき侮辱や不利益を忍ぶ方がよいといふ選択は、私人の次元でならばそれも又宜しといふ場合があり得よう。然し、国家の名誉と尊厳とに責任を有する、外交折衝の現場の人間がその選択をするといふのは端的に売国奴の所業である。サハリン領事館開設事件が広く一般の認識に達してゐなかつたのは、当事者が己の売国的行為に対する疾(やま)しさを自ら感じてゐて、出来る限りその始終を人眼から隠す工作をしてゐた故ではなかつたか。国家主権の尊厳についての感覚の無残な欠如である。建国記念の日の意義をめぐつての深刻な憂慮のたねが又一つ増えた。

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改正国籍法悪用

2009-02-13 14:24:16 | 支那(中国)
服役中に勝手に子供を「認知」 偽装の中国人夫婦ら逮捕


http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090213/crm0902131246013-n1.htm


 服役中の日本人男性を父親とする認知届を勝手に提出し、子供に日本国籍を取得させようとしたとして、警視庁組織犯罪対策1課と池袋署は、公正証書原本不実記載などの疑いで、いずれも中国籍で東京都豊島区池袋の無職、王宗容疑者(29)と夫の沈楠容疑者(28)、足立区西新井本町のブローカー、郭清清容疑者(34)を逮捕した。3人はいずれも容疑を認めている。郭容疑者は「沈容疑者から頼まれた」と犯行を主導したことを否認しているという。

 同課の調べによると、3人は、王容疑者と沈容疑者との間にできた子供に日本国籍を取得させようと、日本人の男(56)名義の認知届を偽造し、昨年1月22日、東久留米市役所に提出。子供が生まれた後の2月8日、足立区役所に出生届を提出し、職員に男性を父親とする虚偽の戸籍を作らせた疑いがもたれている。男は傷害罪で服役中で、認知届が出されていたことを知らなかったという。

 同課がDNA鑑定を行ったところ、「男は子供の父親ではない」との結果が出た。DNA鑑定で偽装認知の裏付けを取ったのは極めて珍しいという。


 同課によると、郭容疑者は在日中国人向けの新聞に広告を出し、行政相談にのっていた。この男と中国人の女を偽装結婚させたとして、郭容疑者や男が昨年10月に電磁的公正証書原本不実記録などの疑いで逮捕され、調べの中で男を父親とする偽の認知届が出ていたことが分かった。沈容疑者から「子供に日本国籍を取らせたい」と相談を受けた郭容疑者が、男の名前を使って認知届を出させることを指南したとみられる。

 王容疑者らは「子供に日本国籍が与えられれば、日本の教育が受けられる」などと供述しているといい、同課は子供に日本国籍を取らせた後、自分たちも永住資格を取得しようとしたとみて調べている。

 国籍法では、結婚していない日本人男性と外国人女性の子供に日本国籍を取得させるには、出生前に日本人男性が認知するか、出生後に結婚することが必要だった。しかし、今年1月に施行された改正国籍法では、婚姻関係がないままでも、出生後の認知で日本国籍を取得することができるようになった。同課は「法改正を悪用し、偽装認知が増える可能性もある」と警戒している。








この事件ではDNA鑑定をしたことで偽装が発覚しましたが

改正国籍法ではDNA鑑定は必須用件とはなっていません

悪法を通してしまったツケがこれから出てくることになるんでしょう

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歴史観持ち使命果たせ

2009-02-12 09:39:56 | Weblog
2月12日付  産経新聞より


歴史観持ち使命果たせ    桜井よし子氏

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090212/plc0902120315001-n1.htm

 麻生太郎首相は、満身創痍(そうい)である。

 麻生政権の衰退は自民党の衰退とピッタリ重なる。衰退の原因は自民党らしさを失ったことである。同党の党是である憲法改正は、平たくいえば、自国と自国民の安全と安寧を、自力で守る力を備えるということだ。

 党の再生、麻生政権の生き残りは、こうした自民党らしさをいかに取り戻すかにかかっている。いま、最も切実に問われているのは、国民の前に本来の価値観を取り戻す決意をいかに示すか、その決意を信じてもらえるいかなる手を打つかである。

 文字どおりの崖(がけ)っぷちにもかかわらず、首相が問題視する事柄の、なんと皮相なことか。郵政民営化にどの時点で賛成に転じたか、そのことに関して濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)だと訴えている余裕など、ないであろう。首相の最大の問題は、己も党も日本全体も、その置かれている状況がいかに深刻かを読みとれないでいることだ。

 明らかに首相には歴史観が欠けている。個人、党、そして日本の歴史。首相の言葉にあらゆる歴史観の欠如を感じるのだ。

 これまでにも、当欄で問うてきた。首相はなんのために政治家に、そして、首相になったのか、と。また、首相就任が決定した瞬間に、祖父、吉田茂に言及したのは、いかなる理由だったのか、と。首相を支持してきた人々、自民党を支持してきた有権者のためにも、首相自身がいま一度、自らの責任と使命について考えるべきだ。



 まさか、家業を継ぐような気持ちで、政界入りしたのでも吉田に言及したのでもあるまい。戦後日本の国家基盤を整えるにあたって、吉田の犯した判断の誤りゆえに、その後今日に至るまでの気の遠くなるような長きにわたる日本国の深く絶望的な懊悩(おうのう)を解消したいと、首相は考えたのではないのか。その想いゆえに、外相時代に、「自由と繁栄の弧」の外交戦略を打ち出したのではなかったのか。

 それとも、麻生外交戦略の背景に、日本国の未来に関しての、祖父の真の想いを実現したいとの切望があったと見るのは、完全なる読み違いなのか。首相はただの漫画本読者にすぎないのか。

 思えば、吉田の率いる約60年前の日本は、ラスク国務次官補らから「精神力の再生がない」(『日米同盟の絆』坂元一哉、有斐閣)などと蔑視(べっし)されても、尚、「非常にゆっくり」再軍備するとして、米国の要求を退け、当面の力を経済に注いだ。吉田への後世の批判につながるその判断を、吉田自身が誤りだと吐露している。だが、過日、大阪大学教授の坂元一哉氏がサンフランシスコ平和条約に関して吉田を高く評価した。「今あらためて問う!東京裁判」のシンポジウムでのことだ。

 周知のように、同平和条約11条の「連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し」という文言は現在に至るまで、靖国神社にいわゆるA級戦犯を合祀(ごうし)していることの是非や、日本が受け入れたのは東京裁判の判決なのか、東京裁判自体なのかという議論の原因となっている。

日本が受け入れたのは判決であって、同裁判を貫く価値観などではないのだが、この文言は、実は英国が強力に主張して盛り込んだというのだ。米国の原案にはなかったのだが、英国が日本に対して突きつけた非常に厳しい懲罰的な案の名残だったと、坂元教授は指摘したのだ。英国案の骨子はざっと以下のとおりである。

 日本がドイツなどとともに、侵略戦争を遂行した戦争責任を負っていることを、平和条約前文に明記する。国内の右翼団体を取り締まり、連合国に協力した日本人への迫害を禁止する。領土条項では沖縄の主権を放棄させる。こうした内容の条約の発効には、日本の批准を必要としない旨、規定する。

 「絶対極秘」の条件で、英国案を米国から見せてもらった日本政府は、猛反発した。吉田は、勝者が敗者に押しつける形で平和条約を結ぼうとすることの非を鳴らして、平和条約を現在の形に押し戻した。結果として出来上がった条約を読めば、日本の戦争責任を追及する内容ではないこと、日本国の名誉が守られた内容であることが明らかだ。

 吉田は英国の要求を退け、過去にとらわれ呪縛(じゅばく)を受けるような条約を回避した。日本を代表して行った平和条約受諾演説で、吉田は誇り高く新生日本の平和への抱負を語った。このことを坂元氏は高く評価したのだ。

 ところが、「日本の外務省は義理堅いのか」、英国案についても吉田以下日本政府の巻き返しについても、日本外務省は公表しないできたという。


それでも、真実は時間に洗われて、その姿を顕(あら)わしてくる。国家の基盤である軍事力の否定で批判されてきた吉田も、このように、国益のために重要な闘いを勝ちとっていた。歴史上のこうした事実が、政治家の価値を定めていくのだ。

 麻生首相の政治家としての価値こそ、いま厳しく問われている。極まる低さの支持率を思い悩んではならない。眼前の自身の毀誉褒貶(きよほうへん)や評価を離れることだ。その上で、家族の歴史と国家の歴史の中に己を位置づけて、自分に課せられた責任を果たすことだ。それができるか否かによってのみ、真価が定まっていく。使命の筆頭は、9条の実質的改正につながる集団的自衛権の行使以外にない。ソマリア沖の海賊対策こそ、首相に使命を果たさせるべく天が用意した危機だと思えてならない。




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非核三原則 (下)

2009-02-12 09:27:23 | Weblog

2月12日付 産経新聞  詳説・戦後より



非核三原則(下)核武装は「議論も封印」

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090211/plc0902112101015-n1.htm


■核武装は議論も封印

 日本自身の核武装も議論すべきだという問題提起は、国会議員の間でしばしば行われてきたが、その度に問題化し、議論そのものが封じ込められてきた経緯がある。

 平成11年10月、小渕内閣の防衛政務次官だった西村真悟は週刊プレイボーイ誌で、核武装の可否について「国会で検討してはどうか」と発言し、辞任に追い込まれた。西村は核武装の議論自体が封じられてきたことを「情けない。マスコミは何で騒ぐのか、分からないまま大騒ぎを繰り返す」と嘆く。

 14年2月には、小泉内閣の官房副長官だった安倍晋三が早大での講演で「非核三原則があるからやらないが、(小型の)戦術核を使うことは昭和35年の岸信介首相の答弁で『違憲ではない』とされている」と述べた。安倍は「自衛のための最小限の核兵器保有は憲法上、許される」という政府見解を紹介したにすぎなかったが、サンデー毎日は「ものすごい中身」と取り上げ、騒ぎとなった。

 安倍は今、「私の発言に驚いた人は勉強不足で情緒的だった。核兵器はその抑止力や役割、機能を現実的に評価・認識した上で、削減・廃棄を追求していかないといけない。だが、日本ではそうした冷静な分析、戦略的な議論もできない」と語る。

 14年4月には、自由党党首の小沢一郎が講演で、軍事力増強を続ける中国を批判する文脈で「(中国が)あまりいい気になると日本人はヒステリーを起こす。日本がその気になったら一朝にして何千発の核弾頭ができる」と述べた。

 さらに5月、小泉内閣の官房長官だった福田康夫がオフレコ懇談の席上、「憲法も変えようという時代だから、非核三原則も、国民が(核を)持つべきだとなったら、分からないかもしれない」と述べ、野党などから批判を浴びた。

 北朝鮮が計7発の弾道ミサイルを発射した18年、自民党政調会長の中川昭一が10月のテレビ番組で「非核三原則は守るが、議論は大いにしないと」と述べて問題化した。このとき、外相の麻生太郎は「論議することまで止めるのは言論封殺といわれる」と擁護した。中川は「最近の日本は非核三原則ではなく、『言わせず』、『考えさせず』を加えた非核五原則となっている」と語っている。


 ■非核三原則には「法的根拠」があるか

 非核三原則は憲法や法律に明記されておらず、基本的には政府の方針にすぎない。三原則のうち「つくらず、持たず」の憲法との関係については、「自衛のための必要最小限度を超えない実力を保持することは、核兵器であると通常兵器であるとを問わず、9条2項の禁ずるところではない」というのが政府の解釈だ。

 法律としては、原子力基本法2条に「原子力の研究、開発および利用は、平和の目的に限り…」と明記。条約上は、日本は米、英、仏、露、中5カ国以外の核兵器保有を禁じた核拡散防止条約(NPT)に加盟している。仮に日本が核兵器を製造、保有するなら同法は改正し、NPTを脱退しなければならない。

一方、「持ち込ませず」については法律上も条約上も何ら規定はない。


■中国は818発の核ミサイル 日本周辺の核の脅威

 日本は周囲を核保有国に囲まれている。

 英国の国際戦略研究所(IISS)の年次報告書「ミリタリー・バランス」などによると、ロシアは3506発の核弾頭と760基の核ミサイル、中国は核弾頭数は不明だが、818基の核ミサイルを保持。日本に届く中国の大陸間弾道ミサイル(ICBM)は20基、中距離弾道ミサイル(IRBM/MRBM)は35基で、核兵器を搭載して日本に飛来可能なH6中距離爆撃機も100機以上にのぼる。

 一方、平成18年10月に核実験成功を発表した北朝鮮は、日本のほぼ全土を射程に収める弾道ミサイル・ノドンを90基以上配備。さらに射程の長いテポドン1号、グアムやアラスカなど米領土の一部も射程に入るテポドン2号を開発中で、核弾頭の開発・搭載に成功すれば日本にとっては大きな脅威となる。


 ■そもそも日本の核武装は可能なのか

 日本の核武装は可能なのか。政府部内で非公式に検討が行われたことがあった。平成18年9月20日付で作成された「核兵器の国産可能性について」と題する内部文書は「小型弾頭を試作するまでに最低でも3~5年、2000億~3000億円の予算と技術者数百人の動員が必要」と結論づけている。

 それによると核弾頭の材料は広島型の高濃縮ウランか、長崎型のプルトニウムが想定される。国内には青森県六ケ所村の日本原燃ウラン濃縮工場や茨城県東海村の日本原子力研究開発機構東海事業所といった施設があるが、いずれも軽水炉用で、核兵器級の原料をつくるのは事実上不可能または現実的ではないという。

 原材料をつくれたとしても、起爆可能な核弾頭にすることができるか。「日本の技術力では十分可能」だが、「核実験をせずに完成させるには、時間と費用がさらにかさむ」という。

 核軍縮・不拡散が専門の秋山信将(のぶまさ)一橋大准教授(国際政治)は「北朝鮮のような瀬戸際的核政策をとるならまだしも、数百発の核を持つとされる中国などに対し、日本単独で抑止能力を構築しようとすれば、相当規模の核戦力が必要で、それを整備するための期間、コストは想定しようもない」という。核武装に伴い核拡散防止条約(NPT)を脱退すれば国際的に大きな批判や制裁を受けることが想定される。秋山氏は「現状で日本が核武装するメリットは安全保障上も、外交上もない」と語る。


 ■佐藤・マクナマラ会談では何が?

 佐藤・マクナマラ会談 昭和40(1965)年1月、佐藤栄作首相が初訪米した際、マクナマラ米国防長官と会談。マクナマラ長官は前年10月の中国の原爆実験成功に触れ、「今後2、3年でいかに発展するか注目に値する」と指摘、「問題は日本が核兵器の開発をやるかやらないかだ」と述べた。佐藤首相は「日本は核兵器の所有あるいは使用について反対だ」と強調。そのうえで「戦争になれば話は別で、米国が直ちに核による報復を行うことを期待している」とし、「(日本の)陸上に核兵器施設を造ることは簡単でないかもしれないが、洋上のものならば直ちに発動できるのではないか」と述べた。







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非核三原則 (上)

2009-02-12 09:17:23 | Weblog

2月12日付 産経新聞  詳説・戦後より



非核三原則 (上) 直前まで迷った佐藤首相 沖縄返還交渉で正念場

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090211/plc0902112057014-n1.htm


平成20年12月に公開された外交文書で、昭和40(1965)年に佐藤栄作首相がマクナマラ米国防長官との会談で、海上の核兵器持ち込みは容認する発言をしていたことが明らかになり、非核三原則が改めてクローズアップされた。佐藤首相が42年12月、小笠原諸島返還にあたって「核兵器をつくらず、持たず、持ち込ませず」と答弁したのが三原則の始まりで、後の沖縄返還でも適用された。歴代内閣が踏襲した三原則の中でも「持ち込ませず」は有名無実化しているとされ、核武装の是非をめぐる論議も残る。非核三原則表明の経緯を探り、その意義を検証する。(高橋昌之、阿比留瑠比、赤地真志帆)

 ■表明と懸念

 昭和42年12月11日、衆院予算委員会。首相の佐藤栄作と社会党委員長の成田知巳との間で、小笠原諸島返還に際しての核の取り扱いをめぐり、緊迫した質疑が行われた。「従来の方針が変わったのか確認したい」と迫る成田に、佐藤は「本土は核の三原則、核を製造せず、持たない、持ち込みを許さない。(小笠原諸島も)その本土並みになる」と答弁した。成田が「大きな声を出さなくていい」と制するほど、佐藤は力を込めた。これが後に定着する「非核三原則」となった。

 三原則は43年1月27日の施政方針演説にも盛り込まれたが、「持ち込ませず」については佐藤自身、直前まで迷った。26日の閣議。演説原案をめぐる議論は1時間にわたった。原案は「持ち込ませず」を盛り込んでいなかったが、運輸相の中曽根康弘らは「核保有せぬだけでなく、持ち込みなど非核三原則をはっきりと書くべきだ」と主張。自民党役員会も「非核三原則を強く打ち出すべきだ」との結論を出し、佐藤は同日午後に「持ち込ませず」を盛り込むことを決断した。首相秘書官だった楠田實は「楠田實日記」(中央公論新社)に「『保有せず』ですべてが尽きており、非核三原則はそもそもセンチメントの問題だから、施政方針演説に入れる必要はないはず。だが総理も、皆がそう言うならそうしようと折れる」と記している。

 楠田は日記に「非核三原則が佐藤内閣の政策である限り問題はないが、国の政策になって縛られると、沖縄の交渉に大きな障害になる懸念もあった」とも書いている。演説終了後、自民党国対副委員長の竹下登が「非核三原則は評判がいい。社会党から国会決議にしようという提案があるが」と相談に来たが、楠田は「返事は保留してください」と答えた。

 当時、外務省アメリカ局参事官(後に駐米大使)だった「世界平和研究所」理事長の大河原良雄(89)は「米国は小笠原には核兵器を配備していなかったと思われ、小笠原返還交渉の際には核の問題は交渉上の難点にならなかった。しかし、沖縄は米国にとって重要な軍事拠点で、三原則は返還交渉を難しくさせた」と解説する。


■決心

 事実、44年から本格化した沖縄返還交渉では、核の取り扱いが最大の焦点になった。1月5日、帰国した駐米大使の下田武三は佐藤に「米国務省の意見は、これ(核抜き本土並み)では沖縄返還交渉は難しいという状況です」と報告した。佐藤は「まとまらんでもまとまっても『核抜き本土並み』でいかなければだめだ」と強く指示し、下田は「成否は別として最善を尽くします」と答えた。

 しかし、佐藤は「核抜き本土並み」に踏み切れずにいたようにも見えた。30日の衆院代表質問で、社会党の成田が「沖縄返還では非核三原則を適用するか」とただしたのに対し、佐藤は「国内の議論も2つに分かれてきている。沖縄の米軍基地は将来本土並みになる保証さえあれば、返還実現が先決という意見。次は返還時期は遅れても核兵器は認めないという意見であります」と答えた。「早期返還なら核付き。核抜きなら返還は遅れる」という二者択一を掲げたのだ。

 その佐藤も2月に入り腹を固めた。当時、外務省北米局長だった東郷文彦の著書「日米外交三十年」(中公文庫)によると、佐藤は東郷に「返還の形式は事前協議を含め本土並みという形をとりたい。どうしても問題が残るという場合は重大な決心をする」との意向を伝えたという。

 そして3月10日の参院予算委員会。社会党の前川亘の質問に、佐藤は「核の持ち込みをするな、許すな、これが非核三原則だから、十分心得て(沖縄返還を)交渉したい」と述べた。ルビコン川を渡ったのだ。官房長官の保利茂もその後の記者会見で「返還後の沖縄には非核三原則が適用される」と明言した。佐藤が沖縄返還で非核三原則にこだわったのは、45年の日米安保条約改訂で「自動延長」を打ち出し、世論の理解を得るうえでも必要だったという側面がある。こうして、非核三原則は当初の佐藤の意思を超えて、政府の方針として根付いていった。

 ■返還合意

 11月19日、佐藤は訪米して大統領のニクソンと会談、沖縄返還交渉はヤマ場を迎えた。共同声明では沖縄返還を打ち出す予定になっていたが、核の部分は事前折衝で詰められず、両首脳は複数の案をもって臨んだ。佐藤は声明案について「総理大臣は核兵器に対する日本国民の特殊な感情およびこれを背景とする日本政府の政策について詳細に説明した。これに対して大統領は深い理解を示し、沖縄の返還を右の日本政府の政策に背馳(はいち)しないよう実施する旨を総理大臣に確約した」というA案を提示。しかし、ニクソンの案には「緊急時において沖縄の米軍基地の機能を損なわない」との文言が入っていた。



 このため、佐藤は「そのように表現することは非常に難しい」と、B案を示した。それは「…大統領は日米安保条約の事前協議制度に関する米国政府の立場を害することなく、沖縄の返還を右の日本政府の政策に背馳しないよう実施する旨を総理大臣に確約した」というものだった。ニクソンは「この表現なら米国民を納得させる用意がある」と同意。「重要な装備の変更の場合は事前協議を行う」という前提を盛り込むことで、日米双方が納得したのだ。

 ■見直し

 47年5月、沖縄は日本に返還され、佐藤は49年12月10日、非核三原則の表明・堅持でノーベル平和賞を受賞した。記念講演で佐藤は「日本のいかなる政府のもとにおいても、この政策(非核三原則)が継承されてゆくことを信じて疑わない」と強調した。

 その言葉通り、歴代内閣は非核三原則順守を表明してきた。しかし、三原則のうち「持ち込ませず」は、日本側が「事前協議がない以上、核は持ち込まれていない」との見解を示し、米国側は「軍事機密上、核兵器はあるともないとも言えない」とすることで成り立っている。

 「日米間の了解の下、米海軍の艦船が核兵器を積んだまま日本に寄港していた」という元駐日大使のライシャワーの発言などからすれば、日本に寄港する米艦船に核兵器が搭載されている可能性は否定できない。

 世界平和研理事長の大河原は指摘する。

 「米国の核抑止力に依存している以上、持ち込みも許さないというのは安全保障上、論理的にはおかしい。非核国家としてあり続けながらも『持ち込ませず』については見直しがあっていい」。



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「空母建造」と中国の軍事戦略

2009-02-04 09:03:02 | 正論より
  2月4日付  産経新聞より
 
    平松 茂雄氏
 
http://sankei.jp.msn.com/world/china/090204/chn0902040305000-n1.htm

≪「政治的威嚇力」に重点≫

 1958年夏の「金門砲撃」で、米国が空母を派遣して台湾海峡の緊張が著しく高まったときに、毛沢東が語った言葉がある。

 「米国は6隻の空母のうち3隻も寄こした。6万トンの大きなのもあった。120隻を数える艦艇からなる最強の艦隊ということだ。しかしどんな艦隊を集結させても、われわれは歓迎する。どっちみち役に立たない。軍艦は、海の上でのみ使えるのであり、陸に上がってこられない。海岸線に並べるだけだ」

 この言葉を文字通りに受け取ると、空母を否定したともとれる。だが、それは表面的な受け取り方であり、毛沢東は空母が政治的威嚇力であることを十分に認識していたばかりか、空母保有の意思を伝えた重要な発言だった。

 毛は建国以後の数年間に、朝鮮戦争、インドシナ戦争、蒋介石軍との2回にわたる戦争と、何度も米国の核威嚇を受けた。核兵器は、見かけは強そうでも実際には使えない「張り子の虎」と揶揄(やゆ)していたが、実際は、威嚇して相手を屈服させる兵器として重要視し、原子力潜水艦を含む核ミサイル開発を決断した。

 同じ時期に中国は米国の空母による威嚇を何回も受けていた。「空母は陸に上がってこられない」は、「核兵器は張り子の虎」に通じるのである。

 ≪2050年への長期展望≫

 中国の核ミサイル開発は通常戦力の近代化を後回しにして進められた。1964年10月、東京五輪の開催中に最初の核爆発実験を敢行する。5年半後の70年4月、人工衛星が打ち上げられ、日本を含む周辺諸国を威嚇できる中距離弾道ミサイルの開発に成功したことが明らかとなった。さらに80年5月、南太平洋のフィジー諸島近海に向けて大陸間弾道ミサイルが発射されて、地上発射弾道ミサイルがひとまず完成した。

 原子力潜水艦の開発には困難があったようで大幅に遅れ、外洋航海訓練に成功したのは86年12月だった。

 中国は現在でも原子力潜水艦を含む核ミサイル戦力の精緻(せいち)化に懸命になっている。80年代中葉、21世紀を見据えた「国防発展戦略」といわれる遠大な軍事戦略が提示された。核ミサイル戦力の下で、限定的な、だが水準の高い通常戦力の現代化が進行している。

 それと関連して「海軍発展戦略」が作成され、具体化されている。そのなかで初めて公式に、航空母艦の保有が明らかにされた。

 (1)2000年までに、各種艦艇の研究開発・建造と人材の育成を進める。(2)2020年までに、大陸基地発進の中距離航空機部隊と攻撃型通常潜水艦を主要な攻撃力とし、ヘリコプター搭載中型水上艦艇を指揮・支援戦力とする。(3)2050年までに、航空母艦を核とし、対空・対水上艦艇、対潜水艦作戦能力を持つ水上艦艇と潜水艦を配備した機動艦隊を保有する。

 これに基づき、空母保有計画が具体化してきている。

 ≪「海洋の時代」にらんで≫

 70年代から80年代にかけ、中国はフランス、イタリアなどから空母建造に関連した兵器・技術を導入した。並行して、地上に設置された模擬空母甲板で、海軍航空部隊の発着訓練が実施され、空母保有に向けて着実に進んでいることが明らかにされた。

 ついでソ連崩壊後のロシアからキエフ、ミンスク、ワリアーグの空母を購入し、空母の研究開発が本格化する。スホイ27Kその他の艦載機購入の商談情報も流れ、空母保有が現実の問題となっていた。実戦化されるのは、2020年以降であろうが、この時点で中国が台湾を統一し、その海軍力を西太平洋とインド洋に展開する戦略がみえる。そのためにも空母がなければならないわけだ。

 わが国では、中国の空母建造、外洋進出に関連して、その能力を過小評価するような議論も散見されるが、これまで論じたように、中国の空母保有計画は長い歴史をもっており、近年、にわかに始まったものではない。それは世界が70年代に国連海洋法条約をめぐって「海洋の時代」に入ったことを契機に、中国海軍が南シナ海から東シナ海、さらには西太平洋、インド洋へと発展している動きに連動している。

 毛沢東は中国の発展を、「無から有」「小から大」「低から高」という言葉で表現した。核ミサイル開発も海軍力の発展も、この言葉の通り進展している。金門島事件のころ、時代遅れの小型水上艦艇、潜水艦、短距離航空機で編成されていた中国海軍は、50年を経て外洋に進出する能力を備えた。

 中国の海洋戦略はわが国の海域とシーレーンに直接影響する。中国の海洋進出を軽視することなく、また過大視することなく、その実態と動向を正面から見据える必要がある。

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