【北方領土 屈辱の交渉史(6)=完】
父・晋太郎に見た命懸けの対ソ外交 安倍晋三首相は新たな日露時代を切り開けるか
http://www.sankei.com/politics/news/161130/plt1611300004-n1.html
日ソ共同宣言から4年後の昭和35(1960)年1月19日、訪米中の首相、岸信介はホワイトハウスで改定日米安全保障条約を調印し、米大統領のドワイト・アイゼンハワーと固く握手を交わした。これで日米関係はより対等となり、日米同盟もより強固となったが、日ソ間の北方領土返還交渉は膠着(こうちゃく)状態に陥った。
ソ連外相、アンドレイ・グロムイコが、駐ソ大使の門脇季光に手渡した覚書には、安保改定を理由に、日ソ共同宣言で約束した色丹(しこたん)島と歯舞(はぼまい)群島の引き渡しを撤回すると宣告していた。
昭和36(1961)年8月、ソ連首脳として初来日した第1副首相、アナスタス・ミコヤンは「色丹島と歯舞群島は日米安保体制が解消するまで返還しない」と断言した。3年後の昭和39(1964)年5月に来日した際も、首相の池田勇人に「択捉(えとろふ)島、国後(くなしり)島は小さな島だが、カムチャツカへの出入り口であり、放棄するわけにはいかない」とにべもなかった。
× × ×
長く閉ざされた対話の扉が再び開き始めたのは、昭和60(1985)年3月、ミハイル・ゴルバチョフが新たな指導者に就任してからだ。ゴルバチョフは「新思考外交」を掲げ、昭和61(1986)年1月には、グロムイコに代わってソ連外相となったエドアルド・シェワルナゼが来日し、笑顔を振りまいた。
5月には、現首相、安倍晋三の父で外相の安倍晋太郎がモスクワを訪れた。ゴルバチョフは「日ソの接触が広がる傾向にあるのは好ましいことだ。日本を訪問する希望を持っている」と自らの訪日に意欲を示したが、領土問題には「日本は取り上げてはならない問題を取り上げようとしている」と冷ややかだった。
平成元(1989)年5月、外相の宇野宗佑は訪ソの際、「拡大均衡論」を打ち出した。それまでの「政経不可分」を改め、経済関係の強化を先行させることにより、領土問題解決の糸口をつかもうと考えたのだ。シェワルナゼは日米安保条約が存続しても平和条約締結は可能だとの考えを示した。ソ連が公式に日米安保体制を容認したのはこれが初めてだった。
日ソ友好ムードが醸成される中、ゴルバチョフは平成3(1991)年4月16日、ソ連の最高指導者として初めて来日した。
元首相の鳩山一郎の訪ソから35年。日ソ関係を打破する大きな好機だった。これを水面下で実現に動いたのが安倍晋太郎だった。すでに病魔に侵されていたが、前年の平成2(1990)年1月、モスクワを訪れ、ゴルバチョフと直談判、「来年の桜の咲く頃にぜひおいでください」と訪日を促した。
ゴルバチョフと首相の海部俊樹の首脳会談は3日間で計6回、延べ12時間40分以上に上った。ゴルバチョフは「ソ日間に禁じられたテーマはない。どんな問題でも話し合おう」と語り、領土問題の存在を初めて公式に認めた。共同声明には、領土問題の対象として択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島が明記され、平和条約締結時に領土問題を含めて解決されなければならないことが盛り込まれた。
平成3(1991)年4月18日に衆院議長公邸で開かれた歓迎昼食会で、ゴルバチョフは安倍晋太郎にこう語りかけた。
「桜がそろそろ咲きますね。私は約束を果たしましたよ」
安倍晋太郎は笑顔で応じたが、体力は限界に近づいていた。5月15日、安倍晋太郎は不帰の客となった。日ソ関係改善に心血を注いだ安倍晋太郎を秘書として支えてきたのが、現首相の安倍晋三である。
残念ながら同年12月にソ連は崩壊、ゴルバチョフも失脚した。領土問題はまたもや振り出しに戻った。
× × ×
ロシア初代大統領のボリス・エリツィンは首相の橋本龍太郎と個人的な関係を深めた。橋本は平成9(1997)年11月1日、東シベリアのクラスノヤルスクを訪れ、エニセイ川で魚釣りをするなどネクタイなしで計8時間をエリツィンとともにした。
「このエニセイ川の会談を歴史的会談にしたい」
小雨交じりの中、船中でエリツィンは机をドンとたたいて訴えた。橋本も「領土問題を次世代に渡すべきではない」と応じ、「2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」と期限を設けた。これは「クラスノヤルスク合意」と呼ばれる。
平成10(1998)年4月の会談で、橋本は、択捉島とウルップ島の間に国境線を画定し、施政権は当面ロシアに委ねるという「川奈提案」を行い、ある程度の感触を得たが、橋本は同年の参院選敗北の責任を取り退陣。ロシアもウラジーミル・プーチンの時代に変わろうとしていた。
× × ×
プーチンと友情を結んだのが、平成12(2000)年4月に首相に就任した森喜朗だった。
森は翌13(2001)年3月、露イルクーツクを訪れ、プーチンとともにイルクーツク声明に署名した。日露が平和条約締結後に色丹島と歯舞群島を引き渡すことで合意した日ソ共同宣言を「交渉の出発点」と位置付け、法的有効性を文書で確認した。
だが、森はこの1カ月後に退陣。日露交渉は小泉純一郎に引き継がれたが、本格的な領土交渉に至らなかった。2008(平成20)年に露大統領にドミートリー・メドベージェフが就くと領土問題は完全に後退してしまった。
平成24(2012)年12月、首相に返り咲いた安倍晋三は、領土問題解決を「政治的使命」と公言。兄貴分の森の助力もあり、同じく大統領に返り咲いたプーチンとの友情を深めてきた。
今年12月15日、自らの地元である山口県長門市の温泉旅館「大谷山荘」にプーチンを迎え、膝詰めの会談に臨む。果たして領土問題で揺さぶられた屈辱の日露交渉史に終止符を打ち、新たな時代を切り開くことができるのか-。
(敬称略)
=おわり
父・晋太郎に見た命懸けの対ソ外交 安倍晋三首相は新たな日露時代を切り開けるか
http://www.sankei.com/politics/news/161130/plt1611300004-n1.html
日ソ共同宣言から4年後の昭和35(1960)年1月19日、訪米中の首相、岸信介はホワイトハウスで改定日米安全保障条約を調印し、米大統領のドワイト・アイゼンハワーと固く握手を交わした。これで日米関係はより対等となり、日米同盟もより強固となったが、日ソ間の北方領土返還交渉は膠着(こうちゃく)状態に陥った。
ソ連外相、アンドレイ・グロムイコが、駐ソ大使の門脇季光に手渡した覚書には、安保改定を理由に、日ソ共同宣言で約束した色丹(しこたん)島と歯舞(はぼまい)群島の引き渡しを撤回すると宣告していた。
昭和36(1961)年8月、ソ連首脳として初来日した第1副首相、アナスタス・ミコヤンは「色丹島と歯舞群島は日米安保体制が解消するまで返還しない」と断言した。3年後の昭和39(1964)年5月に来日した際も、首相の池田勇人に「択捉(えとろふ)島、国後(くなしり)島は小さな島だが、カムチャツカへの出入り口であり、放棄するわけにはいかない」とにべもなかった。
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長く閉ざされた対話の扉が再び開き始めたのは、昭和60(1985)年3月、ミハイル・ゴルバチョフが新たな指導者に就任してからだ。ゴルバチョフは「新思考外交」を掲げ、昭和61(1986)年1月には、グロムイコに代わってソ連外相となったエドアルド・シェワルナゼが来日し、笑顔を振りまいた。
5月には、現首相、安倍晋三の父で外相の安倍晋太郎がモスクワを訪れた。ゴルバチョフは「日ソの接触が広がる傾向にあるのは好ましいことだ。日本を訪問する希望を持っている」と自らの訪日に意欲を示したが、領土問題には「日本は取り上げてはならない問題を取り上げようとしている」と冷ややかだった。
平成元(1989)年5月、外相の宇野宗佑は訪ソの際、「拡大均衡論」を打ち出した。それまでの「政経不可分」を改め、経済関係の強化を先行させることにより、領土問題解決の糸口をつかもうと考えたのだ。シェワルナゼは日米安保条約が存続しても平和条約締結は可能だとの考えを示した。ソ連が公式に日米安保体制を容認したのはこれが初めてだった。
日ソ友好ムードが醸成される中、ゴルバチョフは平成3(1991)年4月16日、ソ連の最高指導者として初めて来日した。
元首相の鳩山一郎の訪ソから35年。日ソ関係を打破する大きな好機だった。これを水面下で実現に動いたのが安倍晋太郎だった。すでに病魔に侵されていたが、前年の平成2(1990)年1月、モスクワを訪れ、ゴルバチョフと直談判、「来年の桜の咲く頃にぜひおいでください」と訪日を促した。
ゴルバチョフと首相の海部俊樹の首脳会談は3日間で計6回、延べ12時間40分以上に上った。ゴルバチョフは「ソ日間に禁じられたテーマはない。どんな問題でも話し合おう」と語り、領土問題の存在を初めて公式に認めた。共同声明には、領土問題の対象として択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島が明記され、平和条約締結時に領土問題を含めて解決されなければならないことが盛り込まれた。
平成3(1991)年4月18日に衆院議長公邸で開かれた歓迎昼食会で、ゴルバチョフは安倍晋太郎にこう語りかけた。
「桜がそろそろ咲きますね。私は約束を果たしましたよ」
安倍晋太郎は笑顔で応じたが、体力は限界に近づいていた。5月15日、安倍晋太郎は不帰の客となった。日ソ関係改善に心血を注いだ安倍晋太郎を秘書として支えてきたのが、現首相の安倍晋三である。
残念ながら同年12月にソ連は崩壊、ゴルバチョフも失脚した。領土問題はまたもや振り出しに戻った。
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ロシア初代大統領のボリス・エリツィンは首相の橋本龍太郎と個人的な関係を深めた。橋本は平成9(1997)年11月1日、東シベリアのクラスノヤルスクを訪れ、エニセイ川で魚釣りをするなどネクタイなしで計8時間をエリツィンとともにした。
「このエニセイ川の会談を歴史的会談にしたい」
小雨交じりの中、船中でエリツィンは机をドンとたたいて訴えた。橋本も「領土問題を次世代に渡すべきではない」と応じ、「2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」と期限を設けた。これは「クラスノヤルスク合意」と呼ばれる。
平成10(1998)年4月の会談で、橋本は、択捉島とウルップ島の間に国境線を画定し、施政権は当面ロシアに委ねるという「川奈提案」を行い、ある程度の感触を得たが、橋本は同年の参院選敗北の責任を取り退陣。ロシアもウラジーミル・プーチンの時代に変わろうとしていた。
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プーチンと友情を結んだのが、平成12(2000)年4月に首相に就任した森喜朗だった。
森は翌13(2001)年3月、露イルクーツクを訪れ、プーチンとともにイルクーツク声明に署名した。日露が平和条約締結後に色丹島と歯舞群島を引き渡すことで合意した日ソ共同宣言を「交渉の出発点」と位置付け、法的有効性を文書で確認した。
だが、森はこの1カ月後に退陣。日露交渉は小泉純一郎に引き継がれたが、本格的な領土交渉に至らなかった。2008(平成20)年に露大統領にドミートリー・メドベージェフが就くと領土問題は完全に後退してしまった。
平成24(2012)年12月、首相に返り咲いた安倍晋三は、領土問題解決を「政治的使命」と公言。兄貴分の森の助力もあり、同じく大統領に返り咲いたプーチンとの友情を深めてきた。
今年12月15日、自らの地元である山口県長門市の温泉旅館「大谷山荘」にプーチンを迎え、膝詰めの会談に臨む。果たして領土問題で揺さぶられた屈辱の日露交渉史に終止符を打ち、新たな時代を切り開くことができるのか-。
(敬称略)
=おわり