9月23日付 産経新聞より
民主党政権発足に寄せて 杏林大学客員教授・田久保忠衛氏
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090923/stt0909230301000-n1.htm
■警戒すべき国の基本認識に狂い
総選挙で圧勝した民主党政権下で、明治以来の官僚制度を改革する新しい時代が始まった。とその道の専門家である親友に説明されると、そうかと思う。しかし、外交・防衛を勉強してきた私には両手を挙げて祝福するような気分にはとうていなれない。それどころか前途への不安が黒雲のように湧(わ)いてくるのを抑えられないのである。
民主党幹事長で、最大の実力者である小沢一郎氏については、湾岸戦争後の1993年に出版した『日本改造計画』以来の文章、発言などを逐一点検してきたつもりだ。鳩山由紀夫氏が月刊誌『Voice』に書いた一文、その一部が英文になって「ニューヨーク・タイムズ」紙電子版に紹介された部分も熟読した。が、何かがおかしい。両氏には軍事力の認識が欠落している。
理由は、2005年5月に岡田克也代表が民主党の外交・防衛政策に関する報告書「『開かれた国益』をめざして」の序文に書いた国際情勢観にあると私は考える。「私たちが実現すべき望ましい世界とは、東アジア共同体が実現し、中国が責任を持って国際社会に関与する、平和で豊かなアジアであり、米国が国際協調を重視する路線に復帰し、軍事力の行使は国連安保理決議に基づいて行われるという集団安全保障の規範化が浸透した、秩序ある国際社会である」と岡田氏は述べている。これはいけないと私は言っているのではない。リベラルの旗は掲げても現実の政策はリアリストとして推進しなければ、破綻(はたん)する。いかなる国も二つを使い分けているのに、民主党にはそれがない。
≪北・中国は「脅威」では≫
単刀直入に聞きたい。北朝鮮と中国の有する軍事力を「脅威」と感じているのか、否か、である。脅威には能力と意図があって、その見極めが大事などといった遁辞(とんじ)はどうでもいい。とくに、中国は毛沢東以来、今日まで一日たりとも休みなく軍事力の増強を推進してきた。強い経済力を背景にした中国は空母の開発に乗り出し、早晩日本の近海に中国の機動部隊が遊弋(ゆうよく)するだろう。かたわら宇宙戦略も急ピッチで進められている。
これまで何人もの中国軍人が発言している。戦前の経験に照らして、とにかく強くなれなければならないのだ、と。「富国強兵」が外交に反映され、外交的得点がさらに国を富ませる-との外交・防衛のABCを先方は知悉(ちしつ)している。米国防省も民間の専門家も中国の軍事力増強の意図は不透明だというが、増強そのものに目的があるのがわからないのであろうか。中国の無言の圧力に永田町全体が威圧されてきた。中国の「脅威」を公然口にする政治家はほとんどいない。
一般国民は誰も軍事問題を話題にしたがらない。が、政治家は逃げてはいけない。日中両国が昨年6月に共同開発で合意している東シナ海のガス田「白樺」に中国船が来て、いま既存の設備を強化している。交渉で相手は譲ろうとしない。鳩山内閣は最後の段階では実力行使をしてでも排除するか。岡田元代表が公表した4年前の報告書は、「ソフトパワー立国」とか「外交インフラの強化」をいかにも物がわかっているような表現で説いているが、ソフトパワーで現実の処理ができるかと私は問うているのだ。
≪見当外れの外交防衛政策≫
一昨年、インド洋の給油活動に従事していた海上自衛隊を引き揚げると息巻いた小沢一郎氏を何とか説得しようと努力したのはシーファー前駐日米大使だった。小沢氏は大使を民主党本部に事実上呼びつけ、取材陣に会談のやり取りを公開した。本当にこの人が勇気ある政治家であれば、駐日中国大使を本部に招いて、東シナ海における中国の約束違反を難詰すべきだろう。それができたら私は民主党を多少は見直してもいい。
米国は自国の必要から日本をはじめアジア・太平洋に基地を置き、日本は置かせてやっているのだとの気持ちが民主党には強いのではないか。「対等の日米同盟」と称して、普天間基地の移転その他の問題で米国に注文をつけているのは、日本が警戒すべきはどの国で、手を結ばなければならないのはどこか、の基本認識が狂っているからだ。日米同盟は来年50周年を迎え、「最も重要な二国間同盟」を打ち出すべき時期に民主党は中国に擦り寄るつもりなのか。
日本の頭越しに進められている米国の対中関与政策は進展し、人権派のペロシ下院議長らは中国の人権問題批判を手控えるようになっている。米国防総省が毎年公表している「中国の軍事力に関する年次報告」(2009年版)から、中国への「ヘッジング」(防衛策)という表現が姿を消した。見当外れの外交・防衛政策は米国に呆(あき)れられ、中国に侮られる。国民は民主党の外交・防衛政策を是として票を投じたのではない。(たくぼ ただえ)
民主党政権発足に寄せて 杏林大学客員教授・田久保忠衛氏
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090923/stt0909230301000-n1.htm
■警戒すべき国の基本認識に狂い
総選挙で圧勝した民主党政権下で、明治以来の官僚制度を改革する新しい時代が始まった。とその道の専門家である親友に説明されると、そうかと思う。しかし、外交・防衛を勉強してきた私には両手を挙げて祝福するような気分にはとうていなれない。それどころか前途への不安が黒雲のように湧(わ)いてくるのを抑えられないのである。
民主党幹事長で、最大の実力者である小沢一郎氏については、湾岸戦争後の1993年に出版した『日本改造計画』以来の文章、発言などを逐一点検してきたつもりだ。鳩山由紀夫氏が月刊誌『Voice』に書いた一文、その一部が英文になって「ニューヨーク・タイムズ」紙電子版に紹介された部分も熟読した。が、何かがおかしい。両氏には軍事力の認識が欠落している。
理由は、2005年5月に岡田克也代表が民主党の外交・防衛政策に関する報告書「『開かれた国益』をめざして」の序文に書いた国際情勢観にあると私は考える。「私たちが実現すべき望ましい世界とは、東アジア共同体が実現し、中国が責任を持って国際社会に関与する、平和で豊かなアジアであり、米国が国際協調を重視する路線に復帰し、軍事力の行使は国連安保理決議に基づいて行われるという集団安全保障の規範化が浸透した、秩序ある国際社会である」と岡田氏は述べている。これはいけないと私は言っているのではない。リベラルの旗は掲げても現実の政策はリアリストとして推進しなければ、破綻(はたん)する。いかなる国も二つを使い分けているのに、民主党にはそれがない。
≪北・中国は「脅威」では≫
単刀直入に聞きたい。北朝鮮と中国の有する軍事力を「脅威」と感じているのか、否か、である。脅威には能力と意図があって、その見極めが大事などといった遁辞(とんじ)はどうでもいい。とくに、中国は毛沢東以来、今日まで一日たりとも休みなく軍事力の増強を推進してきた。強い経済力を背景にした中国は空母の開発に乗り出し、早晩日本の近海に中国の機動部隊が遊弋(ゆうよく)するだろう。かたわら宇宙戦略も急ピッチで進められている。
これまで何人もの中国軍人が発言している。戦前の経験に照らして、とにかく強くなれなければならないのだ、と。「富国強兵」が外交に反映され、外交的得点がさらに国を富ませる-との外交・防衛のABCを先方は知悉(ちしつ)している。米国防省も民間の専門家も中国の軍事力増強の意図は不透明だというが、増強そのものに目的があるのがわからないのであろうか。中国の無言の圧力に永田町全体が威圧されてきた。中国の「脅威」を公然口にする政治家はほとんどいない。
一般国民は誰も軍事問題を話題にしたがらない。が、政治家は逃げてはいけない。日中両国が昨年6月に共同開発で合意している東シナ海のガス田「白樺」に中国船が来て、いま既存の設備を強化している。交渉で相手は譲ろうとしない。鳩山内閣は最後の段階では実力行使をしてでも排除するか。岡田元代表が公表した4年前の報告書は、「ソフトパワー立国」とか「外交インフラの強化」をいかにも物がわかっているような表現で説いているが、ソフトパワーで現実の処理ができるかと私は問うているのだ。
≪見当外れの外交防衛政策≫
一昨年、インド洋の給油活動に従事していた海上自衛隊を引き揚げると息巻いた小沢一郎氏を何とか説得しようと努力したのはシーファー前駐日米大使だった。小沢氏は大使を民主党本部に事実上呼びつけ、取材陣に会談のやり取りを公開した。本当にこの人が勇気ある政治家であれば、駐日中国大使を本部に招いて、東シナ海における中国の約束違反を難詰すべきだろう。それができたら私は民主党を多少は見直してもいい。
米国は自国の必要から日本をはじめアジア・太平洋に基地を置き、日本は置かせてやっているのだとの気持ちが民主党には強いのではないか。「対等の日米同盟」と称して、普天間基地の移転その他の問題で米国に注文をつけているのは、日本が警戒すべきはどの国で、手を結ばなければならないのはどこか、の基本認識が狂っているからだ。日米同盟は来年50周年を迎え、「最も重要な二国間同盟」を打ち出すべき時期に民主党は中国に擦り寄るつもりなのか。
日本の頭越しに進められている米国の対中関与政策は進展し、人権派のペロシ下院議長らは中国の人権問題批判を手控えるようになっている。米国防総省が毎年公表している「中国の軍事力に関する年次報告」(2009年版)から、中国への「ヘッジング」(防衛策)という表現が姿を消した。見当外れの外交・防衛政策は米国に呆(あき)れられ、中国に侮られる。国民は民主党の外交・防衛政策を是として票を投じたのではない。(たくぼ ただえ)