1月25日付 産経新聞【正論】より
「慰安婦」申請は取りやめず? ユネスコ記憶遺産は制度改革を 現代史家・秦郁彦氏
http://www.sankei.com/column/news/160125/clm1601250005-n1.html
年の瀬も押しせまった昨年12月28日、日韓両国の外相は、こじれてきた慰安婦問題が「最終的かつ不可逆的に解決される」こと、「今後、国連等国際社会において…互いに非難・批判することは控える」ことを確認しあった。
細部について不透明な部分は残るが、岸田文雄外相が日本人記者団の質疑に応じ、韓国が3月に中国などと共同で旧日本軍の慰安婦資料を国連教育科学文化機関(ユネスコ)に世界記憶遺産として申請する件について、「申請することはないと認識している」と語ったのをテレビ中継で見て、胸をなで下ろしたのは筆者だけではあるまい。
ところが翌日、韓国外務省の報道官は記者会見で、岸田外相の認識は「事実無根」と断じ、さらに「記憶遺産の申請は民間団体の主導」だと付け加えた。一応は「合意」に達した相手国の外相を嘘つき呼ばわりするにひとしい非礼さに呆(あき)れるとともに、記憶遺産申請と1年後の登録を目指す決意のほどを思い知らされた。
韓国政府が女性家族省を中心に200人を超える元慰安婦の証言集を英訳し、欧米の出版社から刊行する大規模なプロジェクトを立ち上げたのは3年前である。関係資料とあわせ「慰安婦白書」と銘打って昨年末には完成したと聞く。その過程で記憶遺産に申請する構想が固まったようだ。
そして2015年10月、「南京虐殺事件」の記憶遺産登録に成功したが、日本軍慰安婦のほうは却下された中国がユネスコの示唆もあって、中韓共同、さらに他のアジア諸国も加える構想が進みつつある。こうした経緯からみても、韓国が申請を取りやめる可能性は低いと判断せざるをえない。それではユネスコ本部と交渉して、日本政府が撤回ないし修正を申し入れる余地があるかといえば、残念ながら現行制度の下では打つ手がない。
≪政治的色彩を帯びるテーマ≫
少し説明すると、ユネスコの文化遺産事業には、(1)世界遺産…富士山、原爆ドーム、ピラミッドのような自然遺産や歴史的建造物(2)無形文化遺産…歌舞伎、和食、アリランなど(3)記憶遺産-の3種がある。(1)と(2)は条約的根拠があり、関係国は選定に参加できるが、1997年に新設された(3)は、真正性、世界的重要性という一応の基準はあるが、国、団体、個人を問わず申請ができる。採否は事務局内の非公開審査で決められ、提出資料の内容を事前に公開する必要もない。ただし、申請は2年ごと、1国2件に限るとされる(ただし共同申請は別枠)。いわばフリーパスに近い。
当初はマグナカルタ(英)、グリム童話(独)、朝鮮王朝実録(韓国)など無難な古典に限られていたが、09年のアンネの日記あたりから政治的色彩を帯びた近現代のテーマが増え始めた。「光州事件の記録」(韓国)「ポル・ポト虐殺の資料」(カンボジア)のように第二次大戦後のテーマまで加わるようになる。
日本の場合は関心が薄かったせいもあり、山本作兵衛の炭鉱画(11年)を第1号として、御堂関白記、支倉常長の訪欧使節(スペインと共同)から、15年のシベリア抑留、東寺文書の5例にすぎない。15年には中国が南京虐殺を登録したが、事前に内容を開示してくれという日本政府の申し入れは拒否され、今も公開されていない。
そこで馳(はせ)浩文部科学相は11月6日にユネスコのボコバ事務局長に会い、制度改正を申し入れた。「加害」国と「被害」国が同じようなトラブルを引き起こしては困ると痛感したのか、事務局長はすでに改正案を検討していると答えたらしい。そうだとしても、次の申請と登録に間に合うかどうかは微妙なところだ。
≪19世紀以降は対象外に≫
今のところ16年春に申請が予想されている案件は上野(こうづけ)三碑、杉原千畝(ちうね)のビザ(昨年9月に内定)、韓国が日本軍慰安婦(中国などと共同)、朝鮮通信使(日韓NPOによる共同申請)、中国が上海のユダヤ人ゲットーなど日本が加害者にまわるテーマが少なくない。もし反論の機会を与えられたとしても、阻止するのはかなり困難だろう。
通例だと毎回100件に近い審査をこなさねばならぬユネスコ事務局は、局内の諮問委員会(14人)、アジア太平洋小委員会(10人のうち5人は中韓人)で審査するが、日本人は1人も入っていない。
筆者は制度改正の重点を論議の種になりやすい19世紀以降を登録の対象から外すよう、政府がユネスコ事務局に要請するのが賢明な策だと確信する。G7に代表される先進大国は19世紀の帝国主義全盛期にはいずれも「スネに傷持つ」身だから、無益なたたき合いは好まないはずだし、ユネスコも巻き込まれたくはないだろう。
今年4月のユネスコ執行委員会が、3分の2の多数決でこの制度改正案を採択する可能性は大きいと判断する。
現代史家・秦郁彦(はた いくひこ)
「慰安婦」申請は取りやめず? ユネスコ記憶遺産は制度改革を 現代史家・秦郁彦氏
http://www.sankei.com/column/news/160125/clm1601250005-n1.html
年の瀬も押しせまった昨年12月28日、日韓両国の外相は、こじれてきた慰安婦問題が「最終的かつ不可逆的に解決される」こと、「今後、国連等国際社会において…互いに非難・批判することは控える」ことを確認しあった。
細部について不透明な部分は残るが、岸田文雄外相が日本人記者団の質疑に応じ、韓国が3月に中国などと共同で旧日本軍の慰安婦資料を国連教育科学文化機関(ユネスコ)に世界記憶遺産として申請する件について、「申請することはないと認識している」と語ったのをテレビ中継で見て、胸をなで下ろしたのは筆者だけではあるまい。
ところが翌日、韓国外務省の報道官は記者会見で、岸田外相の認識は「事実無根」と断じ、さらに「記憶遺産の申請は民間団体の主導」だと付け加えた。一応は「合意」に達した相手国の外相を嘘つき呼ばわりするにひとしい非礼さに呆(あき)れるとともに、記憶遺産申請と1年後の登録を目指す決意のほどを思い知らされた。
韓国政府が女性家族省を中心に200人を超える元慰安婦の証言集を英訳し、欧米の出版社から刊行する大規模なプロジェクトを立ち上げたのは3年前である。関係資料とあわせ「慰安婦白書」と銘打って昨年末には完成したと聞く。その過程で記憶遺産に申請する構想が固まったようだ。
そして2015年10月、「南京虐殺事件」の記憶遺産登録に成功したが、日本軍慰安婦のほうは却下された中国がユネスコの示唆もあって、中韓共同、さらに他のアジア諸国も加える構想が進みつつある。こうした経緯からみても、韓国が申請を取りやめる可能性は低いと判断せざるをえない。それではユネスコ本部と交渉して、日本政府が撤回ないし修正を申し入れる余地があるかといえば、残念ながら現行制度の下では打つ手がない。
≪政治的色彩を帯びるテーマ≫
少し説明すると、ユネスコの文化遺産事業には、(1)世界遺産…富士山、原爆ドーム、ピラミッドのような自然遺産や歴史的建造物(2)無形文化遺産…歌舞伎、和食、アリランなど(3)記憶遺産-の3種がある。(1)と(2)は条約的根拠があり、関係国は選定に参加できるが、1997年に新設された(3)は、真正性、世界的重要性という一応の基準はあるが、国、団体、個人を問わず申請ができる。採否は事務局内の非公開審査で決められ、提出資料の内容を事前に公開する必要もない。ただし、申請は2年ごと、1国2件に限るとされる(ただし共同申請は別枠)。いわばフリーパスに近い。
当初はマグナカルタ(英)、グリム童話(独)、朝鮮王朝実録(韓国)など無難な古典に限られていたが、09年のアンネの日記あたりから政治的色彩を帯びた近現代のテーマが増え始めた。「光州事件の記録」(韓国)「ポル・ポト虐殺の資料」(カンボジア)のように第二次大戦後のテーマまで加わるようになる。
日本の場合は関心が薄かったせいもあり、山本作兵衛の炭鉱画(11年)を第1号として、御堂関白記、支倉常長の訪欧使節(スペインと共同)から、15年のシベリア抑留、東寺文書の5例にすぎない。15年には中国が南京虐殺を登録したが、事前に内容を開示してくれという日本政府の申し入れは拒否され、今も公開されていない。
そこで馳(はせ)浩文部科学相は11月6日にユネスコのボコバ事務局長に会い、制度改正を申し入れた。「加害」国と「被害」国が同じようなトラブルを引き起こしては困ると痛感したのか、事務局長はすでに改正案を検討していると答えたらしい。そうだとしても、次の申請と登録に間に合うかどうかは微妙なところだ。
≪19世紀以降は対象外に≫
今のところ16年春に申請が予想されている案件は上野(こうづけ)三碑、杉原千畝(ちうね)のビザ(昨年9月に内定)、韓国が日本軍慰安婦(中国などと共同)、朝鮮通信使(日韓NPOによる共同申請)、中国が上海のユダヤ人ゲットーなど日本が加害者にまわるテーマが少なくない。もし反論の機会を与えられたとしても、阻止するのはかなり困難だろう。
通例だと毎回100件に近い審査をこなさねばならぬユネスコ事務局は、局内の諮問委員会(14人)、アジア太平洋小委員会(10人のうち5人は中韓人)で審査するが、日本人は1人も入っていない。
筆者は制度改正の重点を論議の種になりやすい19世紀以降を登録の対象から外すよう、政府がユネスコ事務局に要請するのが賢明な策だと確信する。G7に代表される先進大国は19世紀の帝国主義全盛期にはいずれも「スネに傷持つ」身だから、無益なたたき合いは好まないはずだし、ユネスコも巻き込まれたくはないだろう。
今年4月のユネスコ執行委員会が、3分の2の多数決でこの制度改正案を採択する可能性は大きいと判断する。
現代史家・秦郁彦(はた いくひこ)