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ニッポンのゆる~い日常

「テレビ局は公平を破る勇気を持て」という一部識者の煽動は浅薄なヒロイズムにすぎぬ

2015-11-30 12:40:22 | 正論より
11月30日付    産経新聞【正論】より


「テレビ局は公平を破る勇気を持て」という一部識者の煽動は浅薄なヒロイズムにすぎぬ 

 東工大名誉教授・芳賀綏氏

http://www.sankei.com/column/news/151130/clm1511300001-n1.html


 ≪不偏不党を無視した報道≫


 自民党単独の宮沢喜一政権から多党連立の細川護煕政権へ-大転換の平成5年の総選挙を振り返り、“久米・田原連立政権”の実現として深い感慨を覚える、と小さな会で発言した放送人がいた。

 久米宏キャスターの「ニュースステーション」と、評論家・田原総一朗氏司会の討論番組と、この人気番組コンビで政権交代への世論誘導に奮闘した効果で、劇的な大転換が実現したのだと豪語したらしかった。それはひどい、不偏不党を無視した報道姿勢を誇示するとは、と非難が起き、テレビ局の要職にあった人物が、発言の主として国会に招致され、陳謝する一幕もあった。


 右のキャンペーンの中では、有力な政治家2人を悪役に仕立て、反復「ツー・ショットで映せ」と演出したのも話題になったが、似た手法はその後も続き、平成17年の“小泉劇場”選挙では、郵政民営化反対の候補者を悪玉か無能者に見立て、つぶしてしまえと煽る類いの民放番組がいくつもあった。投票行動に影響しただろう。


 選挙関係の放送に限らない。政治がテーマの放送で不偏不党が無視された例は珍しくない。近くは今年の安保法制関係の放送にも数多くの批判があった。


 放送倫理・番組向上機構(BPO)にとどく視聴者意見を、月々発表の「BPO報告」で見ると「安保法制に関する放送は明らかに異常だった。意見が対立しているような事案に対して、一方的な放送を行うことは、放送法に違反しているのではないか」(5月)という指摘をはじめ、与野党それぞれに近い立場からの不満が寄せられていたが、国会審議最終局面の9月になると、次のような傾向の不満が多数になった。




 ≪多くの人が誤解している通念≫


 「野党寄りの偏向報道ばかりだ。公平・公正な報道ができない姿勢に疑問を感じる」「まるで日本国民全てが法案に反対しているかのように報道している。『SEALDs』の学生の主張を長時間にわたって紹介するなど、最たる例だ。まさに世論誘導に等しい」「(反対派を主に取り上げていて)本来の安全保障法案の中身に関して視聴者に提供する様子が全く見られない。(中略)私は安全保障法案賛成と言っているわけではないが、マスメディアとは視聴者に公平な目で考えさせることが本来のあり方だと思う」「男性司会者が『メディアとして法案廃案を訴え続けるべきだ』と発言した。メディアがそんなことを言っていいのか」「『説明不足』などと報じているが、メディアが安保法案について詳しく説明したことがあったのか」…。


 たしかに、安倍晋三首相を生出演させて説明させながら、キャスターと一部のゲストの「反安倍」ばかり印象づけた夕方の民放ニュースもあった。かつて、新設の消費税について政治家が説明するのを「聞く耳持たぬ」と芸能人らがまぜっ返した某局の演出も思い出す。この8月の「戦後70年安倍談話」にも「はじめから批判ありきの放送姿勢」を指摘する声がBPOに寄せられたという。


 放送界の内外で相当多くの人が誤解している。NHKは政治的公平を厳守すべきだが民放局は偏向に構わず編集し主張してもよい、という通念だ。そんな区別はどこにも存在しない。「放送法」第4条には、守るべき義務が4項あるが、その第2項には「政治的に公平であること」と明示してあり、民放には厳格に適用されないなどとは書いてない。


 放送事業者側も、約20年前、日本民間放送連盟(民放連)とNHKが共同で定めた「放送倫理基本綱領」に「多くの角度から論点を明らかにし、公正を保持」「事実を客観的かつ正確、公平に伝え」などの文言を明記した。




 ≪浅薄なヒロイズムは論外≫


 日本では、昭和26年以来、かなりの民放局が新聞社主導で誕生し育成された歴史的由来もあり、新聞の類推で民放のあり方を考える趣があるが、新聞には“新聞法”などはなく、開業から発行も「社論」の明示も一切、自由だ。放送は、有限の電波資源の割り当てを受けて開局を免許され放送法を適用される事業だ。


 そこでまた放送人には誤解が生まれる。法を守って仕事したら萎縮して放送の活力が減ずる、と。放送人らしいセンスを欠き、個性的な工夫の楽しみを知らないことを告白した言だ。公平な両論併記でかえって放送は立体化し、厚みを増して盛り上がるのだ。一方のプロパガンダだけを取り次ぐのは最も安易、手抜きでしかない。


 公平を破る勇気を持て、と一部識者が煽動するのは浅薄なヒロイズムと一笑に付せばよい。はねあがりからは情も理も生まれない。重心の低い、骨太な記者や制作陣が、確かな「自律の感覚」をもって生み出す放送こそ、国民の信頼を得、政治的教養を深めるためにも貢献できる。


 日本の放送90年、民放65年。民放連の「報道指針」にも言う「節度と品位」を具えた電波へ。再出発する節目が訪れている。(はが やすし)










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 戦後日本の歪んだ「言論の自由」と罰則すらない放送法

2015-11-28 12:51:12 | マスコミ

 【ニッポンの新常識】

 戦後日本の歪んだ「言論の自由」と罰則すらない放送法


http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20151128/dms1511281000003-n1.htm


 日本人の大半は正義感が強く、ルール違反を忌み嫌う。一方で、日本人の心の中には「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という精神も確実に同居している。

 矛盾としか思えない日本人的精神の根底に、聖徳太子の「和をもって尊しとなす」という価値観が存在するように思う。

 ルール違反は通常、「和を乱す元凶」になるが、日本人同士の場合、場の空気次第で、ルール違反を認めた方が「和を乱さない」こともある。

 しかし、毎日みんなで赤信号を渡るうちに、それがルール違反だという原則まで忘れるようなら、問題である。



                      ◇



 【放送法第4条】 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない。

 一 公安及び善良な風俗を害しないこと。

 二 政治的に公平であること。

 三 報道は事実をまげないですること。

 四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。



                   ◇



 テレビやラジオの放送事業者は、私企業であっても、決められた周波数を独占利用する免許を国から与えられた公的存在である。従って、どの国も「言論の自由」を一定程度制限するのが通常だが、日本の放送法第4条は、公平や中立、事実報道を求める程度の緩い規定で、罰則すらない。

 新聞などの印刷媒体に、放送法のような法律はなく、「言論の自由」が完全に認められる。


 昭和20(1945)年9月15日、朝日新聞は「原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が(中略)国際法違反、戦争犯罪であることを否むことはできないであろう」という鳩山一郎氏(後の首相)のインタビューを掲載した。同17日には、米兵の犯罪を批判した解説記事を載せた。結果、2日間の発行停止命令を受けた。


 ポツダム宣言第10条には「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである」とあったが、GHQ(連合国軍総司令部)占領下の日本に「言論の自由」などなかった。


 放送法の話題に戻すと、GHQはNHKのラジオ番組「真相はこうだ」などで、日本の放送事業者に「事実をまげた報道」を強要した。以来、70年間、多くの放送事業者が赤信号を渡り続けている。


 私も呼びかけ人に名前を連ねる「放送法遵守を求める視聴者の会」は、もう赤信号を渡るべきではないと言っているだけなのだが、放送事業者にとってわれわれは、70年間続いた「和」を乱す、不届き者なのかもしれない。




 ■ケント・ギルバート 米カリフォルニア州弁護士、タレント。1952年、米アイダホ州生まれ。自著・共著に『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』(PHP研究所)、『素晴らしい国・日本に告ぐ』(青林堂)など。








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韓国外交白書の妄言と考古学的知見に基づかないファンタジー史観

2015-11-19 17:25:46 | 北朝鮮・韓国
韓国外交白書の妄言と考古学的知見に基づかないファンタジー史観


http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20151119/frn1511191550003-n1.htm


 韓国政府が先ごろ発表した「15年版外交白書」には「(日本の)一部の政治指導者による歴史修正主義の動きにより、周辺国との摩擦を起こした」との記述がある。看過できない妄言だ。


 韓国の官公庁が1年間の活動成果をまとめて「白書」を発刊すること自体が、日本からのパクリなのだが、それはいいとしよう。

 許しがたいのは、「一部の政治指導者による歴史修正主義の動き」との妄言だ。依然として、「安倍晋三一派だけが悪い」「安倍一派による独裁政権」「日本には“鳩山由紀夫さん”のような良識派がたくさんいる」といった妄想が背後にあるのだろう。


 しかし、問題は「歴史修正主義」だ。

 これは、「ヒストリカル・リビジョナリズム」の訳語だ。「修正」という熟語は、普通の日本人にとってプラスイメージの言葉だ。「正しく修める」のだから。


 ところが、英語でいう「ヒストリカル・リビジョナリズム」とは、実態としてネオナチズムを意味する。つまり韓国の政権は、公式文書で「日本の指導者はネオナチスだ」と述べたのだ。

 振り返れば、韓国のここ3代の政権は「民間団体」と称するVANK(バンク)、あるいは在米韓国人団体と手を結び、「日帝=ナチス、今の日本=ネオナチス」とするイメージ浸透作戦を展開してきた。


 旭日旗を「戦犯国旗」と言い換え、「カギ十字旗に等しい」と、世界に向けてサイバー攻勢を続けているのは、その1つに過ぎない。


 「日帝は民族抹殺政策を進めた」-それは皇民化政策のことだ。当時の日本からすれば、ガチガチの身分制度と迷信に縛られていた朝鮮人民に、文明の光を知らせたのだ。ところが、在米韓国人団体は「民族抹殺政策→ホロコースト→ジェノサイド(民族大量虐殺)」と言葉を転がし、いつの間にか「われわれは、日本によるジェノサイドからの生き残りだ」などと述べている。日本統治時代に人口が倍増したのに、何を言うのか。


 しかし、ウソも100回言えば…。


 韓国人はいま、「わが半万年(5000年)の歴史」と、考古学的知見にも史料解析にも基づかない創史(=ファンタジー史)から始める。朴槿恵(パク・クネ)大統領は「わが民族の優れたDNA」を語る。まさに、ナチスと同じ「優生民族=韓民族論」だ。

 そのうえに、近現代史も、史料批判に堪えられない-つまり“捏造・加嘘”した創史を振りかざして、「正しい歴史認識」と強弁している。その独善性にさえ気が付かないことの哀れさよ。


 国民の頭を“捏造・加嘘”した創史で埋(うず)め、わが民族の優秀性を喧伝し、異議を唱える人間は社会的に抹殺する-君たちこそ、21世紀初頭の東アジアに出現した〈小韓ナチス共和国〉なのだよ。



 ■室谷克実(むろたに・かつみ) 1949年、東京都生まれ。慶応大学法学部卒。時事通信入社、政治部記者、ソウル特派員、「時事解説」編集長、外交知識普及会常務理事などを経て、評論活動に。主な著書に「韓国人の経済学」(ダイヤモンド社)、「悪韓論」(新潮新書)、「呆韓論」(産経新聞出版)、「ディス・イズ・コリア」(同)などがある。








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韓国が企てる統一への反日戦略

2015-11-18 17:18:42 | 正論より
11月18日付   産経新聞【正論】より


韓国が企てる統一への反日戦略   筑波大学大学院教授・古田博司氏


http://www.sankei.com/column/news/151118/clm1511180002-n1.html


 今から25年前、盧泰愚大統領時に韓国の歴史教育の過度に反日的な側面を批判したところ、学者たちはこう答えた。「韓国は負けてばかりの歴史です。今は少しだけ勇気を出せという歴史教育をしている。その過程で反日的な側面が出てくるのです。分かってください」と。その低姿勢に同情し、われわれは矛を収めたものである。

 ところがその後、金泳三大統領の「歴史の立て直し」政策が始まり、自尊史観と反日の暴走が始まった。韓国は「歴史に学ぼう」と唱えるだけあって、李朝の「●塞(とうそく)」(ごまかし・逃げ口上)の歴史を民族の行動パターンとして濃厚に引き継いでいる。



 《同情は次の攻勢の準備段階》


 満州族の清が馬をよこせといえば、分割払いにしてもらい、総頭数をごまかしたり、婚姻するから良家の子女を送れといわれれば、こっそり酒場女を集めて送ったりした。シナにやられてばかりの歴史ではないのだ。


 李朝は国内では民族差別の朱子学で理論武装し、満州族の清を「禽獣(きんじゅう)以下の夷狄(いてき)」(獣以下の野蛮人)だと徹底侮蔑する教育をし、清からの文明流入を悉(ことごと)く防遏(ぼうあつ)した。同情を買うのは次の攻勢の準備段階である。


 最近の報道によれば、日韓の国際会議で日本側が韓国の中国傾斜を指摘すると「事実ではないのでその言葉は使わないでほしい」といい、中国に苦汁をなめさせられた歴史からくる警戒や恐怖心を日本人に喚起するという。また、外務省の元高官が「韓国人には中国から家畜のようにひどい扱いをされた屈辱感がある」と話すそうである。当然心優しい市民派新聞の記者たちは同情し、韓国の中国傾斜論はよそうという記事を書く。


 だが、これを放置すればやがて、「韓国を中国に追いやったのは日本のせいだ」という論に成長することは、当然予測されるところである。そしてこれを欧米中に広める。朝鮮民族は日本人が考えるような甘い民族ではない。




 《否定できない中国傾斜論》


 朝鮮はシナの子分で、シナが朝鮮を操る歴史だと思っている人が多いがそうではない。ごまかしや逃げ口上でいつの間にか攻勢に出てくるので、どう扱ってよいのかよく分からないというのが中国の本音なのだ。今の中国は韓国と北朝鮮を手玉に取っているわけではない。できるだけ深く関わらないようにし、絶えず微調整しているのである。南北問わず朝鮮民族の「卑劣」に付き合うのは、日本も中国もロシアも苦手である。


 韓国の中国傾斜論は、今日否定しようのない事実である。アメリカの促す高高度防衛ミサイル(THAAD)の設置を引き延ばす。これを李朝時代では「遷延(せんえん)」策といった。大国が難題を持ちかけるたびに臣下たちは「王様、遷延でよろしく」と願い出たものである。引き延ばして状況が変わり、相手が諦めるのを待つのである。


 中国の南シナ海進出への批判も巧妙に避けている。韓民求国防相に東南アジア諸国連合(ASEAN)拡大国防相会議で航行の自由の保障を明言させたが、政府は何も言っていない。中国主導のアジアインフラ投資銀行(AIIB)に積極参加し、朴槿恵大統領は中国の抗日記念行事に出席し、軍事パレードの雛(ひな)壇で席次2位だったことを朝貢国のように喜んだ。


 アメリカよりも中国の影響下の方が、南北で取引ができ統一がしやすいという思惑があるのである。ただそれを日本に追いやられたからという形に持っていき、アメリカの非難を自国に向けないようにしたいのである。実はこのような面倒なことをしなくとも、南北には統一の機が熟している。




 《二度と朝鮮戦争は起きない》


 哨戒(しょうかい)艦「天安」沈没事件(2010年3月)のときも、延坪島(ヨンピョンド)砲撃事件(同年11月)のときも、緊張が高まると必ず韓国が折れる。北朝鮮が謝罪したような折衷案を作ってくれと、韓国が非公開会議において金銭で懇請したと、11年6月1日には北朝鮮の国防委員会に暴露されたこともあった。

 今年8月に韓国と北朝鮮の軍事境界線で起きた地雷爆発事件では、北朝鮮が「準戦時状態」を宣言し、南北高官による会談が開かれたが、韓国側の代表2人は北朝鮮シンパだった。加えて協議の映像が青瓦台に中継された。

 国家安保戦略研究院の劉性玉院長は朝鮮日報8月24日付で、事件のたびにケーブルテレビによるボス交渉が行われていたことを暴露し、10月には盧武鉉時代の国家情報院の院長だった金万福氏が北との直通電話があったと発言した。

 すなわち北朝鮮の核保有と歩調を合わせるように、韓国側が譲歩を重ねていったことが分かるのである。結論として、二度と朝鮮戦争は起きないであろう。

 ならば、なぜすぐに南北統一へと向かわないのか。理由は、弱者の方の韓国が統一を主導したいからである。第2に、急に動けばアメリカ軍が撤退の速度を早め、韓国の主導が崩れるからである。第3に、今の生活を手放したくないという、気概のない民族性が統一の意志を妨げているからである。(ふるた ひろし)

●=てへんに唐













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夫婦別姓、慎重な最高裁判断を

2015-11-17 09:15:54 | 正論より
11月17日付   産経新聞【正論】より


夫婦別姓、慎重な最高裁判断を   麗澤大学教授・八木秀次氏


http://www.sankei.com/column/news/151117/clm1511170001-n1.html


 結婚すると夫婦が同じ姓を名乗るとする民法750条と、女性は離婚後6カ月経過しなければ再婚できないとする同733条を、「法の下の平等」を保障した憲法に違反するとした2つの訴訟について、最高裁大法廷は先頃、当事者の意見を聞く弁論を開いた。2つの裁判はともに1審、2審と憲法に違反しないとして原告が敗訴している。

 弁論を行うのはこれまでの判例の変更や憲法判断する場合だ。12月の最高裁の判断で、わが国の家族制度が大きく揺らぐ事態とならないことを願いたい。



 ≪「姓」は家族共同体の名称≫


 夫婦別姓の主張は3種類ある。(1)結婚により夫婦の一方が姓を変更するのは多くの手続きが必要で、仕事上の連続性もなくなる(2)結婚で一方の家名がなくなる(3)姓を変えることで自分が失われてしまう気がする-というものだ。

 別姓の主張の大部分は(1)だが、今日では職場などでの旧姓の通称使用が普及している。女性の政治家の多くは旧姓を通称使用し、現在ではパスポートでも旧姓の併記が可能になった。民法を改正する必要はない。(2)は子供が娘1人といった場合に強く主張されたが、さらに次の世代(孫)を養子にして家名を継がせればよく、どのみち孫が複数生まれなければ家名の継承者はいなくなる。別姓での解決は不可能だ。(3)は少数だが根強く、裁判の原告の主張もこれだ。

 夫婦同姓の制度は戸籍制度と一体不可分だ。結婚すると夫婦は同じ戸籍に登載される。その間に生まれた子供も同様だ。つまり、姓(法律上は氏)は夫婦とその間に生まれた子供からなる家族共同体の名称という意味を持つ。別姓になれば、姓は共同体の名称ではなくなる。




 ≪軽視すべきでない精神的一体感≫


 同姓にしたい人は同姓に、別姓にしたい人は別姓に、すなわち選択制にしたらよいという主張もある。しかし、選択制であれ、制度として別姓を認めると氏名の性格が根本的に変わる。氏名は家族共同体の名称(姓・氏)に個人の名称(名)を加えたものだが、別姓を認めると、家族の呼称を持たない存在を認めることになり、氏名は純然たる個人の呼称となる。

 選択的夫婦別姓制を認めた平成8年の法制審議会答申に法務省民事局参事官として関わった小池信行氏は「結局、制度としての家族の氏は廃止せざるを得ないことになる。つまり、氏というのは純然たる個人をあらわすもの、というふうに変質する」と問題点を指摘している(『法の苑』第50号、2009年春)。当然、戸籍制度にも影響は及ぶ。


 家族の呼称が廃止されることから夫婦の間に生まれた子供の姓(氏)をどうするのかという問題も生じる。夫と妻のどちらの姓を名乗るのか、どの時点で決めるのか、複数生まれた場合はどうするのか、さまざまな問題が生じてくる。そこに双方の祖父母が関わる。慎重な検討が必要となる。

 家族が同じ姓を名乗る、すなわち家族の呼称を持つことで家族としての精神的な一体感が生ずるという点も軽視してはならない。多くの人が自らは別姓を選ばない理由はここにある。別姓の容認は家族の呼称の廃止を意味し、家族の一体感をも損なうことになる。




 ≪合理性ある女性の再婚禁止期間≫


 女性の再婚禁止期間は生まれた子供の父が誰かの判断を混乱させないための措置だ。民法は「妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する」(772条1項)、「婚姻の成立の日から二百日を経過した後又は婚姻の解消若しくは取消しの日から三百日以内に生まれた子は、婚姻中に懐胎したものと推定する」(同2項)と規定する。

 重要なのは「推定」という文言で、国(法律)としてはあくまで夫の子と推定するにとどまり、真実に夫の子であるかどうかには関与しない。結婚している間に妻が宿した子供は夫の子であるだろうと推定し、夫に父親としての責任を負わせるのが法の趣旨だ。


女性にだけ再婚禁止期間があるのは女性しか妊娠できないからだ。再婚禁止期間の廃止や短縮も主張されているが、そうなれば、子の父が誰であるかについての紛争が増える。DNA鑑定すればよいとの指摘もあるが、法は真実は詮索せず、法律上の父親を早めに決めて監護養育の責任を負わせるのが趣旨だ。

 DNA鑑定により数代前からの親子関係、親族関係がひっくり返る可能性もあり、影響は相続関係にも及ぶ。再婚禁止期間中に現在の夫との間で妊娠した子も前夫の子と推定されることから、出生届を出さずに無戸籍となる子供の救済は再婚禁止期間の見直しとは別に行えばよく、民法の問題ではない。

 憲法は合理的な根拠のある差別は許容する、とするのが最高裁の判例の立場でもある。夫婦同姓も女性の再婚禁止期間も十分な合理性がある。最高裁には国会の立法権を脅かす越権行為は慎み、国民の大多数が納得する賢明な判断を求めたい。(やぎ ひでつぐ)







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いま「明治の日」制定すべき意義

2015-11-10 18:35:55 | 正論より
11月10日付    産経新聞【正論】より


いま「明治の日」制定すべき意義  国学院大学名誉教授・大原康男氏


http://www.sankei.com/column/news/151110/clm1511100004-n1.html


 去る11月3日、玄関先にマンション用として少し小ぶりに作られた国旗を揚げながら、この日をなぜ「文化の日」と謂(い)うのだろうかとの疑問があらためて頭を過(よぎ)った。

 たしかに「国民の祝日に関する法律」(昭和23年)は11月3日を「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日と規定し、この日には宮中で文化勲章の親授式が行われている。また、この日を中心にして文化庁芸術祭が催されることもあって、今日ではほとんどの人が何のこだわりもなく受け入れているかに見える。




 ≪元は明治の天長節だった≫


 しかし、昭和12年に制定された文化勲章の受章者の発令日は一定してはいなかった。当初は4月29日前後が多く、それが11月3日に固定され、受章者に対する宮中伝達式(平成9年からは宮中親授式)が行われるようになったのは「文化の日」という祝日が誕生してからのこと。したがってこの祝日の趣旨と11月3日という日づけの間には何の必然性もない。なぜこんなことになったのか。

 そのためには近代以降のわが国の祝祭日の中で11月3日にはどのような由来と履歴があるのか、振り返ってみる必要がある。明治6年、政府は「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」(太政官布告第344号)を発し、これまで久しくシナ風の五節句を中心に据えてきた祝祭日をわが国の歴史や伝統に沿って抜本的に改めたが、新たに祝日とされた中に紀元節とともに天長節があった。言うまでもなく、明治天皇のご誕生日である。その日が11月3日だった。


 明治天皇が崩御されて大正天皇が践祚(せんそ)されると天長節は8月31日に移った。一方、先の太政官布告は廃止され、それに代わって制定された「休日ニ関スル件」(大正元年勅令第19号)に基づいて、先代の天皇の崩御日を祭日とする先帝祭は孝明天皇祭(1月30日)から明治天皇祭(7月30日)に移る。したがって御代替わりがあっても明治天皇に関わる祝祭日は依然として存在し続けたのである。




 ≪激動の世の苦楽を忘れず≫


 ところが、大正から昭和へとさらに時代が変わると、天長節が昭和天皇のご誕生日である4月29日に移ったのは当然としても、先帝祭が明治天皇祭から大正天皇祭(12月25日)に移行したことによって、激動の世に苦楽を共にした明治天皇に因(ちな)む祝祭日が皆無となったことに、当時の人々は一抹の寂しさを禁じ得なかった。

 かくして明治天皇に由縁(ゆかり)のある日を何か残してほしいという声が全国各地から澎湃(ほうはい)として起こったため、政府は昭和2年に、先記した「休日ニ関スル件」を改正、11月3日を「永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ明治ノ昭代ヲ追憶」する日とし、「明治節」という名の新しい祝日を追加したのである。


 しかるに、先の大戦の敗北によって状況は一変した。連合国軍総司令部(GHQ)は占領政策の一つとして祝祭日の全面的改正を日本政府に命じたからである。その詳細を述べる余裕はないが、かつて本欄でも略述したように、元始(げんし)祭(1月3日)・神嘗(かんなめ)祭(10月17日)のように完全に廃止されたものもあれば、「天長節」改め「天皇誕生日」のように、趣旨はほぼ同じだが、名称が変わったものもある。

 この両者の中間に、国民の愛着が強かったために、日にち自体は辛うじて残ったものの、その趣旨が全く変えられてしまったのが「勤労感謝の日」(元の新嘗(にいなめ)祭、11月23日)と同じくこの「文化の日」なのだ。




 ≪憲法公布日が選ばれたわけ≫


 周知のように、現憲法は昭和21年11月3日に公布された。なぜこの日が選ばれたのか、当時の内閣法制局の幹部はこう説明する。

 GHQは新憲法の制定をひどく急がせたが、どうしても11月初旬になってしまう。公布から施行まで6カ月の周知期間が必要だから、11月1日にすれば、施行は翌年5月1日になってメーデーと重なってまずい。5日にすれば、5月5日の端午の節句に当たり、男女平等を謳(うた)う憲法の精神にそぐわない。そこでその中間をとって11月3日とした-。


 果たしてそうであろうか。時の首相は皇室尊崇の念の篤(あつ)い吉田茂。新しい憲法は国の大変革をもたらすものではあったが、明治憲法の改正手続きに忠実に則(のっと)り、天皇のご裁可を経て公布された欽定憲法であるとの信念を持していた吉田としては、アジアで初めて近代的立憲国家を建設された明治天皇のご誕生日を敢(あ)えて選んだと思えてならない。


 近代日本の興隆をもたらした明治の御代を想起する日-「明治の日」を「文化の日」に替えて新定する所以(ゆえん)について、これ以上多言を弄するまでもあるまい。

 時あたかも11月11日に「明治の日推進協議会」が主催する国民集会が開かれ、田久保忠衛杏林大名誉教授の講演が予定されている。4月29日を「みどりの日」から「昭和の日」に改めた過去の成果を顧みつつ、この運動のさらなる進展を切に望みたい。(おおはら やすお)







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