山と自然の雑学ノート

山歩き&散歩道で出会った植物などの記録

蜂起の町ソウェト

2011-09-03 17:19:07 | Weblog

4日目はアパルトヘイト時代の南アフリカ最大の黒人居住区ソウェトを訪れました。
この町は一握りの白人が支配する南ア政府によって、人種差別的なアパルトヘイト
(人種隔離)体制が布かれていた1976年6月16日、アフリカ系住民による大規模な
蜂起事件が発生した町として有名です。

この町を訪れる多くの観光客が目にするのはヘクターピータソン・ミュージアムと
いう施設の前にある事件のモニュメントに張られた1枚の衝撃的な写真。



 

 

 

 

 

 

 

 













1976年、アパルトヘイト体制をとる南ア政府は、学校でのアフリカーンス語に
よる教育の導入を決定しました。
それに対して、アフリカーンス語を白人による植民地支配やアパルトヘイト体制強化の象徴
と見なす黒人学生を中心として反発が広がり、授業ボイコットやデモによるアフリカーンス語
強制反対運動は日増しに強まっていました。

6月16日、13歳のヘクターピーターソンが学校に来てみると、クラスメイト達が
自分たちも学生に呼応してデモをやろうということで盛り上がっていました。

学童たちがそれぞれに「アフリカーンスを話す奴は地獄に堕ちろ」などと書いたプラカードを
掲げ、シュプレヒコールを叫びながら問題の交差点に差しかかると
デモの規制にあたっていた警官隊から先ず学童達のデモの先頭付近に催涙弾が発射されました。

学童たちは一瞬怯みましたが、さらにシュプレヒコールをしながら前進を始めたその時です。
一人の白人警察官が拳銃を引き抜き、学童達のデモの隊列に向かって発射しました。
最初にヘースティングスヌドロフが撃たれ、次に13歳の少年ヘクターピータソンが・・・・
少なくともこの無差別発砲で4人の学童が射殺されました。

これをきっかけに10,000人の学生と300人の警官が衝突する暴動が発生、
一般市民を含む死亡700人以上、負傷者2000人以上を出す大惨事になりました。
翌17日になっても事態は沈静化せず、逆に周辺都市に広がり始めました。

一方、一ジャーナリストによって撮られたこの1枚の写真と暴動の映像は報道機関を通じて
世界に配信され、アパルトヘイト体制をとる南ア政府への大きな非難を巻き起こしました。

国連による全会一致の南ア政府非難決議と経済制裁、アフリカ民族会議(ANC)を始め
とする国内民主勢力のねばり強い戦いなど、内外の圧倒的な圧力のもと、アパルトヘイト
体制が崩壊したのは、この蜂起事件発生から18年後、1994年のことでした。

※写真は最初に射殺されたヘクターピーターソンの遺体とそれを抱き抱える友人、
  その傍を走っているのはヘクターの姉(現在このミュージアムに勤務されています)

1992年6月16日にネルソンマンデラ大統領(当時)から寄贈された事件の慰霊碑には
「ヘクター ピーターソンと自由、平和そして民主主義のための戦いに命を投げ出した
全ての若き英雄達の想い出のために・・・」と記されていました。
現在、6月16日は南アフリカの祝日「青年の日」で、アパルトヘイトに立ち向かった
当時の若者達の勇気を讃えています。







 

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