3月7日に山城国一揆終焉の地、北稲八間の集落を訪れてみた。
15世紀末の京都の南部、南山城では国人(在地領主)や農民、馬借など下層階級の人達が団結し
守護職の後目争いを続けていた畠山氏の両軍に南山城からの退去を迫り、山城国一揆が成立した。
その後、8年に亘って国人と惣民による自治と平和が成し遂げられられるが、
南山城は元々水に恵まれた豊穣の地、室町幕府とて何時までも手を拱いて国人や農民達の自治に
この地を委ねている訳ではなかった。
明応2年、室町幕府は守護職、伊勢貞陸の配下で南山城2郡の支配を命じられた大和の古市 澄胤の
入部を認めるよう迫ってきた。
国人の多くはこの古市氏に繋がった人達で、幕府の命令には従わざるを得ないというのが大勢で結局
明応2年(1493年)8月18日に開いた集会で伊勢氏の命令に従い、古市氏の入部を受け入れることになった。
ここで、一連の流れを考えてみると、山城国一揆はその当初から大和に勢力を伸ばし、さらなる勢力拡大を目指した
古市 澄胤の野心によって捗んだとは考えられないだろうか?
古市 澄胤の支配を認めることは同時に自治の放棄であり、それは山城国一揆の崩壊を意味した。
それは分裂した一揆側の一部と、古市全軍との戦い・・・勝敗は最初から決まっていたと言ってよい。
だが戦闘は激しく双方の戦死者は200名にも及んだと伝えられる。
結果、一揆側の稲八妻城は落城、ここに山城国は完全に終焉を迎えることとなった。
この稲八妻城が何処であったのかは公式的に認められる遺構などは今までのところ発見されてはいない。
しかし多くのアマチュア研究家が類推を重ねた結果、今では木津川左岸相楽郡精華町北部の北稲八間の集落にある
城山と呼ばれる小高い丘が国一揆の終焉の地、稲八妻城跡と考える人は少なくないようだ。
城山の南側麓に北稲八間の共同墓地があり、この墓地の一角に「逆修(げきしゅう)の碑」と呼ばれる10基あまりの
五輪塔郡がある。中央に地蔵尊が祀られ、銘に「天文六年逆修人数一四名」と刻まれている。
逆修には、生前に死を覚悟した人や、両親に先だって死んだ若い人を弔う意味があり、郷土史家によって
同時代の国一揆との関連が指摘されている。
だとすれば、稲八妻城に立てこもった国人衆は既に死を決意して戦いに臨んだことになる。
彼等がそうまでして戦わなければならなかった背景には、時の権力に抗して築き上げた自由と平和の砦、
山城国への熱い思いがあったのだろうか。
今は訪れる人もほとんど無い静かな田園地帯、ここが国一揆の終焉の地であったことを知る人は少ない
集落内にある竹内神社、応仁の乱で兵火によって焼失したものを、明応元年(1490)に
稲八妻城主高橋三河守正喬が惣民と共に再興したといわれる。稲八妻城の戦いが行われる3年前のことであった。
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