(その1はこちら)
■目白庭園
滝に築山、池を配した伝統的な回遊式庭園。池に面して立つ茶室「赤鳥庵」は、大正7年(1918)にこの地で創刊された童話雑誌「赤い鳥」に由来する。
■目白千種画廊
大正7年(1918)に童話雑誌「赤い鳥」を創刊した鈴木三重吉の旧宅兼赤い鳥社跡。「赤い鳥」は昭和11年(1936)まで発行され、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」や有島武郎「ひとふさの葡萄」などの童話から、北原白秋の「赤い鳥小鳥」、西条八十の「かなりや」などの童謡まで、多くの傑作が発表され、児童文学の育成に大きな役割を果たした。
■学習院
明治10年(1877)に華族会館による市立の華族学校として四谷区尾張町(現在の新宿区四谷)に設立。明治17年(1884)宮内庁所轄の官立学校となり、皇族・華族の子弟の教育にあたった。明治41年(1908)に現在地に移転。戦後は学校法人経営の私立大学となった。「学習院」の名は嘉永2年(1849)孝明天皇より「学習院」の勅額が下賜されたことに遡る。 平成21年に構内の7件の建物が国登録文化財となった。
正門。明治41年(1908)の目白移転の際に造られた煉瓦造りの門。国登録文化財。
東別館(旧皇族寮)。大正2年(1913)当時全寮制だった学習院の皇族寮として竣工。木造2階建で、正面玄関には馬車を寄せる車寄せがある。国登録文化財。
北別館(旧図書館)。明治42年(1909)に図書館として竣工した瓦葺の木造平屋建。廊下の持送りや床下換気口は校章である桜の意匠を見ることができる。国登録文化財。
南1号館(旧理科特別教場)。昭和2年(1927)に中等科・高等科の理科特別教場として竣工。1階窓の尖塔アーチ等、垂直性を強調したネオゴシック様式の鉄筋コンクリート造の建物。国登録文化財。
西1号館(旧中等科教場)。昭和5年(1930)に中等科教場として竣工。南1号館と同様、ネオゴシック様式を基調とした鉄筋コンクリート造の建物。国登録文化財。
厩舎。明治41年(1908)に建てられた木造平屋建の厩舎。昭和2年(1927)に現在地に移築。国登録文化財。
榊檀。明治42年(1909)、明治天皇の目白新校舎の行幸の記念に建てられた。周囲に石を巡らして築いた前方後円風の壇。石の一部は院長乃木希典が当時の日本の国境から集めたもの。
乃木館(旧総寮部)。明治41年(1908)竣工の木造平屋建の建物。竣工当時は乃木希典が起居した院長室、会議室、事務室、購買部、倉庫などで構成されていたが、昭和19年(1944)の取り壊しの際に、院長室を「乃木館」として保存、この地に移築。国登録文化財。
血洗いの池。湧水でできた池で、昔は灌漑に用いられた。学習院の構内になってから、赤穂浪士の一人、堀部安兵衛が高田馬場の決闘で叔父の仇を討った際、この池で刀を洗ったという伝説ができ、「血洗いの池」と呼ばれるようになった。
■宿坂
目白通りから今乗院までを下る緩やかな長い坂。坂の名は中世に宿坂の関と呼ばれる場所がこの辺りにあったことから由来すると言われる。江戸時代には樹木が生い茂り昼でも暗く、くらやみ坂と呼ばれ狐狸が通行人を化かしたと言い伝えられている。
現在は狐狸が出てきそうもない明るい雰囲気の坂。
■金乗院
天正年間(1573~1592)創建の真言宗の寺院。目白の地名の由来でもある、江戸五色不動の一つの目白不動尊は、文京区関口の新長谷寺にあったが戦災により焼失したため、戦後当時に移された。
不動堂。
倶利伽羅不動庚申塔。寛文6年(1666)に建てられた庚申塔。
丸橋忠弥の墓。槍の名人で、慶安4(1651)由井正雪らと幕府転覆を謀り鈴が森で処刑された。
■のぞき坂
宿坂の西側に平行している急で短い坂で、東京で最も急な坂と言われる。別名、胸突坂。
あまりに急な坂なのでボールを落としてどのくらい速く転がるか見てみたくなる・・・。
■目白庭園
滝に築山、池を配した伝統的な回遊式庭園。池に面して立つ茶室「赤鳥庵」は、大正7年(1918)にこの地で創刊された童話雑誌「赤い鳥」に由来する。
■目白千種画廊
大正7年(1918)に童話雑誌「赤い鳥」を創刊した鈴木三重吉の旧宅兼赤い鳥社跡。「赤い鳥」は昭和11年(1936)まで発行され、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」や有島武郎「ひとふさの葡萄」などの童話から、北原白秋の「赤い鳥小鳥」、西条八十の「かなりや」などの童謡まで、多くの傑作が発表され、児童文学の育成に大きな役割を果たした。
■学習院
明治10年(1877)に華族会館による市立の華族学校として四谷区尾張町(現在の新宿区四谷)に設立。明治17年(1884)宮内庁所轄の官立学校となり、皇族・華族の子弟の教育にあたった。明治41年(1908)に現在地に移転。戦後は学校法人経営の私立大学となった。「学習院」の名は嘉永2年(1849)孝明天皇より「学習院」の勅額が下賜されたことに遡る。 平成21年に構内の7件の建物が国登録文化財となった。
正門。明治41年(1908)の目白移転の際に造られた煉瓦造りの門。国登録文化財。
東別館(旧皇族寮)。大正2年(1913)当時全寮制だった学習院の皇族寮として竣工。木造2階建で、正面玄関には馬車を寄せる車寄せがある。国登録文化財。
北別館(旧図書館)。明治42年(1909)に図書館として竣工した瓦葺の木造平屋建。廊下の持送りや床下換気口は校章である桜の意匠を見ることができる。国登録文化財。
南1号館(旧理科特別教場)。昭和2年(1927)に中等科・高等科の理科特別教場として竣工。1階窓の尖塔アーチ等、垂直性を強調したネオゴシック様式の鉄筋コンクリート造の建物。国登録文化財。
西1号館(旧中等科教場)。昭和5年(1930)に中等科教場として竣工。南1号館と同様、ネオゴシック様式を基調とした鉄筋コンクリート造の建物。国登録文化財。
厩舎。明治41年(1908)に建てられた木造平屋建の厩舎。昭和2年(1927)に現在地に移築。国登録文化財。
榊檀。明治42年(1909)、明治天皇の目白新校舎の行幸の記念に建てられた。周囲に石を巡らして築いた前方後円風の壇。石の一部は院長乃木希典が当時の日本の国境から集めたもの。
乃木館(旧総寮部)。明治41年(1908)竣工の木造平屋建の建物。竣工当時は乃木希典が起居した院長室、会議室、事務室、購買部、倉庫などで構成されていたが、昭和19年(1944)の取り壊しの際に、院長室を「乃木館」として保存、この地に移築。国登録文化財。
血洗いの池。湧水でできた池で、昔は灌漑に用いられた。学習院の構内になってから、赤穂浪士の一人、堀部安兵衛が高田馬場の決闘で叔父の仇を討った際、この池で刀を洗ったという伝説ができ、「血洗いの池」と呼ばれるようになった。
■宿坂
目白通りから今乗院までを下る緩やかな長い坂。坂の名は中世に宿坂の関と呼ばれる場所がこの辺りにあったことから由来すると言われる。江戸時代には樹木が生い茂り昼でも暗く、くらやみ坂と呼ばれ狐狸が通行人を化かしたと言い伝えられている。
現在は狐狸が出てきそうもない明るい雰囲気の坂。
■金乗院
天正年間(1573~1592)創建の真言宗の寺院。目白の地名の由来でもある、江戸五色不動の一つの目白不動尊は、文京区関口の新長谷寺にあったが戦災により焼失したため、戦後当時に移された。
不動堂。
倶利伽羅不動庚申塔。寛文6年(1666)に建てられた庚申塔。
丸橋忠弥の墓。槍の名人で、慶安4(1651)由井正雪らと幕府転覆を謀り鈴が森で処刑された。
■のぞき坂
宿坂の西側に平行している急で短い坂で、東京で最も急な坂と言われる。別名、胸突坂。
あまりに急な坂なのでボールを落としてどのくらい速く転がるか見てみたくなる・・・。