(その2はこちら)
■遊行寺
時宗総本山。鎌倉時代・正中2年(1325)、遊行四代呑海上人が創建。正式には清浄光寺。
「遊行」とは、僧侶が修行・勧進のため諸国を巡り歩くことを言い、歴代の上人が各地を遊行し続けたことから、このように名づけられた。呑海上人以降の遊行上人は譲位すると藤沢上人を称して遊行寺の住職になり、藤沢は諸国遊行の重要拠点となった。

総門。冠木門という形式の門で通称「黒門」と呼ばれる。

いろは坂。江戸時代中期に再建されたと伝えられる48段のなだらかな石段で、いろは四十八文字にちなみいろは坂と呼ばれる。また阿弥陀仏の四十八願にたとえて、四十八段とも呼ばれる。

本堂。

いちょう。樹高約21メートル、幹の周囲が7.1メートルの巨木で遊行寺のシンボル。樹齢は不明。

敵御方供養塔(怨親平等碑)。室町時代・応永23年(1416)に、上杉禅秀の乱で戦死した敵・味方(御方)を供養するために建立。上杉禅秀の乱は、鎌倉公方の足利持氏に対し、その補佐役の上杉氏憲(禅秀)が起こした乱で、幕府は持氏を援助したため氏憲は敗れた。乱は鎌倉から関東各地に広がり、両方に死傷者が多く出た。
供養塔は住職が遊行十四代太空上人の時代に足利持氏が発願主となって建立されたと考えられている。
敵味方の区別なく平等に供養した石塔は他にもあるが、この石塔はその中でも古く、大正15年(1926)に国の史跡に指定された。

一遍上人像。

全員容貌が異なる六地蔵。

中雀門。江戸時代・安政年間(1854~60)に建造。明治13年(1880)の大火の際に焼失を免れた、遊行寺境内の中で最古の建造物。向唐門で、高さ6メートル、幅3.7メートル。

放生池。江戸時代の5代将軍徳川綱吉の「生類憐れみの令」発布にともない、元禄7年(1694)に「江戸市中の金魚・銀魚を放とうと思うなら遊行寺の放生池で放ち、その数など正直に報告しなさい」とのお触れがでたとの記録がある。

明治天皇御膳水。明治天皇がたびたび遊行寺にお泊りになった際にお使いになった井戸。

宝物館。昭和50年(1975)開宗七百年記念に開館。仏教美術を中心とした多数の絵画、書跡、工芸、時宗に関する中世・近世文書を収蔵。
■長生院
「小栗堂」とも呼ばれる時宗の寺院。浄瑠璃や歌舞伎などで名高い小栗判官・照手姫ゆかりの寺院で、境内には小栗判官と10人の家臣、照手姫の墓がある。江戸時代の東海道道中案内記には、必ずと言って良い程長生院の「小栗判官・照手姫」伝説が紹介されていたほど人々に知られていた。
小栗判官・照手姫伝説は以下の通り。室町時代・応永29年(1422)常陸小栗の城主、判官満重が、足利持氏に攻められて落城、その子判官助重が、家臣10人と三河に逃げのびる途中、この藤沢で横山太郎に毒殺されかけたが、妓女照手が助重らを逃がし、一行は遊行上人に助けられた。その後、助重は家名を再興し、照手を妻に迎えた。助重の死後、照手は髪を落とし長生尼と名のり、助重と家臣10人の墓を守り、余生を長生院で過ごしたとされる。


小栗判官と家臣10人の墓。

照手姫の墓。

照手姫が建立した地蔵。
■遊行寺橋
遊行寺の入り口にある朱塗りの橋。橋の右側に高札場、左側に江の島弁財天の一番目の遙拝鳥居と道標があり、江の島道の起点でもあった。

■おまけ

藤沢市内のマンホールのふた。東海道の松並木を意識しているのか松が描かれる。

同じく藤沢市内のマンホールのふた。藤沢の「藤」にちなむのだろうか。
■遊行寺
時宗総本山。鎌倉時代・正中2年(1325)、遊行四代呑海上人が創建。正式には清浄光寺。
「遊行」とは、僧侶が修行・勧進のため諸国を巡り歩くことを言い、歴代の上人が各地を遊行し続けたことから、このように名づけられた。呑海上人以降の遊行上人は譲位すると藤沢上人を称して遊行寺の住職になり、藤沢は諸国遊行の重要拠点となった。

総門。冠木門という形式の門で通称「黒門」と呼ばれる。

いろは坂。江戸時代中期に再建されたと伝えられる48段のなだらかな石段で、いろは四十八文字にちなみいろは坂と呼ばれる。また阿弥陀仏の四十八願にたとえて、四十八段とも呼ばれる。

本堂。

いちょう。樹高約21メートル、幹の周囲が7.1メートルの巨木で遊行寺のシンボル。樹齢は不明。

敵御方供養塔(怨親平等碑)。室町時代・応永23年(1416)に、上杉禅秀の乱で戦死した敵・味方(御方)を供養するために建立。上杉禅秀の乱は、鎌倉公方の足利持氏に対し、その補佐役の上杉氏憲(禅秀)が起こした乱で、幕府は持氏を援助したため氏憲は敗れた。乱は鎌倉から関東各地に広がり、両方に死傷者が多く出た。
供養塔は住職が遊行十四代太空上人の時代に足利持氏が発願主となって建立されたと考えられている。
敵味方の区別なく平等に供養した石塔は他にもあるが、この石塔はその中でも古く、大正15年(1926)に国の史跡に指定された。

一遍上人像。

全員容貌が異なる六地蔵。

中雀門。江戸時代・安政年間(1854~60)に建造。明治13年(1880)の大火の際に焼失を免れた、遊行寺境内の中で最古の建造物。向唐門で、高さ6メートル、幅3.7メートル。

放生池。江戸時代の5代将軍徳川綱吉の「生類憐れみの令」発布にともない、元禄7年(1694)に「江戸市中の金魚・銀魚を放とうと思うなら遊行寺の放生池で放ち、その数など正直に報告しなさい」とのお触れがでたとの記録がある。

明治天皇御膳水。明治天皇がたびたび遊行寺にお泊りになった際にお使いになった井戸。

宝物館。昭和50年(1975)開宗七百年記念に開館。仏教美術を中心とした多数の絵画、書跡、工芸、時宗に関する中世・近世文書を収蔵。
■長生院
「小栗堂」とも呼ばれる時宗の寺院。浄瑠璃や歌舞伎などで名高い小栗判官・照手姫ゆかりの寺院で、境内には小栗判官と10人の家臣、照手姫の墓がある。江戸時代の東海道道中案内記には、必ずと言って良い程長生院の「小栗判官・照手姫」伝説が紹介されていたほど人々に知られていた。
小栗判官・照手姫伝説は以下の通り。室町時代・応永29年(1422)常陸小栗の城主、判官満重が、足利持氏に攻められて落城、その子判官助重が、家臣10人と三河に逃げのびる途中、この藤沢で横山太郎に毒殺されかけたが、妓女照手が助重らを逃がし、一行は遊行上人に助けられた。その後、助重は家名を再興し、照手を妻に迎えた。助重の死後、照手は髪を落とし長生尼と名のり、助重と家臣10人の墓を守り、余生を長生院で過ごしたとされる。


小栗判官と家臣10人の墓。

照手姫の墓。

照手姫が建立した地蔵。
■遊行寺橋
遊行寺の入り口にある朱塗りの橋。橋の右側に高札場、左側に江の島弁財天の一番目の遙拝鳥居と道標があり、江の島道の起点でもあった。

■おまけ

藤沢市内のマンホールのふた。東海道の松並木を意識しているのか松が描かれる。

同じく藤沢市内のマンホールのふた。藤沢の「藤」にちなむのだろうか。