(その1はこちら)
■鏡山お初の墓
歌舞伎の「加賀見山旧錦絵」の登場人物「鏡山お初」のモデルになったと言われる、本名「松田たつ」の墓。
平塚宿の松田久兵衛の娘たつは、大久保長門守の江戸屋敷の中臈岡本みつ女に奉公していた。みつ女が年寄沢野から侮辱を受け自害すると、たつは直ぐに沢野を訪ね、みつ女の小脇差で仇を討ったと言われる。
墓の傍らには昭和10年(1935)建立の松田たつの顕彰碑がある。
たつの墓。
顕彰碑。
■春日神社
鎌倉時代・建久3年(1192)に源頼朝が北条政子の安産祈願に神馬を奉納した。もともと社地は海岸の方にあったが津波により破損し、現在の地に移転したと伝えられる。
子供に乳を含ませる狛犬。
■京方見附跡
宿場の京都側の出入口跡。初代歌川広重の「東海道五十三次 平塚宿」はこのあたりからの風景と考えられている。
■高麗山
湘南平の東側に位置する海抜165メートルの山。奈良時代にこの山側一帯に高句麗からの渡来人が居住し集落を作ったことから高麗山の名前がついたといわれる。
歌川広重の東海道五十三次シリーズの平塚宿と大磯宿にも描かれている。江戸時代まで山全体が高麗寺の霊域として保護されてきたため、多種多様な自然の宝庫となっており、神奈川県の天然記念物に指定されている。
歌川広重の「東海道五十三次 平塚」。
■高来神社
創建年代は不明。江戸時代までは高麗寺に属し、明治元年(1868)の神仏分離によって高麗寺は廃寺となり、高麗神社となり、明治30年に高来神社と改称。4月の高麗寺祭では、高来神社から高麗山山頂まで神輿を引き上げていく山神輿が行われる。
■化粧井戸
「曽我物語」の主人公の兄の曽我十郎の恋人、虎御前がこの井戸の水を汲んで化粧をしたことから名づけられたといわれる井戸。大磯には虎御前ゆかりの場所がいくつか残る。
曽我物語は、鎌倉時代・建久4年(1193)に源頼朝が行った富士の巻狩の陣屋で、曽我十郎・五郎の兄弟が工藤祐経を殺害し父の仇を討った事件を元に作られた物語で、民衆の人気を呼び文学や芸能の分野で盛んに取り上げられた。江戸時代には歌舞伎にも取り上げられ人気を博した。
■化粧坂一里塚跡
江戸日本橋から16番目の一里塚の跡。一里塚は、江戸時代に主要な街道に日本橋を基点として1里(約4キロメートル)ごとに設置された塚で、旅人の里程標や馬や籠の運賃の目安とされた。塚の上に植えられた木は日陰を作り風除けとなり旅人の格好の休憩所にもなった。化粧坂一里塚では、海側の塚の上には榎が、山側の塚にはせんだんが植えられていた。
化粧坂。
■江戸見附跡
宿場の江戸側の出入口跡。
江戸見附跡付近の東海道。背の高い松がところどころに残る。
■大磯宿
日本橋から16里27町(約65.7キロメートル)の距離にあった江戸から8番目の宿場。前の宿場の大磯宿から27町(約2.9キロメートル)、次の宿場の小田原宿へは4里(約15.7キロメートル)あった。
天保14年(1843)の記録によると人口3,056人、家数676軒、本陣3軒、脇本陣0軒、旅籠66軒。
宿場の形成は鎌倉期にさかのぼり、「吾妻鏡」では平安時代・文治4年(1188)に奥州平泉の藤原泰衡から朝廷へ進納する品が「大磯駅」に着いたとの記載がある。また、平安時代・建仁元年(1201)に源頼家が「大磯」に止宿したとあり、鎌倉に近い交通の要所として繁栄した様子がうかがえる。東海道の宿場には、慶長6年(1601)に指定。
■延台寺
桃山時代・慶長4年(1599)創建の日蓮宗の寺院。曽我物語の登場人物の虎御前が曽我兄弟亡き後、尼となりこの地に庵を結んで二人の菩提を弔ったと伝えられている。
曽我堂。虎御石、虎池弁財天(虎御前の父の山下長者が虎御前の誕生前に子宝に恵まれるよう願をかけた)、曽我兄弟座像、虎御前19歳剃髪之像、歌川広重、葛飾北斎らの曽我物語を題材とした浮世絵等が奉安されている。
虎御石。周囲 86cm、重さ130kgの石。石は虎御前の成長と共に大きくなり、工藤祐経が曽我十郎を返り討ちにしようとした折に、十郎の身代わりとなって矢や刀をうけ十郎を救ったと伝えられる。毎年5月の虎御石まつりで開帳。
虎女供養塔。
虎池弁財天の碑。
虎御前祈願の竜神。
子授け祈願の石仏。
大磯宿遊女の墓。
■鏡山お初の墓
歌舞伎の「加賀見山旧錦絵」の登場人物「鏡山お初」のモデルになったと言われる、本名「松田たつ」の墓。
平塚宿の松田久兵衛の娘たつは、大久保長門守の江戸屋敷の中臈岡本みつ女に奉公していた。みつ女が年寄沢野から侮辱を受け自害すると、たつは直ぐに沢野を訪ね、みつ女の小脇差で仇を討ったと言われる。
墓の傍らには昭和10年(1935)建立の松田たつの顕彰碑がある。
たつの墓。
顕彰碑。
■春日神社
鎌倉時代・建久3年(1192)に源頼朝が北条政子の安産祈願に神馬を奉納した。もともと社地は海岸の方にあったが津波により破損し、現在の地に移転したと伝えられる。
子供に乳を含ませる狛犬。
■京方見附跡
宿場の京都側の出入口跡。初代歌川広重の「東海道五十三次 平塚宿」はこのあたりからの風景と考えられている。
■高麗山
湘南平の東側に位置する海抜165メートルの山。奈良時代にこの山側一帯に高句麗からの渡来人が居住し集落を作ったことから高麗山の名前がついたといわれる。
歌川広重の東海道五十三次シリーズの平塚宿と大磯宿にも描かれている。江戸時代まで山全体が高麗寺の霊域として保護されてきたため、多種多様な自然の宝庫となっており、神奈川県の天然記念物に指定されている。
歌川広重の「東海道五十三次 平塚」。
■高来神社
創建年代は不明。江戸時代までは高麗寺に属し、明治元年(1868)の神仏分離によって高麗寺は廃寺となり、高麗神社となり、明治30年に高来神社と改称。4月の高麗寺祭では、高来神社から高麗山山頂まで神輿を引き上げていく山神輿が行われる。
■化粧井戸
「曽我物語」の主人公の兄の曽我十郎の恋人、虎御前がこの井戸の水を汲んで化粧をしたことから名づけられたといわれる井戸。大磯には虎御前ゆかりの場所がいくつか残る。
曽我物語は、鎌倉時代・建久4年(1193)に源頼朝が行った富士の巻狩の陣屋で、曽我十郎・五郎の兄弟が工藤祐経を殺害し父の仇を討った事件を元に作られた物語で、民衆の人気を呼び文学や芸能の分野で盛んに取り上げられた。江戸時代には歌舞伎にも取り上げられ人気を博した。
■化粧坂一里塚跡
江戸日本橋から16番目の一里塚の跡。一里塚は、江戸時代に主要な街道に日本橋を基点として1里(約4キロメートル)ごとに設置された塚で、旅人の里程標や馬や籠の運賃の目安とされた。塚の上に植えられた木は日陰を作り風除けとなり旅人の格好の休憩所にもなった。化粧坂一里塚では、海側の塚の上には榎が、山側の塚にはせんだんが植えられていた。
化粧坂。
■江戸見附跡
宿場の江戸側の出入口跡。
江戸見附跡付近の東海道。背の高い松がところどころに残る。
■大磯宿
日本橋から16里27町(約65.7キロメートル)の距離にあった江戸から8番目の宿場。前の宿場の大磯宿から27町(約2.9キロメートル)、次の宿場の小田原宿へは4里(約15.7キロメートル)あった。
天保14年(1843)の記録によると人口3,056人、家数676軒、本陣3軒、脇本陣0軒、旅籠66軒。
宿場の形成は鎌倉期にさかのぼり、「吾妻鏡」では平安時代・文治4年(1188)に奥州平泉の藤原泰衡から朝廷へ進納する品が「大磯駅」に着いたとの記載がある。また、平安時代・建仁元年(1201)に源頼家が「大磯」に止宿したとあり、鎌倉に近い交通の要所として繁栄した様子がうかがえる。東海道の宿場には、慶長6年(1601)に指定。
■延台寺
桃山時代・慶長4年(1599)創建の日蓮宗の寺院。曽我物語の登場人物の虎御前が曽我兄弟亡き後、尼となりこの地に庵を結んで二人の菩提を弔ったと伝えられている。
曽我堂。虎御石、虎池弁財天(虎御前の父の山下長者が虎御前の誕生前に子宝に恵まれるよう願をかけた)、曽我兄弟座像、虎御前19歳剃髪之像、歌川広重、葛飾北斎らの曽我物語を題材とした浮世絵等が奉安されている。
虎御石。周囲 86cm、重さ130kgの石。石は虎御前の成長と共に大きくなり、工藤祐経が曽我十郎を返り討ちにしようとした折に、十郎の身代わりとなって矢や刀をうけ十郎を救ったと伝えられる。毎年5月の虎御石まつりで開帳。
虎女供養塔。
虎池弁財天の碑。
虎御前祈願の竜神。
子授け祈願の石仏。
大磯宿遊女の墓。