東海道散歩9回目のこの日は小田原駅から箱根湯本駅までの東海道を歩いた。 当初予定していた日が雪になったためこの日に延期。天気は割とよかった。 参加者は管理人も含め8名で、男性4名、女性4名(参加者の皆様、ありがとうございました)。
管理人にとって印象に残ったのは小田原城址公園、松永記念館、板橋~箱根湯本の旧東海道。
小田原城址公園の天守閣や門は昭和・平成になって復元されたものだったが、堀や石垣などとともに往時をしのぶことができた。天守閣の中の展示物がなかなか興味深かった。
松永記念館は落ち着いた雰囲気でよかった。 開催中の小田原の街の成り立ちを紹介する展覧会は勉強になった。老欅荘の広間での休憩はくつろげた。イベントでなければずっとあの場所に座ってボーっとしていそうだ。
板橋~箱根湯本の旧東海道は道幅が狭く、古い家がところどころにあり、江戸時代の街道だったことを多少なりとも感じ取ることができた。このような細い道を歩くのは楽しい。
板橋を過ぎるとゆるやかな上り坂が続き、少しずつ箱根に近づいていることを実感。来月は、箱根湯本から険しい上り坂を歩き続ける。来月のコースは下見をしていないのでどのような散歩になるかドキドキしている。
【コース】
小田原駅→北条氏政・氏照の墓所→幸田口門跡→小田原城址公園(馬出門→銅門→常盤木門→天守閣)→報徳二宮神社→小田原城址公園(御感の藤→郷土文化館)→箱根口門跡→大久寺→居神神社→伝肇寺→板橋見附→松永記念館→秋葉山量学院→板橋地蔵尊→小田原用水取入口→箱根湯本駅
(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)
■北条氏政・氏照の墓所
北条氏政は北条氏4代の領主で、氏照は、氏政の弟で八王子城などの5つの城の城主。
安土桃山時代・天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原城が落城すると、時の城主5代氏直は高野山に追放され、父氏政、その弟氏照の両人は責任を負って自刃。遺骸は当時この寺にあった北条氏の氏寺の伝心庵に埋葬された(現在、永久寺の所有)。
墓所は永く放置されていたが、稲葉氏が城主の頃、北条氏追福のために整備。関東大震災の被害にあったが、翌年復興。
3基の五輪塔は大きい順から氏政夫人、氏政、氏照の墓と伝えられる。生害石は氏政・氏照がこの石上で自害したと伝えられる。
数多くの「幸せの鈴」。「幸せの鈴」は、鈴に願いをかけて持ち帰り、願いがかなったらこの場所に返しにくるというもの。
■幸田口門跡
小田原城の三の丸の門の跡で、戦国時代の永禄4年(1561)年に上杉謙信が、同12年(1569)に武田信玄が侵攻した際には攻略口となったといわれる。三の丸の土塁が残る。
イベント開催日の数日前に、小田原城の幸田口門跡から漆塗りの弓や鉛製鉄砲玉などが見つかった、とのニュースが。出土品は戦国時代の小田原攻めに使った武具の可能性があるとのこと。
「戦国時代の小田原城の遺構から弓など出土、上杉謙信や武田信玄の小田原攻めの弓か/神奈川」 カナロコ 2月15日(火)15時0分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110215-00000037-kana-l14
説明板の地図。
■小田原城址公園
小田原城の本丸を中心に整備した公園で、天守閣などの史跡の他、遊園地やガラス工芸品を展示する小田原城ミューゼ、小田原の歴史を模型や映像で分かりやすく展示する小田原城歴史見聞館がある。
平成18年に、国土交通省「日本の歴史公園100選」に選ばれた。
■小田原城
15世紀中ごろに大森氏が築いた山城が前身で、戦国大名小田原北条氏の居城となってから次第に拡張整備、豊臣秀吉の小田原攻めに備えて延長9キロメートルに及ぶ総構の完成により日本最大の中世城郭に発展。
江戸時代に徳川家康の家臣大久保氏が城主となると城が改修され近代城郭の姿になった。稲葉氏が城主の時代には大規模な改修工事を実施。再度大久保氏が城主となると、箱根を控えた関東地方防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担ってきた。
明治3年(1870)に廃城となり、建物は解体され、残っていた石垣も大正12年(1923)の関東大震災により崩壊した。
現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と総構の一部が国の史跡に指定されており、現在も整備が続けられている。
堀。堀の向こう側には隅櫓と馬出門が見える。
本丸東堀跡。
■馬出門
馬出門は、二の丸正面に位置する門で、江戸時代の初期からこの場所に存在し、寛文12年(1672)に桝形門形式に改修され、江戸時代の終わりまで存続した。平成21年復元。
■銅門
二の丸の正門で、江戸時代には馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って二の丸御屋形や本丸、天守閣へと進むようになっていた。門の名前は、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことに由来。明治5年(1872)に解体。平成9年(1997)復元。
■常盤木門
本丸の正門で、城門の中でも最も大きく堅固に造られていた門。江戸時代・宝永3年(1706)に桝形門形式で再建。昭和46年(1971)に復興。門の名前は、門のそばに松が植えられていたことから由来。
■天守閣
江戸時代・宝永3年(1706)再建。明治3年(1870)の廃城まで存在していた。
現在の天守閣は、昭和35年(1960)に、市制20周年の記念事業として復興したもので、宝永時代の再建時の設計図や模型を参考に、鉄筋コンクリートで外観を復元。内部には、古文書、絵図、武具、刀剣などの歴史資料が展示されている。
標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができる。
天守閣から相模湾を眺める。
天守閣から箱根方面を眺める。これからあの山々を越えていくのか・・・。
解体される天守閣の写真。明治3年(1870)。
天守台の上には旧城主の大久保氏を祀る神社が建てられる。明治26年(1893)。
天守台の上になんと観覧車が・・・(笑)。昭和30年(1955)。
管理人にとって印象に残ったのは小田原城址公園、松永記念館、板橋~箱根湯本の旧東海道。
小田原城址公園の天守閣や門は昭和・平成になって復元されたものだったが、堀や石垣などとともに往時をしのぶことができた。天守閣の中の展示物がなかなか興味深かった。
松永記念館は落ち着いた雰囲気でよかった。 開催中の小田原の街の成り立ちを紹介する展覧会は勉強になった。老欅荘の広間での休憩はくつろげた。イベントでなければずっとあの場所に座ってボーっとしていそうだ。
板橋~箱根湯本の旧東海道は道幅が狭く、古い家がところどころにあり、江戸時代の街道だったことを多少なりとも感じ取ることができた。このような細い道を歩くのは楽しい。
板橋を過ぎるとゆるやかな上り坂が続き、少しずつ箱根に近づいていることを実感。来月は、箱根湯本から険しい上り坂を歩き続ける。来月のコースは下見をしていないのでどのような散歩になるかドキドキしている。
【コース】
小田原駅→北条氏政・氏照の墓所→幸田口門跡→小田原城址公園(馬出門→銅門→常盤木門→天守閣)→報徳二宮神社→小田原城址公園(御感の藤→郷土文化館)→箱根口門跡→大久寺→居神神社→伝肇寺→板橋見附→松永記念館→秋葉山量学院→板橋地蔵尊→小田原用水取入口→箱根湯本駅
(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)
■北条氏政・氏照の墓所
北条氏政は北条氏4代の領主で、氏照は、氏政の弟で八王子城などの5つの城の城主。
安土桃山時代・天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原城が落城すると、時の城主5代氏直は高野山に追放され、父氏政、その弟氏照の両人は責任を負って自刃。遺骸は当時この寺にあった北条氏の氏寺の伝心庵に埋葬された(現在、永久寺の所有)。
墓所は永く放置されていたが、稲葉氏が城主の頃、北条氏追福のために整備。関東大震災の被害にあったが、翌年復興。
3基の五輪塔は大きい順から氏政夫人、氏政、氏照の墓と伝えられる。生害石は氏政・氏照がこの石上で自害したと伝えられる。
数多くの「幸せの鈴」。「幸せの鈴」は、鈴に願いをかけて持ち帰り、願いがかなったらこの場所に返しにくるというもの。
■幸田口門跡
小田原城の三の丸の門の跡で、戦国時代の永禄4年(1561)年に上杉謙信が、同12年(1569)に武田信玄が侵攻した際には攻略口となったといわれる。三の丸の土塁が残る。
イベント開催日の数日前に、小田原城の幸田口門跡から漆塗りの弓や鉛製鉄砲玉などが見つかった、とのニュースが。出土品は戦国時代の小田原攻めに使った武具の可能性があるとのこと。
「戦国時代の小田原城の遺構から弓など出土、上杉謙信や武田信玄の小田原攻めの弓か/神奈川」 カナロコ 2月15日(火)15時0分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110215-00000037-kana-l14
説明板の地図。
■小田原城址公園
小田原城の本丸を中心に整備した公園で、天守閣などの史跡の他、遊園地やガラス工芸品を展示する小田原城ミューゼ、小田原の歴史を模型や映像で分かりやすく展示する小田原城歴史見聞館がある。
平成18年に、国土交通省「日本の歴史公園100選」に選ばれた。
■小田原城
15世紀中ごろに大森氏が築いた山城が前身で、戦国大名小田原北条氏の居城となってから次第に拡張整備、豊臣秀吉の小田原攻めに備えて延長9キロメートルに及ぶ総構の完成により日本最大の中世城郭に発展。
江戸時代に徳川家康の家臣大久保氏が城主となると城が改修され近代城郭の姿になった。稲葉氏が城主の時代には大規模な改修工事を実施。再度大久保氏が城主となると、箱根を控えた関東地方防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担ってきた。
明治3年(1870)に廃城となり、建物は解体され、残っていた石垣も大正12年(1923)の関東大震災により崩壊した。
現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と総構の一部が国の史跡に指定されており、現在も整備が続けられている。
堀。堀の向こう側には隅櫓と馬出門が見える。
本丸東堀跡。
■馬出門
馬出門は、二の丸正面に位置する門で、江戸時代の初期からこの場所に存在し、寛文12年(1672)に桝形門形式に改修され、江戸時代の終わりまで存続した。平成21年復元。
■銅門
二の丸の正門で、江戸時代には馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って二の丸御屋形や本丸、天守閣へと進むようになっていた。門の名前は、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことに由来。明治5年(1872)に解体。平成9年(1997)復元。
■常盤木門
本丸の正門で、城門の中でも最も大きく堅固に造られていた門。江戸時代・宝永3年(1706)に桝形門形式で再建。昭和46年(1971)に復興。門の名前は、門のそばに松が植えられていたことから由来。
■天守閣
江戸時代・宝永3年(1706)再建。明治3年(1870)の廃城まで存在していた。
現在の天守閣は、昭和35年(1960)に、市制20周年の記念事業として復興したもので、宝永時代の再建時の設計図や模型を参考に、鉄筋コンクリートで外観を復元。内部には、古文書、絵図、武具、刀剣などの歴史資料が展示されている。
標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができる。
天守閣から相模湾を眺める。
天守閣から箱根方面を眺める。これからあの山々を越えていくのか・・・。
解体される天守閣の写真。明治3年(1870)。
天守台の上には旧城主の大久保氏を祀る神社が建てられる。明治26年(1893)。
天守台の上になんと観覧車が・・・(笑)。昭和30年(1955)。