東海道散歩8の2日目のこの日は二宮駅から小田原駅まで東海道沿いを歩いた。参加者は管理人も含め6名で、男性3名、女性3名(参加者の皆様、ありがとうございました)。初参加の方は1名。
この日は大変天気に恵まれ、昼間は上着を脱ぐほどの暖かさだった。あちこちでどんど焼きが行われていた。地域の人たちが集まってにぎやかに楽しんでいるのはいいものだ。
富士山は青空の下くっきりと美しく見えた。ただ建物や電線などが邪魔していたのは残念だが。青空の広がる相模湾はより青さが引き立っていた。
今回初めて2日連続イベントを行った。体力が持つか心配だったがなんとかなったので個人的にはホッとしている。
江戸から9番目の宿場の小田原宿に入った。神奈川県内の宿場9箇所のうち8箇所を訪れたことになり、いよいよ箱根宿を残すのみとなった。昨年6月から毎月東海道を歩いているが、ここまできたのかと思うと感慨深いものがある。
【コース】
二宮駅→ガラスのうさぎ像→一里塚跡→梅沢立場跡→松屋本陣跡→車坂碑→大山道道標→長泉寺→真楽寺→小八幡の一里塚→酒匂の渡し跡→新田義貞の首塚→上杉龍若丸墓→江戸口見附・一里塚跡→蓮上院土塁→北條稲荷→明治天皇宮ノ前行在所→松原神社→小田原宿なりわい交流館→徳常院→明治天皇本町行在所→滄浪閣跡→御幸の浜→小田原駅
(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)
■ガラスのうさぎ像
昭和56年(1981)に平和祈念のために建立された、戦争体験記「ガラスのうさぎ」(高木敏子著)の主人公の像。昭和20年(1945)8月の空襲で当時12歳の少女だった主人公は二宮駅で父を失った。少女が胸に抱えているのは、父の形見となったガラスのうさぎ。
■一里塚跡
江戸日本橋から18番目の一里塚の跡。一里塚は、江戸時代に主要な街道に日本橋を基点として1里(約4キロメートル)ごとに設置された塚で、旅人の里程標や馬や籠の運賃の目安とされた。塚の上に植えられた木は日陰を作り風除けとなり旅人の格好の休憩所にもなった。ここの一里塚では、高さ1丈2尺(約3.6メートル)の海側の塚の上には榎が、高さ1丈(約3.3メートル)の山側の塚の上にはケヤキが植えられていた。
■梅沢立場跡
立場は宿場と宿場の間にある村(間の村)の中で、人や馬が休憩する場所。梅沢立場は、大磯宿~小田原宿の距離が約16キロメートルと長い上に、押切坂や酒匂川を手前に控えていることから多くの旅人で賑わった。
現在は閑静な住宅街。直進すると下り坂の押切坂になる。
■松屋本陣跡
梅沢立場にあった、勅使や、公家、大名、幕府の公用旅行者等の休憩所。17世紀中頃には旅人に酒肴を供しており、江戸時代後期の寺社参り流行にともない、庶民が泊まるようになった。本陣職を務めた和田家には、宝永5年(1708)から約160年にわたって記録された宿帳の「御休帳」が残る。
説明板は和田さんのお住まいの敷地内にあった。和田家の子孫の方だろう。
■車坂碑
「平安紀行」の作者といわれる大田道潅、鎌倉3代将軍源実朝、「十六夜日記」の作者の阿仏尼がこの付近の情景を詠んだ歌が掲げられている。
車坂碑の手前の東海道からは相模湾が見えた。
■大山道道標
彩色された不動明王が乗っている道標。
■長泉寺
臨済宗。明治26年(1893)、詩人・評論家の北村透谷が家族とともに当寺に滞在していたときに、透谷を尊敬していた島崎藤村が彼を訪ねた。この時の模様は明治41年(1908)に藤村が発表した小説「春」に詳しく描かれ、前川のみかん畑、村の様子、透谷・藤村が二人で泳いだ海岸の描写など当時の様子を今に伝える。
山門からは海が見える。
境内の外にはみかん畑が広がる。
■真楽寺
古くは聖徳太子の所縁によって創建された天台宗の古刹だったが、親鸞上人がこの寺に居住した縁で浄土真宗に改宗、親鸞上人に「真楽寺」と命名された。
帰命石。親鸞上人が石に指頭で名号を書いたといわれる2メートルほどの石。
ボダイジュ。高さ12~16メートル、幹が5つに分かれており、樹齢約370年と推定される。江戸時代に編纂された「新編相模国風土記稿」によると「菩提樹、親鸞手植のものと云、囲7尺」とあり、当時は幹回り2.1メートルの大樹で、単幹であった事が分かる。幹が複数になったのは今から130年ほど前の火災による損傷のため。
■おまけ
国府津駅から見えた富士山。
どんど焼きが行われる国府津海岸。
国府津駅周辺はレトロな建物多し。
この日は大変天気に恵まれ、昼間は上着を脱ぐほどの暖かさだった。あちこちでどんど焼きが行われていた。地域の人たちが集まってにぎやかに楽しんでいるのはいいものだ。
富士山は青空の下くっきりと美しく見えた。ただ建物や電線などが邪魔していたのは残念だが。青空の広がる相模湾はより青さが引き立っていた。
今回初めて2日連続イベントを行った。体力が持つか心配だったがなんとかなったので個人的にはホッとしている。
江戸から9番目の宿場の小田原宿に入った。神奈川県内の宿場9箇所のうち8箇所を訪れたことになり、いよいよ箱根宿を残すのみとなった。昨年6月から毎月東海道を歩いているが、ここまできたのかと思うと感慨深いものがある。
【コース】
二宮駅→ガラスのうさぎ像→一里塚跡→梅沢立場跡→松屋本陣跡→車坂碑→大山道道標→長泉寺→真楽寺→小八幡の一里塚→酒匂の渡し跡→新田義貞の首塚→上杉龍若丸墓→江戸口見附・一里塚跡→蓮上院土塁→北條稲荷→明治天皇宮ノ前行在所→松原神社→小田原宿なりわい交流館→徳常院→明治天皇本町行在所→滄浪閣跡→御幸の浜→小田原駅
(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)
■ガラスのうさぎ像
昭和56年(1981)に平和祈念のために建立された、戦争体験記「ガラスのうさぎ」(高木敏子著)の主人公の像。昭和20年(1945)8月の空襲で当時12歳の少女だった主人公は二宮駅で父を失った。少女が胸に抱えているのは、父の形見となったガラスのうさぎ。
■一里塚跡
江戸日本橋から18番目の一里塚の跡。一里塚は、江戸時代に主要な街道に日本橋を基点として1里(約4キロメートル)ごとに設置された塚で、旅人の里程標や馬や籠の運賃の目安とされた。塚の上に植えられた木は日陰を作り風除けとなり旅人の格好の休憩所にもなった。ここの一里塚では、高さ1丈2尺(約3.6メートル)の海側の塚の上には榎が、高さ1丈(約3.3メートル)の山側の塚の上にはケヤキが植えられていた。
■梅沢立場跡
立場は宿場と宿場の間にある村(間の村)の中で、人や馬が休憩する場所。梅沢立場は、大磯宿~小田原宿の距離が約16キロメートルと長い上に、押切坂や酒匂川を手前に控えていることから多くの旅人で賑わった。
現在は閑静な住宅街。直進すると下り坂の押切坂になる。
■松屋本陣跡
梅沢立場にあった、勅使や、公家、大名、幕府の公用旅行者等の休憩所。17世紀中頃には旅人に酒肴を供しており、江戸時代後期の寺社参り流行にともない、庶民が泊まるようになった。本陣職を務めた和田家には、宝永5年(1708)から約160年にわたって記録された宿帳の「御休帳」が残る。
説明板は和田さんのお住まいの敷地内にあった。和田家の子孫の方だろう。
■車坂碑
「平安紀行」の作者といわれる大田道潅、鎌倉3代将軍源実朝、「十六夜日記」の作者の阿仏尼がこの付近の情景を詠んだ歌が掲げられている。
車坂碑の手前の東海道からは相模湾が見えた。
■大山道道標
彩色された不動明王が乗っている道標。
■長泉寺
臨済宗。明治26年(1893)、詩人・評論家の北村透谷が家族とともに当寺に滞在していたときに、透谷を尊敬していた島崎藤村が彼を訪ねた。この時の模様は明治41年(1908)に藤村が発表した小説「春」に詳しく描かれ、前川のみかん畑、村の様子、透谷・藤村が二人で泳いだ海岸の描写など当時の様子を今に伝える。
山門からは海が見える。
境内の外にはみかん畑が広がる。
■真楽寺
古くは聖徳太子の所縁によって創建された天台宗の古刹だったが、親鸞上人がこの寺に居住した縁で浄土真宗に改宗、親鸞上人に「真楽寺」と命名された。
帰命石。親鸞上人が石に指頭で名号を書いたといわれる2メートルほどの石。
ボダイジュ。高さ12~16メートル、幹が5つに分かれており、樹齢約370年と推定される。江戸時代に編纂された「新編相模国風土記稿」によると「菩提樹、親鸞手植のものと云、囲7尺」とあり、当時は幹回り2.1メートルの大樹で、単幹であった事が分かる。幹が複数になったのは今から130年ほど前の火災による損傷のため。
■おまけ
国府津駅から見えた富士山。
どんど焼きが行われる国府津海岸。
国府津駅周辺はレトロな建物多し。