生姜ちくわのぶらぶら山日記

趣味の登山を中心としたブログです。2014年11月より日本百名山登山開始、2018年9月23日全座登頂。

2011年1月9日 東海道散歩8(2日目/小田原宿)イベント主催(その1)

2011年01月13日 | 東海道徒歩の旅
東海道散歩8の2日目のこの日は二宮駅から小田原駅まで東海道沿いを歩いた。参加者は管理人も含め6名で、男性3名、女性3名(参加者の皆様、ありがとうございました)。初参加の方は1名。

この日は大変天気に恵まれ、昼間は上着を脱ぐほどの暖かさだった。あちこちでどんど焼きが行われていた。地域の人たちが集まってにぎやかに楽しんでいるのはいいものだ。

富士山は青空の下くっきりと美しく見えた。ただ建物や電線などが邪魔していたのは残念だが。青空の広がる相模湾はより青さが引き立っていた。

今回初めて2日連続イベントを行った。体力が持つか心配だったがなんとかなったので個人的にはホッとしている。

江戸から9番目の宿場の小田原宿に入った。神奈川県内の宿場9箇所のうち8箇所を訪れたことになり、いよいよ箱根宿を残すのみとなった。昨年6月から毎月東海道を歩いているが、ここまできたのかと思うと感慨深いものがある。


【コース】
二宮駅→ガラスのうさぎ像→一里塚跡→梅沢立場跡→松屋本陣跡→車坂碑→大山道道標→長泉寺→真楽寺→小八幡の一里塚→酒匂の渡し跡→新田義貞の首塚→上杉龍若丸墓→江戸口見附・一里塚跡→蓮上院土塁→北條稲荷→明治天皇宮ノ前行在所→松原神社→小田原宿なりわい交流館→徳常院→明治天皇本町行在所→滄浪閣跡→御幸の浜→小田原駅


(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)


■ガラスのうさぎ像
昭和56年(1981)に平和祈念のために建立された、戦争体験記「ガラスのうさぎ」(高木敏子著)の主人公の像。昭和20年(1945)8月の空襲で当時12歳の少女だった主人公は二宮駅で父を失った。少女が胸に抱えているのは、父の形見となったガラスのうさぎ。




■一里塚跡
江戸日本橋から18番目の一里塚の跡。一里塚は、江戸時代に主要な街道に日本橋を基点として1里(約4キロメートル)ごとに設置された塚で、旅人の里程標や馬や籠の運賃の目安とされた。塚の上に植えられた木は日陰を作り風除けとなり旅人の格好の休憩所にもなった。ここの一里塚では、高さ1丈2尺(約3.6メートル)の海側の塚の上には榎が、高さ1丈(約3.3メートル)の山側の塚の上にはケヤキが植えられていた。




■梅沢立場跡
立場は宿場と宿場の間にある村(間の村)の中で、人や馬が休憩する場所。梅沢立場は、大磯宿~小田原宿の距離が約16キロメートルと長い上に、押切坂や酒匂川を手前に控えていることから多くの旅人で賑わった。


現在は閑静な住宅街。直進すると下り坂の押切坂になる。


■松屋本陣跡
梅沢立場にあった、勅使や、公家、大名、幕府の公用旅行者等の休憩所。17世紀中頃には旅人に酒肴を供しており、江戸時代後期の寺社参り流行にともない、庶民が泊まるようになった。本陣職を務めた和田家には、宝永5年(1708)から約160年にわたって記録された宿帳の「御休帳」が残る。


説明板は和田さんのお住まいの敷地内にあった。和田家の子孫の方だろう。


■車坂碑
「平安紀行」の作者といわれる大田道潅、鎌倉3代将軍源実朝、「十六夜日記」の作者の阿仏尼がこの付近の情景を詠んだ歌が掲げられている。




車坂碑の手前の東海道からは相模湾が見えた。


■大山道道標
彩色された不動明王が乗っている道標。




■長泉寺
臨済宗。明治26年(1893)、詩人・評論家の北村透谷が家族とともに当寺に滞在していたときに、透谷を尊敬していた島崎藤村が彼を訪ねた。この時の模様は明治41年(1908)に藤村が発表した小説「春」に詳しく描かれ、前川のみかん畑、村の様子、透谷・藤村が二人で泳いだ海岸の描写など当時の様子を今に伝える。






山門からは海が見える。


境内の外にはみかん畑が広がる。


■真楽寺
古くは聖徳太子の所縁によって創建された天台宗の古刹だったが、親鸞上人がこの寺に居住した縁で浄土真宗に改宗、親鸞上人に「真楽寺」と命名された。




帰命石。親鸞上人が石に指頭で名号を書いたといわれる2メートルほどの石。


ボダイジュ。高さ12~16メートル、幹が5つに分かれており、樹齢約370年と推定される。江戸時代に編纂された「新編相模国風土記稿」によると「菩提樹、親鸞手植のものと云、囲7尺」とあり、当時は幹回り2.1メートルの大樹で、単幹であった事が分かる。幹が複数になったのは今から130年ほど前の火災による損傷のため。


■おまけ


国府津駅から見えた富士山。


どんど焼きが行われる国府津海岸。




国府津駅周辺はレトロな建物多し。








2011年1月8日 東海道散歩8(1日目/平塚宿・大磯宿)イベント主催(その4)

2011年01月12日 | 東海道徒歩の旅
(その3はこちら


■旧島崎藤村宅
島崎藤村が昭和16年(1941)2月から昭和18年(1943)8月に71歳で亡くなるまでの間の2年余を過ごした家。建物は大正後期から昭和初期にかけて別荘等に使用する目的で建築されたものと考えられている。








■上方見附跡
宿場の京都側の出入口跡。




東海道沿いの松並木。


■こゆるぎの浜
大磯の西側に位置する約3キロメートルの自然浜。「ゆるぎ」は「波の動揺」という意味で、古代から「よろぎ」「ゆるぎ」「こよろぎ」「「こゆるぎ」と呼ばれ、万葉集、古今和歌集、新古今和歌集などの歌や日記、紀行文にしばしば登場した。歌枕の「小余綾の磯」は大磯から国府津までの海岸一体を指すといわれる。




■滄浪閣跡
初代総理大臣伊藤博文の旧宅跡。建物は明治29年(1897)に建てられた。明治30年(1898)に伊藤博文が大磯に本籍を移してからは滄浪閣が政治の中心舞台となった。




■旧吉田邸
戦後総理大臣を務めた吉田茂の邸宅。幼少期より養父である吉田健三が大磯に購入した邸宅で過ごし、首相在任中にはここで週末を過ごし、退任後には隠棲生活をした。退任後も政界への影響力は絶大で、多くの政治家が吉田のもとに通い「大磯詣」と称された。平成21年3月に焼失。




■神奈川県立大磯城山公園
旧三井財閥別邸跡に作られた公園。園内には縄文時代の遺跡や、横穴墓、鎌倉古道等が発見され、中世には小磯城が建てられていた。明治31年(1899)に三井財閥本家の別荘地となり、中心的建築物「城山荘」や展望室「降鶴亭」、織田有楽斎が建てた国宝の茶室「如庵」などが建てられた。財閥解体後ほとんどの土地が三井家の手を離れ、残った土地も放置されていたが、
平成2年(1990)に県立公園として公開。






展望台。箱根連山や富士山が目の前にそびえ、伊豆半島と相模湾を一望することができる。関東の富士見百景スポットに選定されている。


夕暮れ時の展望台からの眺め。


夕日に染まる富士山。


■大磯町郷土資料館
大磯と周辺地域に関する展示や教育活動等を行う施設。常設展では「湘南の丘陵と海」を核に「生活の芽生えと定住文化」「相模国府」「街道と宿場」「海水浴場と別荘」の4つのテーマの展示を行う。企画展も開催。




吉田茂の等身大の写真。館内は撮影禁止だがこの写真は撮影可能。


■国府本郷の一里塚跡
江戸日本橋から17番目の一里塚の跡。実際の一里塚はこの場所より200メートル江戸よりに位置していた。




■ガラスのうさぎ像
昭和56年(1981)に平和祈念のために建立された、戦争体験記「ガラスのうさぎ」(高木敏子著)の主人公の像。昭和20年(1945)8月の空襲で当時12歳の少女だった主人公は二宮駅で父を失った。少女が胸に抱えているのは、父の形見となったガラスのうさぎ。


下からライトアップされているので顔が怖く見える。


2011年1月8日 東海道散歩8(1日目/平塚宿・大磯宿)イベント主催(その3)

2011年01月11日 | 東海道徒歩の旅
(その2はこちら


■北組問屋場跡
問屋場は公用旅行者の便をはかるため人足と伝馬を常備し次の宿場まで提供した継立業務、幕府の荷物や手紙を次の宿場に送る飛脚業務の他、大名の出迎えや宿場業務の監督等を行った事務所。大磯宿には北組、南組の2箇所の問屋場があった。




■小島本陣跡
本陣は勅使や、公家、大名、幕府の公用旅行者などが宿泊・休憩するための施設。大磯宿には3軒あった。






■地福寺
平安時代・承和4年(837)創建の真言宗の寺院。






島崎藤村の墓。島崎藤村は明治、大正、昭和に渡って活躍した詩人・小説家で、「破戒」「夜明け前」など多くの作品を残した。昭和16年(1941)1月に藤村が左義長を見に大磯を訪れたところ温暖なこの地が非常に気に入り、昭和18年(1943)8月に71歳で亡くなるまでの間の2年余を大磯で過ごした。


■尾上本陣跡
大磯宿の3軒の本陣のうちの1軒。




■新島襄終焉の地
新島襄(天保14年(1843)~明治23年(1890))はキリスト教主義にもとづく自由教育を唱えた教育家・宗教家で、同志社大学の前身の同志社英学校を開設後、同志社大学設立の企画中に病のために療養先のこの地にあった百足屋旅館で47歳で死去した。石碑は昭和15年(1940)に新島襄の門下生が建立。




■南組問屋場跡
大磯宿のもう1箇所の問屋場。写真撮影するのを忘れた。


■湘南発祥之地の碑
鴫立庵の崇雪が建てた鴫立沢の標石の裏に「著盡湘南清絶地(清らかですがすがしく、このうえもない所、湘南とは何と素晴らしい所)」と刻んだことが湘南の名称発祥とされる。崇雪にとって大磯の「鴫立沢」付近の風景は中国湘江の南方一帯の「湘南」の
美しい景色に似てなんとも美しい場所であった。




■鴫立庵 
京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並ぶ日本三大俳諧道場の一つ。
江戸時代・寛文4年(1664)崇雪が西行の「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮」の名歌にちなみ、昔の沢らしい面影を残す景色の良い場所に鴫立沢の標石を立て、石仏の五智如来像を運んで草庵を結んだのが始まりで、元禄8年(1695)俳諧師の大淀三千風が入庵し、第1世庵主となった。現庵主は第22世。西行、芭蕉を初めとする数多くの句碑が残る。








鴫立沢の標石。レプリカが残る。本物は塩害による磨滅を防ぐため大磯町郷土資料館で保存。


円位堂。等身大の西行の坐像が安置される。


法虎堂。有髪僧体の虎御前19歳の姿を写した木像が安置される。


観音堂。中国の革命家、孫文の持仏が安置される。


五智如来像。釈迦・阿弥陀・大日・薬師・宝生の五仏。当初はこれを本尊として西行寺を作るのが目的だったといわれる。


屋根の下で眠っている猫。

2011年1月8日 東海道散歩8(1日目/平塚宿・大磯宿)イベント主催(その2)

2011年01月10日 | 東海道徒歩の旅
(その1はこちら


■鏡山お初の墓
歌舞伎の「加賀見山旧錦絵」の登場人物「鏡山お初」のモデルになったと言われる、本名「松田たつ」の墓。
平塚宿の松田久兵衛の娘たつは、大久保長門守の江戸屋敷の中臈岡本みつ女に奉公していた。みつ女が年寄沢野から侮辱を受け自害すると、たつは直ぐに沢野を訪ね、みつ女の小脇差で仇を討ったと言われる。
墓の傍らには昭和10年(1935)建立の松田たつの顕彰碑がある。


たつの墓。


顕彰碑。


■春日神社
鎌倉時代・建久3年(1192)に源頼朝が北条政子の安産祈願に神馬を奉納した。もともと社地は海岸の方にあったが津波により破損し、現在の地に移転したと伝えられる。






子供に乳を含ませる狛犬。


■京方見附跡
宿場の京都側の出入口跡。初代歌川広重の「東海道五十三次 平塚宿」はこのあたりからの風景と考えられている。




■高麗山
湘南平の東側に位置する海抜165メートルの山。奈良時代にこの山側一帯に高句麗からの渡来人が居住し集落を作ったことから高麗山の名前がついたといわれる。
歌川広重の東海道五十三次シリーズの平塚宿と大磯宿にも描かれている。江戸時代まで山全体が高麗寺の霊域として保護されてきたため、多種多様な自然の宝庫となっており、神奈川県の天然記念物に指定されている。




歌川広重の「東海道五十三次 平塚」。


■高来神社
創建年代は不明。江戸時代までは高麗寺に属し、明治元年(1868)の神仏分離によって高麗寺は廃寺となり、高麗神社となり、明治30年に高来神社と改称。4月の高麗寺祭では、高来神社から高麗山山頂まで神輿を引き上げていく山神輿が行われる。






■化粧井戸
「曽我物語」の主人公の兄の曽我十郎の恋人、虎御前がこの井戸の水を汲んで化粧をしたことから名づけられたといわれる井戸。大磯には虎御前ゆかりの場所がいくつか残る。
曽我物語は、鎌倉時代・建久4年(1193)に源頼朝が行った富士の巻狩の陣屋で、曽我十郎・五郎の兄弟が工藤祐経を殺害し父の仇を討った事件を元に作られた物語で、民衆の人気を呼び文学や芸能の分野で盛んに取り上げられた。江戸時代には歌舞伎にも取り上げられ人気を博した。




■化粧坂一里塚跡
江戸日本橋から16番目の一里塚の跡。一里塚は、江戸時代に主要な街道に日本橋を基点として1里(約4キロメートル)ごとに設置された塚で、旅人の里程標や馬や籠の運賃の目安とされた。塚の上に植えられた木は日陰を作り風除けとなり旅人の格好の休憩所にもなった。化粧坂一里塚では、海側の塚の上には榎が、山側の塚にはせんだんが植えられていた。




化粧坂。


■江戸見附跡
宿場の江戸側の出入口跡。 




江戸見附跡付近の東海道。背の高い松がところどころに残る。


■大磯宿
日本橋から16里27町(約65.7キロメートル)の距離にあった江戸から8番目の宿場。前の宿場の大磯宿から27町(約2.9キロメートル)、次の宿場の小田原宿へは4里(約15.7キロメートル)あった。
天保14年(1843)の記録によると人口3,056人、家数676軒、本陣3軒、脇本陣0軒、旅籠66軒。
宿場の形成は鎌倉期にさかのぼり、「吾妻鏡」では平安時代・文治4年(1188)に奥州平泉の藤原泰衡から朝廷へ進納する品が「大磯駅」に着いたとの記載がある。また、平安時代・建仁元年(1201)に源頼家が「大磯」に止宿したとあり、鎌倉に近い交通の要所として繁栄した様子がうかがえる。東海道の宿場には、慶長6年(1601)に指定。


■延台寺
桃山時代・慶長4年(1599)創建の日蓮宗の寺院。曽我物語の登場人物の虎御前が曽我兄弟亡き後、尼となりこの地に庵を結んで二人の菩提を弔ったと伝えられている。






曽我堂。虎御石、虎池弁財天(虎御前の父の山下長者が虎御前の誕生前に子宝に恵まれるよう願をかけた)、曽我兄弟座像、虎御前19歳剃髪之像、歌川広重、葛飾北斎らの曽我物語を題材とした浮世絵等が奉安されている。


虎御石。周囲 86cm、重さ130kgの石。石は虎御前の成長と共に大きくなり、工藤祐経が曽我十郎を返り討ちにしようとした折に、十郎の身代わりとなって矢や刀をうけ十郎を救ったと伝えられる。毎年5月の虎御石まつりで開帳。


虎女供養塔。


虎池弁財天の碑。


虎御前祈願の竜神。


子授け祈願の石仏。


大磯宿遊女の墓。

2011年1月8日 東海道散歩8(1日目/平塚宿・大磯宿)イベント主催(その1)

2011年01月09日 | 東海道徒歩の旅
この日と翌日の2日連続で東海道散歩の8回目を開催した。初日のこの日は平塚駅から二宮駅まで東海道沿いを歩いた。参加者は管理人も含め4名で、男性2名、女性2名(参加者の皆様、ありがとうございました)。

天気に恵まれとても歩きやすかった。平塚宿、大磯宿の2つの宿場があったので東海道散歩の中ではわりと立ち寄り場所が多かった。

東海道沿いにところどころ残る松並木には巨木もあった。東海道を旅する人々をずっと見守ってきた木と思うと感慨深いものがある。今後も残ってほしい。

こゆるぎの浜で青空の下の相模湾を眺めているととてもさわやかな気分になった。やはり海はいい。

夕方の城山公園の展望台で見た景色はとてもきれいだった。特に富士山。富士山の美しさは他の山とは比較にならない。



【コース】
平塚駅→お菊塚→江戸見附跡→江戸城の井戸枠→平塚の里歌碑→脇本陣跡→高札場跡→東組問屋場跡→本陣跡→西組問屋場跡→平塚の塚→鏡山お初の墓→春日神社→京方見附跡→高麗山→高来神社→化粧井戸→化粧坂一里塚跡→江戸見附跡→延台寺→北組問屋場跡→小島本陣跡→地福寺→尾上本陣跡→新島襄終焉の地→南組問屋場跡→鴫立庵→旧島崎藤村宅→上方見附跡→こゆるぎの浜→滄浪閣跡→旧吉田邸→神奈川県立大磯城山公園→大磯町郷土資料館→国府本郷の一里塚跡→ガラスのうさぎ像→二宮駅解散

(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)


■お菊塚
怪談「番町皿屋敷」の主人公のお菊にちなんだ塚。
お菊は、平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀見習いのため江戸旗本青山主膳へ奉公中、主人が怨むことあって菊女を斬殺したと言われている。
一説によると、主膳の家来がお菊を見染めたが、お菊がなびかなかったので憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人にお菊が紛失したと告げ、お菊が手打ちにされたとも伝えられている。




■平塚宿
日本橋から16里(約62.8キロメートル)の距離にあった江戸から7番目の宿場。
前の宿場の藤沢宿から3里18町(約13.7キロメートル)、次の宿場の大磯宿へは27町(約2.9キロメートル)あった。
天保14年(1843)の記録によると人口2,114人、家数443軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠54軒。

宿場の形成は鎌倉時代にさかのぼり、正和5年(1316)ごろの書状に「平塚宿」と見えることから、そのころには宿場としての機能を整えていたことがうかがえる。慶長6年(1601)に東海道の宿場に指定される。相模川を利用した物資の集散地として、
また東海道、江戸への抜け道として徳川家康も好んで利用した中原往還、八王子道が通るため交通の要所として栄えた。


■江戸見附跡
宿場の江戸側の出入口跡。
長さ約3.6メートル、幅約1.5メートル、高さ1.6メートルの石垣を台形状に積み頭部を土盛りし、東海道に対して直角に、かつ両側の見附が東西にずれた形で設置されていた。
現在あるのは、明治14年(1881)に駐日イタリア公使が持ち帰った写真をもとに、平成13年(2001)に復元されたもの。




■江戸城の井戸枠
昭和32年(1957)、市制施行25周年に東京都から江戸城の石垣と共に貰い受けた。


井戸枠の内側にはホテイアオイが植えられ金魚が泳いでいた。


■平塚の里歌碑
「平安紀行」の作者(太田道灌という説がある)の「哀れてふ たが世のしるし 朽ちはててかたみもみえぬ 平塚の里」が刻まれる。
室町時代・文明12年(1480)作者が上洛の途中、平塚で昔三浦定可という人がここに住み、ここで没したということを思い出し、その庵の跡、墓所などをたずねたが、誰一人知る者がいなかったので上記の歌を詠んだ。




■脇本陣跡
本陣が混雑した際、本陣の代わりに利用された宿泊・休息施設。平塚宿には1軒あった。




■高札場跡
幕府や領主の法令や通達等を書き記した木の板(高札)を掲げた施設で、隣の藤沢宿と大磯宿までの運賃料金を記載した高札も掲げられていた。平塚宿の高札場は幅2間半(約5メートル)、高さ1丈1尺(約3メートル)の規模だった。




■東組問屋場跡
問屋場は公用旅行者の便をはかるため人足と伝馬を常備し次の宿場まで提供した継立業務、幕府の荷物や手紙を次の宿場に送る飛脚業務の他、大名の出迎えや宿場業務の監督等を行った事務所。平塚宿には問屋場が2箇所あり、二十四軒町にあったのを東組問屋場、西仲町にあったのを西組問屋場と呼んだ。両問屋場は10日交代で執務した。




■本陣跡
本陣は勅使や、公家、大名、幕府の公用旅行者などが宿泊・休憩するための施設。
平塚宿には1軒あり、加藤家が本陣職を務めた。文久3年(1863)、元治2年(1865)に徳川14代将軍家茂が、明治元年(1868)、明治2年に明治天皇が休憩をした、との記録が残る。




■西組問屋場跡
西仲町にあった平塚宿のもう1軒の問屋場の跡。




江戸風の消防団の建物の前に問場跡の石碑が建てられている。


■平塚の塚
平塚の地名の由来となった塚。桓武天皇の孫・高見王の娘、平政子が東国へおもむく途中、平安時代・天安元年(857)にこの地で亡くなったため、墓として塚がつくられた。その塚の上がいつしか平らになったために「平塚」と呼ばれたという。